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2011年3月に作成された投稿

2011/03/19

震災時のゼミナール

震災から1週間が経った。まだ、東北の街は通常の生活ネットワークから外れているところが多い。瓦礫の山が少しずつ片付けられているが、住んでいた人びとの思いはまだ元のままを彷徨っていることが報道されている。思いが砕かれて、家族や近隣の人びとがバラバラになっている様子が知らされる。

避難所生活は、とりあえず生きるというところに中心があって、そこで暮らすわけにはいかない。段ボールの遮りを施しても、私的な空間は破れたままだ。すこしずつ避難所に物資が届けられてきているようだが、余裕があるところは少ない。当分はこちらから寄付が寄せられても、なかなか必要を満たすまでにはいかないだろう。窮乏生活は続くと見られる。

こんな中で、大学院の研究指導ゼミナールの日が来た。みんな働いているので、出席するのが無理な学生が出ることをあらかじめ予想して、いつものように虎ノ門へ集まるのは中止していた。けれども、それじゃ、テレビ会議ですこし余裕がある人だけゼミナールを行なおうか、ということになって、参加者を募ったら、広島、大阪、東京、埼玉、茨城、そしてわたしは横浜からと、合計6名の参加があり、一応ゼミナールの形は保つことができた。考えてみれば、このような緊急の場合こそ、テレビ会議が有効なのだと思う。震災のために市内が断水していて、数日間風呂に入っていない人も参加出来たことを喜びたい。

ゼミナールでは、話に夢中になって聞いていたので、テレビ会議であることを忘れるほどであった。通信なりの成果があったと思われる。だから、ゼミナール自体は成功であったといえる。しかしながら、ゼミナールで問題になったのは、これとはちょっと違ったことだった。

それは、このような時期にゼミナールを開催すること自体の、いわば倫理的な問題に議論があった。ゼミナールの欠席者からは、家族が被災したから、あるいは、毎日徒歩で5時間も会社に通っていて余裕がないから、さらには、職場で東北へ要員を出さなければならないので人の余裕がないからなどという、震災の影響でゼミどころではないという声が聞こえていた。それは、余裕があるならば、ボランティアをしてでも、被災者のために働くべきだ、という暗黙の声となって届いてきていた。

このような時期に、なぜゼミを開くのか。参加者みんなが、この問題は重要だと感じていたから、議論となったのだと思う。まただから、ゼミナールの議論がいつの間にか、震災の問題点へ転じていたこともたびたび起こった。テレビのCMがすべてAC(公共広告機構)になっていて、企業広告が入らなくなったことも、話題となった。なぜ企業は広告を自粛するのだろうか。プロスポーツ開催の自粛問題も雑談に出てきた。いずれにしても、非常時には規制が働いて当然であるという雰囲気があった。

大震災が起こったとき、最初に行なうべきことは、生命の確保であり、これを差し置いて、楽しみに走ったら、社会倫理に反することになるだろう。だから、ゼミナールも直後であったならば、中止した方が良かったかもしれない。けれども、その後は、相対的な問題だ。みんなが非常事態に引き込まれると、かえって日常を回復することから遠のいてしまうこともある。ここは難しいところだ。なぜゼミを開くのか、と問われて、いろいろな理由をつけることは可能であると思われるが、最終的に残るのは個人的な理由や社会的な理由というよりも、もっと超越的な理由なのかもしれない。

80歳を超える学生の方からメールが来て、地震の時に近くのホールへ避難させられて、パイプの椅子にずっとすわっていて、自宅に帰ったのは、鉄道が回復してからで、午前1時を回っていたとのことだった。放送大学生らしいな、と思ったのは、地震にあった場所である。論文を書くために、市立図書館に居たのだという。もう何も言うことはない。

2011/03/11

東日本大震災

Photo地震発生当時は、自宅にいた。めまいのするような揺れに家の外へ飛び出した。隣近所のほとんどの方々が、道へ出てきた。幸いにも、本が棚から落ちて、床がいっぱいになったほどで済んだ。もともと、これだけ散らかっていたという人もいるが。

その後、テレビを見ていて、津波の恐ろしさを感じた。リアス式海岸の谷にしたがって、線的に遡ってくると思っていたが、そうではなく、東北地方のほぼ太平洋側の全面、面的な被害が多いのにびっくりしている。

水がぐっと登ってくる恐怖感は、味わった人にしかわからない感覚かもしれない。上から見ているだけではわからない。量的にも質的にも、川と海の違いは大きい。一度、トンガへ行って海岸から泳ぎ出した海で、大きな波にさわれそうになったことがあるが、水が相手だから、浮かんでしまえばこちらのものだという考えは通用しないことがわかった。

わたしは山国育ちだから、川の感触は何となくわかるのだ。水泳をしていても、岸に達する加減はそれほどのことはない。流れに注意すれば良いのだ。流れの中に、水の秩序が形成されている。けれども、海には一方向への流れというものがないので、それはあたかも現代社会そのものと同じように複雑かつ多様な動きを示す。左右に流れるばかりでなく、上からも下からも流れがある。というよりも、どーんと全体として流されるのだ。

地震になると、徹夜の日に当たるという変なジンクスがある。阪神淡路大震災のときも雑誌の書評原稿が当たっていて、夜明けにニュースに遭遇した。今回は、震災の後すこし余裕があったが、やはり原稿締め切りに当たっていた。

津波のイメージが今回はかなり異なったものだった。江戸時代から、三陸沖ではリアス式海岸になっていて、津波が起こったら、いわばロート状態になり、幅がだんだん狭くなるので、水の勢いが加速度的に速くなり、威力が増すのだ、と言われてきた。これは、小学校、中学校、高校を通じて、地理の時間に教わってきたことだ。だから、津波は広いところから急速に狭いところへ被害をもたらすのだという、イメージであった。

ところが、実際には、テレビのニュース映像に写ったのは、そうではなくて、広いまま海岸線をずっと洗ってしまうという。いわば、面として、あるいは、塊として、家々をさらって行ってしまう姿だ。典型的な映像では、川をさかのぼる水が写っているのだが、その隣では、川の堤防の外側で畑を呑み込みながら、ひたひたと川とおなじスピードで陸地を遡って浸食していく、水波が写っているのだ。

このような面として襲ってくる感覚は、あちらにもこちらにも対処しなければならないという、多面的な状況だということに違いない。南三陸町の映像が繰り返し写っている。これによると、津波が襲ってきたのは、14時46分の地震発生から約30分後であったことがわかる。この30分の間に、町の高台へ逃げた人々は助かったが、遅れた人びとは被災したことになる。志津川が写っている。けれども、映像の隅の川とは別の方から、全面的な波が押し寄せてきたことがわかる。

仙台市空港近くの名取川でも、同様な状況があった。ここは平野だから、川をたどって平野部へ水が上がっていくのかと予想された。けれども、結果としては、堤防の全面決壊で、すべてのところから、水が浸透していったという状況だ。さらに、上流の方へ行くと、むしろ平野部へ広がった水が、流れ場所を求めて、川へ水が流れ込んでいる様子が見られた。水面の全面展開という状況が、家々を、自動車たちをさらっていった。

Photo_2どう見ても、今回は、広い範囲で、いろいろなことが孤立しながら同時進行で起こっている、という印象が強い。夜になって、地域全体が停電した。それで、いろいろなものが復活を果たした。ろうそくは、頼りになった。手巻きラジオも、数分間しか持たなかったが、それでも無いよりはましだった。そして、とにかく落ち着くためには、珈琲が一番だった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。