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2011年1月に作成された投稿

2011/01/30

純正のアナログ時計

C2珍しいことに、娘から連絡があって、ご馳走するから出てこないか、とお誘いを受ける。昨年の誕生日ごろ、ちょうどこちらの仕事が忙しくて、そのままになっていたことが今頃になって、悔恨の情となって出てきたのだろうか。

歩いて都立の現代美術館へ行く。途中、かつて深川の谷?があったところが、自然公園になっていて、散歩道が続いている。釣り糸を垂らしている人や、近くに住む外国人の子供達が遊んでいた。寒い一日だったので、水溜りも凍っていた。

A4「トランスフォーメーション」展と、「オランダのアート&デザイン新言語」展が最終日だというので、駆けつけたのだが、若い女性ばかりが列を成していた。「トランスフォーメーション」展は、映像中心の今までにない時間を食う展覧会だった。おそらく、まともに全部見ていたら、正味であっても、数日かかることだろう。なかには、ひとつを観るだけで、3時間かかるものもあった、エンパイヤビルに鉄板を一枚一枚重ねて行くなかで、フラットなドラマが進行して行く。一枚一枚重ねる度に、連続的なトランスフォーメーションが起こっているということなのだろうか。人間が獣になったり動物が人間化するというトランスフォーメーションは分かりやすい。問題は、トランスフォーメーションの後、どうなるのか、ということなのだが、そこに至ることは容易ではない。現代美術の難しさがここにあると思われる。可能性は言えても、その先はまた変化するのだ。

C「オランダのアート&デザイン新言語」展には、共感することが多かった。言葉を中心にまとめているために、方向性がはっきりしているからだろう。目立ったのは、マーティン・バースのグランドファーザークロックだ。大きな柱時計の文字盤には、そのなかで針を消して、時が経つと同時に、更新して書いている人が写っている。アナログ原A_3型とでもいうべきものを描いているのだ。時計は、あらゆるメカニズムの典型的な機械である。それを手書きで描くというアナロジーは、分かりやすいだけでなく、時間破壊的な行為だ。時間こそ、自動運転の権化だったにもかかわらず、手仕事で描いて行く。

A_2


A3もしこのような時計が家にあったら、気になってしょうがないだろうな。この時計をつくるためには、少なくとも12時間かかっている。このこと自体、あり得ない時計なのだ。あり得ないものを目の前に現出せてみる、という芸術本来の機能を率直に提示していて、面白いと思う。

Bもう一つ、おもしろかったのは、マルタイン・エングルブレストの迷路的なエンロールゲームだ。ポスターに従って、ドアを選んでいくと、終点には皆が待っていて、コングラチュレーションといって、そのひとの人生選択を祝福する。最後はたわいもないゲームで終わるのだが、なぜか現実の人生にダブって見えてきてしまうのだ。芸術は、B2現実の人生にかなり影響をあたえている、ということを見せてくれるのだ。だから、どうということではないが、このように人生を振り返って見ることも面白いなということだと思われる。


2011/01/19

ネットワークを作る動機

映画「ソーシャルネットワーク」を見た。シニカルな映画だと思う。シニカルなのは観察者の目のことでなく、主人公自身の人生そのものだ。フェイスブックを作った、主人公であるマークが、シニカルな人生を歩んできたことを描いた作品だ。宣伝段階では、邦題は「天才」ということになっていたが、さすがにこれだとシニカルさに毒があるというものだ。

映画会社は、盛んに青春物語で、恋愛映画だということを強調しているが、明らかにこれは売らんがための宣伝文句であり、むしろこの主人公の半生はかなり悲しい。無残でチンケな人生であることを描いている。実在の人物が、この映画を認めたがらないのはそのためだ。

成功は友人の裏切りの糧でしかなく、他の友人は虚栄の虜でしかなかった。そして、マーク自身はそのどちらにも感情移入できない、第三者的性格であった。この成功例と目されるネットワークを立ち上げた価値は、まったくこの映画では認められていない。ネットワークを利用することは、単に「代理人システム」を利用しているに過ぎず、擬似的な信頼によっているのがソーシャルネットワークなのだ。だから、擬似システムがこんな貨幣価値を生み出してしまうのは確かにおかしい。

だから、サービス自体は無料で十分なのだ。けれども、会社自体が売り物になってしまうことで、現代社会ではSNSが貨幣価値を生み出してしまう。これはいわば、本来社会やコミュニティ自身が持っている社会的価値を貨幣価値に転換してしまうような、ただ乗りシステムとなっているということである。本来は、社会に還元して当然なものを、私的なものに変えてしまうことだからだ。

主人公は、恋人を作るために、その恋人とつながるSNSを立ち上げれば、恋人を得られるだろうと考えたが、結局のところ、恋人は得られなかった。そればかりか、社会的価値を個人的な価値に転換して、金持ちになってしまう。映画の中で、次のようなエピソードがあった。ある友人が、買うことを憚る下着を恋人のために購入したくて、通信販売会社を作ってしまい、最後にはその会社を売って大金持ちになる、というのだ。まさにマークは恋人が欲しくて、フェイスブックを立ち上げたのだが、結局恋人は得られず、資産価値の高い会社のみが残った、という物語なのだ。アメリカンドリームは金銭文化に毒されているという教訓だ。

しかしながら、考えてみれば、マークはわたし自身だ、といっても良いだろう。これは笑って済まされる事ではない。その矛先は、反転してこちらを向くかもしれない。今日、良い社会に住めば住むほど、社会から受けた恩恵を私的に還元しそれを個人所有してしまうのが、現代人であるからだ。このようなシニカルな見通しを与えている点でも、この映画はシニカルなのだ。

このソーシャルネットワークを利用する人が、映画の段階で、100万人を超える。そして、現在は世界中で5億人もいるのだという。上から目線で言わせてもらうならば、世の中には、いかに寂しく、悲しい人びとが多いのか、「恋人」を求めている人が多いのか、ということだと思われる。

2011/01/10

映画「海炭市叙景」

出張の夜には映画を、という慣例に則って、ゼミ終了後幕張へのお土産に、ふたばの豆餅を購入し、南へ下って、東寺近くにある京都みなみ会館で映画「海炭市叙景」を観る。

外では雪が降っていて、映画の中でも降っていて、とつぜん凄い映画が現れた。日本地方の現実がそこにあった。「関係ないでしょ」「ほっといてよ」という日常会話がたくさん出てきて、そして、ほんとうにみんな関係を断ち切っていく。いなくなる。

海炭市には、船ドックがあって、それが都市の中心となって、物語は展開していく。会社は崩壊するし、家族はばらばらになる。親子、兄弟もなくなってしまう。それぞれの5つばかりの挿話も何らかの関連でつながっているわけでは全くないが、まったく切れてしまっているわけでもない。地方都市の或る場所、地方都市の或る1日を中心として起こったことがやや分離され展開し描かれていく。

こんなにバラバラで、関係は失われていくだけなのに、映画が終わると、「生きていてよかった」というような(ちょっとニュアンスは違うのだけれど)、曰く言い難い感情がわきあがる。映画のところどころに印象的で凄いシーンが隠されていて、終了した後もあとからあとから目に浮かんでくる。

地方都市には、群衆はあっても、コミュニティは無いというのが常識だ。だから、コミュニティが失われたとき、そのあとどうなるのだろうと考える。直接的に、都市のなかに投げ出されるのだが、そこにはどんな関係も形成できないはずだ。

ラスト近くで、こんな対比、いや分裂があった。墓参りで東京から帰ってきた青年が、路面電車の運転手をしている父親とちぐはぐな会話を交わす。なぜこんな断絶が生じてしまっているのか。前の晩に、青年は乏しい財布で飲みに出る。女に5千円でよいからと誘われて、バーに入るが8千円取られる。そのあとバーには、成金的な田舎ものの酔っ払いが現れる。いくらでも金を出すから、好き放題させろと言って叩き出される。理解できないだろうと青年に言う。バーのマダムは、貧しいけれども都市のセンスを持った青年を田舎者と呼び、金をぼる。けれども、金持ちのほんとうの田舎者はまったく相手にしないのだ。

もうちょっと言ってしまっても、許されるかな。冒頭のエピソードは全体を暗示させるものだ。「中心」が失われた兄と妹の物語だ。最初の思い出のなかで、親が事故で亡くなる。つまり、家族の中心が失われる。次に、生活の中心である造船の船まで失われ、会社のリストラに遭う。妹は兄との関係が中心だと感じていたが、兄の喪失感は外からはわからないほど、もっと深かった。それでも、初日の出で皆一緒に眺めることができたのは素晴らしいことであったのだが、それでも兄の放心は不条理だった。

このシーンは、何度も夢に出てきそうだ。この男の放心顔は、個人の問題ではなく、現在の社会を反映したものであるところが、ぎょっとさせられる。どの地方都市も、中心を失って、その代わりに入ってきたのが、首都の勢力だ。どこへ行っても、同じ店が並び、中心は地方ではなくなっている。ということは、地方そのものが地方ではなくなっているということだ。ロープウェイの終着駅でずっと待つ少女は、取り残された地方そのものだ。何か待っていても、それで何かが戻ってくる保障はまったく無いのだ。けれども、男たちの無表情に感心するよりも、待ち続ける少女と地域を描くことはもっと重要だと思われる。

2011/01/01

「ガレット・デ・ロア」という新年を祝うケーキ

実家に久し振りにみんながあつまった。昨年は、母の入院という事態があって、次から次へさまざまな事件が重なった。それで、正月どころではなく、また仕事が仕事を生み、休みのない、カレンダーを捲るだけの一年が始まったのだ。

休みのない状態は相変らずなのであるが、心の状態が矢張り違う。

Photo 今日の事件は、ケーキである。モノ自体が事件を引き起こす事などないと思われるかもしれないが、じつは幾重にも重ねられた行動や習慣が微妙に食べる人に影響を与えるようなケーキなのだ。フランスに、「ガレット・デ・ロア」という新年を祝うケーキのあることをはじめて知った。そのケーキを妹夫婦が持ってきてくれたのだ。義弟の会社がさる西洋菓子ブランドの会社なので、そこのケーキを持ってきてくれたのだ。

Photo_2 フランスは、家族を重視する伝統がヨーロッパのなかでも強いことが知られているが、それはこのケーキを味わえば、よく理解できる。つまり、このケーキは家族を前提として作られている。もちろん、家族でなくとも、友人同士で良いのであるが、ここに、ひとつの遊びが隠されていることが大切である。それは、抜群の習慣であり、家族を思わせるのだ。

ケーキのなかに、フェーヴと呼ばれるものを胎胚させるのだ。フェーヴは、そら豆を意味するようなのだが、これ自体きわめて隠喩的だ。そら豆は、ご存知のように、胎児のかたちをしている。このようなレトリックを楽しみながら、遊びに昇華してしまうところが、フランス的なユーモアなのだと思われる。フェーブの食べ当った人は、王様になるので、このケーキには王冠が付いてくるのだ。この遊びを行うことで、正月から楽しい気分になる。

Photo_3 もうひとつ、このガレットにまつわるエピソードがあって、それも新年に相応しい寓話だとおもわれる。ギフトの原点を提供しているのだ。このガレットが共されるのは、公現節を祝うとされており、キリスト聖誕を祝福するために、東方の三博士がやってきて、贈り物をすることになっているのだ。博士というから、知識を授けたかといえばそうではなくて、薬と授けるのだ。

薬というのは、寓意であって、親切や優しさということに違いないだろう。三というのは、おそらく重要で、三はたくさん、つまり社会を意味していることはほぼ確実だ。キリストは社会を代表する三博士によって祝福されるのだ。また、三に一を足して、めでたく充足の四となるのだ。それは当然、のちのちキリストは神との媒介をして、万民へ贈り物を返すことになり、めでたく社会の連環は完結することになることを現わしている。

Photo_4 ケーキは、上品な美味しさだった。アーモンドクリームがたっぷりと薄く入っていて、パイが全体的に引き締まっている。軽やかさは、贈り物を表しており、パイ生地とのコンビネーションは社会の重層性をあらわしている。つまりは、ガレットは家族という小宇宙に必然的に生まれた菓子であると言えるのではないか。ほんとうは、1月6日に食べるべきなのだが、キリスト教徒ではないので、お正月のお菓子として、有難くいただくことにしよう。身内にお菓子屋さんがいる幸運に感謝して、もちろん義弟に感謝して。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。