« MASKS―仮の面 | トップページ | アジア的多様性 »

2010/12/28

バラバラのイメージと現実

突然、「緊急停止します」というアナウンスがあり、ガタンと電車がストップした。わたしの乗っていたのは、房総からの総武線快速だ。西船橋駅を通過中に、「人身事故」があったらしい。駅を出たところだったので、ホームに降りることもできず、そのまま電車に閉じ込められてしまった。

「電車の点検を行なっています」と車内放送があってから、すでに数十分が経つ。救急車の音がして、窓の外では、にわかにJR係員や、消防団員や、警察官が集まってきて、車輪を指差している。「右腕、右腕」と聞こえる。そのうち、ブルーシートが運ばれてきたところで、どうやら全貌が分かってきた。車内放送では、「救護活動を行なっています」という報道だったが、どう見ても、投身があって、遺体を回収しているとしか見えない状況だ。

Photo_2
乗っていた車両は、前から9両目だったが、ここまで遺体がひきずられたことになる。悲惨である。これまで身体として統一体だったものが、数十メートルに渡ってバラバラになってしまったということだ。運ばれていくブルーシートは、すでに人間の形を浮き彫りにしていない。断片になってしまったのだ。

このブルーシートに包まれている人生っていったい何なのだと考えてしまう。膝が曲がった人が、歩くときにそれを補正するように歩いていいのではないかと思う。けれども、曲がったものをそのまま真っ直ぐに直そうとすると、動作はバラバラになってしまう、という、チグハグさがあるような気がする。ほんとうのところはわからないのだけれど、見ているだけでもひどく痛ましい。そしてそれから、役割を果たしていただけなのだが、電車の運転手のことを考えると、今夜は眠れない。いままで、ひとつのものだったものが、バラバラになってしまうという分断のイメージは恐怖を覚えるほど強烈だ。

今日は仕事納めで、来年にまだだいぶ残りがあるものの、今年に関しては最後の収録で、これで終わりという感触のある日だった。じつは、その講義が「過労死・過労自殺」に関連した内容だったのだ。なんという符合だろうか。もちろん、過労自殺でないことを祈るのみだ。年が押し迫ってきて、どうにも追い詰められてしまうというのは、仕事を持っている者すべての悩みだ。けれども、それをなんとか振り払って、日常を維持しているのが普通人なのだ。

という暗い話題で始まってしまったが、じつはベテランのディレクターと、仕事を初めて一緒にする手慣れた録音技師の人と、午前中ラジオの収録を終えた。Aさんのいる「社会と産業カンファレンス室」で雑談をして仕事納めをした。良いお年を、と年の瀬の挨拶をして別れ、千葉市内のいつもの喫茶店で複雑な味を煮込めた美味しいロールキャベツ定食をいただき、さっぱりとしたタンザニア珈琲を飲み、さらに千葉劇場で映画を見ての帰りだった。忙しさで気は急いていたが、その中でも晴れ晴れとした感じが一応あったのだ。

映画「セラフィーヌ」は編集が不足気味で多少長すぎるという欠点はあるものの、「絵を描く」ということがどういうことなのか、という本質的なところを描いていてたいへん面白かった。当然、それは本質過ぎることなので、言葉にはならないのだが、たとえば「天使が降りてきて、お告げがあった」というのも、ひとつの説明かもしれないし、自然の中で耳を澄ませば聞こえてくることがあるのだというもの説明のひとつだし、食べることを忘れてバタンと倒れるまで描いてしまうということも、そのことを説明していることになるだろう。自分では到底できないと思われるようなことが、出来てしまうのだから。

注目したのは、身近にあるものを利用して絵具まで作り出してしまう、というエピソードだ。セラフィーヌは、自然から取ることができるような、「色」ということにきわめて敏感だった画家なのだと思われる。泥と蝋と染料から作り出された、強烈なのだが渋い「赤」は印象的だ。画商が与える市販の絵具は、標準化された職業人の手段だ。それに対して、彼女自身が創りだす絵具は、標準化以前のプリミティブな感性を象徴している。

それにもかかわらず、このような素朴な画家であっても、画商や鑑賞者の存在は大きかったという点がこの映画では最終的なポイントになっている。画商は、印象に基づいて、はじめの出会いで惚れ込む。けれども、それは一時的なものであって、そののち画家がどのように育ち、二度目の出会いを形成するかが、「絵を描く」ことには重要なのだ。この点がしっかりと描かれている。戦争の社会とは無関係に生活し、絵を描いたセラフィーヌという画家をこの映画は描いているにもかかわらず、きわめて社会的な営みとして、画家の成長を静かに追っている。

画家は最後には気がふれてしまうが、それでも作品だけは正常に残っていくという逆説がきわめて効果的であり、なぜ「絵を描く」のかということが淡々と描かれている映画だった。作品に対しては、このように向かい合いたいものだ。

http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/01/0000300201/38/img46821338zikdzj.jpeg

映画のなかで、画商の妹が写真を撮る場面が一瞬ある。たぶん、映画のシナリオにそのシーンを付け加える元になった写真が、これだと思う。アイディアは上から降ってくるものだ、と答えているのだが、果たしてそうだろうか。この一瞬一瞬が彼女を生かしたことだけは、確かだと思う。

« MASKS―仮の面 | トップページ | アジア的多様性 »

日常生活の関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/173786/50431218

この記事へのトラックバック一覧です: バラバラのイメージと現実:

« MASKS―仮の面 | トップページ | アジア的多様性 »

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。