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2010年12月に作成された投稿

2010/12/31

「南天」の生態ネットワーク

Photo 実家へ向かっている途中で、電話をすると、母がお供えの仏花を忘れてしまったので、買ってきて欲しいという。駅前の花屋さん、あれここはコロッケ屋さんだったのじゃなかったっけ、に寄って、花束を買った。白い紙に包まれた束を見ていくと、ちょっとずつ中身が違っていて、どれを選んだらよいのか迷って面白い。この店は、保存用の液を付けてくれるので、向かいの花屋よりも客が入っている。

近頃は温室栽培が中心を占めているので、どんな花でも包みの中に入っているが、冬の仏花の定番は、やはり松と、それからこの「南天」(この写真の実は、母が言うには「千両」か「万両」らしい)である。これがヒイラギでも一応許せるが、やはり南天でないと寂しい。

Photo_2 と言っていたら、ヒイラギだらけの塀があって、ちょうど正月用に刈り込まれて、赤い実だけが露出していた。これを見ていると、正月というより、クリスマスになってしまう。やはり、正月は南天でなければならないかな。

わたしが南天になったつもりで、ちょっと想像してみた。なぜこの「赤い実」を付けなければならないのだろうか。目立ちたがり屋なのだろうか。そんなことはない。赤い実は人を惹きつけると同時に、遠ざける効果を持っているのではないだろうか。

Photo_3 南天は、とくに赤い実が目立つから、格好の鳥の標的になるはずである。赤い実が目立って、鳥を惹き付ければ、体内に取り込まれ、運ばれ、種が遠方まで運ばれる効用があるだろう。そこで、食べられた実は、体内から出るときに、種となってその土地に芽を出すことになる。それで、南天の「種の保存」が広い地域にわたって可能になる。ここに南天と鳥による自然生態系がひとつのネットワークを形成することになる。

この話には、じつはいくつかの留保が必要だ。じつは南天には毒素が含まれているというのだ。ほんとうのところはわからないが、もしほんとうならば、薔薇の花と同様に、美しいものには棘がある、ということになって、南天の実は食べられずに、鑑賞用として枝にそのまま保たれ、その土地にしか実を結ばない植物、つまり場所に依存する植物であるということになるだろう。

さて、どちらがほんとうだろうか。赤い実で鳥を惹き付け、遠くに実を飛ばしているのか、それとも、毒の実をつけて、赤い実は観賞用として付けているに過ぎないのか。どちらがほんとうなのだろうか。再び、南天の身になって考えてみよう。わたしが南天なら、遠くへも行きたいし、永く赤い実を付けてもいたい、と考えるだろうな。どうも文献によると、南天の毒素はたいへん緩いらしい。だから、食べたとしても、緩い下痢を起こす程度ではないかと想像する。ということは、ある程度食べられもするが、かといって、すべて食べられてしまうほど美味しいものではない、ということだ。消化されることなく、体内をスムーズに通過したほうが、実のためにもよいかもしれない。

2 南天に生きる戦略というものがもしあったと仮定するならば、それはかなり高級な「赤い実」大作戦だったのではなかろうか。それで思い出したのだが、わたしが小学校時代を過ごした松本市は、水が豊富で、その水が流れる敷地沿いには、かならず生垣があって、その生垣に多かったのが、松なのか低木の松状の葉が付いて、やはり赤い実がなる生垣だった。それで、その赤い実は食べることができて、甘いのだ。友達と道草をしながら、摘んだものだ。

小学生が食べられるのだから、当然動物たち、とくに鳥たちは啄ばむことができる。それは柿と同じで、甘柿は食べられるが、渋柿は残るという自然法則が存在する。柿のネットワークはこれでできていると聞いた。つまり、もし近くで柿の木が増えたならば、それは渋柿であり、もし遠くにあって柿の木が増えるのであれば、それは甘柿になるのだ。

2010/12/29

アジア的多様性

Cotton0
今年、目の記憶に残っている、鮮やかな印象は何かと問われるならば、晩秋に訪れたベトナムのハノイのイメージだろう。中でも、最も色彩豊かで、多様なもののイメージを具体的に見せてくれたのが、これらの写真に映し出されている、繊維問屋街での多彩な「積み重ね」である。

Cotton1
なぜこんな積み重ね方をするのだろう。おそらく、日本の繊維問屋でこのような横積みをするような店はほとんど存在しないのではないかと想像する。専門家に聞いてみたいところだ。反物として、巻いて収蔵するのは、良く見たことがある。巻いてあれば、縦積みでも横積みでも、大丈夫のような気がするが、このように畳んで横積みにするのは、保存上皺が付くし、日焼けが部分的に起こってしまう気がする。

最も合理的でない、と思われるのは、客が来て下の方にある生地を取り出す方法である。もっとも、合理的である必要はまったくないのだが、売り子の立場に立つと心配してしまう。どうやって、取り出すのだろうか。一緒に行ったN先生とNさんによると、上に積み重ねられたものを一つ一つそのたびに退けて、いちいち取り出していたそうである。ウーン、何となく解せないな。

なぜこんな積み方をするのか、ひとつの理由は明瞭である。誰が来ても、すごい、と声を発する。広告・宣伝効果は抜群で、一度ならず二度三度と、ただ見るだけでも行ってみたい気にさせる。この効果には絶大なものがある。「アジア的多様性」というものがもしあるとするならば、この積み上げにこそ、その名を与えてやりたい。それほど、見ていて飽きない。二つとして、同じ色の重ねは存在しないほど、多様な積み重ねなのだ。

Cotton2
もうひとつ理由があるような気がする。この積み方でも、十分合理的だと思わせる仮説だ。つまり、需要があって売れるものはどんどん上の方へ重ねていく、という方式をとれば、労力はそれほどかからないし、結果として多様になるような気がする。つまり、売れたものを一番上に積み重ねるということを何度も行なった結果が、現在の多様な配列を自動的に造っているのだ、という解釈だ。

このような配列方法は、わたしたちも良く利用する。本を読んで、読みおわった順に本棚に立てていく、という方式である。そうすれば、たびたび利用する本は、常に手元に近いところに存在し、あまり利用しなくなった本は、遠くへ連なっていく、ということになる。これと原理は同じだ。

Cotton3
自然界でいうところの「べき乗法則(Power Law)」がここでも見られるのだ。わかってしまえば、きわめて常識的な法則の下での合理的な関係で、これらの多様な積み重ね模様が成立していることに気付くのだが。さて、ほんとうにこの解釈は合っているのだろうか。


2010/12/28

バラバラのイメージと現実

突然、「緊急停止します」というアナウンスがあり、ガタンと電車がストップした。わたしの乗っていたのは、房総からの総武線快速だ。西船橋駅を通過中に、「人身事故」があったらしい。駅を出たところだったので、ホームに降りることもできず、そのまま電車に閉じ込められてしまった。

「電車の点検を行なっています」と車内放送があってから、すでに数十分が経つ。救急車の音がして、窓の外では、にわかにJR係員や、消防団員や、警察官が集まってきて、車輪を指差している。「右腕、右腕」と聞こえる。そのうち、ブルーシートが運ばれてきたところで、どうやら全貌が分かってきた。車内放送では、「救護活動を行なっています」という報道だったが、どう見ても、投身があって、遺体を回収しているとしか見えない状況だ。

Photo_2
乗っていた車両は、前から9両目だったが、ここまで遺体がひきずられたことになる。悲惨である。これまで身体として統一体だったものが、数十メートルに渡ってバラバラになってしまったということだ。運ばれていくブルーシートは、すでに人間の形を浮き彫りにしていない。断片になってしまったのだ。

このブルーシートに包まれている人生っていったい何なのだと考えてしまう。膝が曲がった人が、歩くときにそれを補正するように歩いていいのではないかと思う。けれども、曲がったものをそのまま真っ直ぐに直そうとすると、動作はバラバラになってしまう、という、チグハグさがあるような気がする。ほんとうのところはわからないのだけれど、見ているだけでもひどく痛ましい。そしてそれから、役割を果たしていただけなのだが、電車の運転手のことを考えると、今夜は眠れない。いままで、ひとつのものだったものが、バラバラになってしまうという分断のイメージは恐怖を覚えるほど強烈だ。

今日は仕事納めで、来年にまだだいぶ残りがあるものの、今年に関しては最後の収録で、これで終わりという感触のある日だった。じつは、その講義が「過労死・過労自殺」に関連した内容だったのだ。なんという符合だろうか。もちろん、過労自殺でないことを祈るのみだ。年が押し迫ってきて、どうにも追い詰められてしまうというのは、仕事を持っている者すべての悩みだ。けれども、それをなんとか振り払って、日常を維持しているのが普通人なのだ。

という暗い話題で始まってしまったが、じつはベテランのディレクターと、仕事を初めて一緒にする手慣れた録音技師の人と、午前中ラジオの収録を終えた。Aさんのいる「社会と産業カンファレンス室」で雑談をして仕事納めをした。良いお年を、と年の瀬の挨拶をして別れ、千葉市内のいつもの喫茶店で複雑な味を煮込めた美味しいロールキャベツ定食をいただき、さっぱりとしたタンザニア珈琲を飲み、さらに千葉劇場で映画を見ての帰りだった。忙しさで気は急いていたが、その中でも晴れ晴れとした感じが一応あったのだ。

映画「セラフィーヌ」は編集が不足気味で多少長すぎるという欠点はあるものの、「絵を描く」ということがどういうことなのか、という本質的なところを描いていてたいへん面白かった。当然、それは本質過ぎることなので、言葉にはならないのだが、たとえば「天使が降りてきて、お告げがあった」というのも、ひとつの説明かもしれないし、自然の中で耳を澄ませば聞こえてくることがあるのだというもの説明のひとつだし、食べることを忘れてバタンと倒れるまで描いてしまうということも、そのことを説明していることになるだろう。自分では到底できないと思われるようなことが、出来てしまうのだから。

注目したのは、身近にあるものを利用して絵具まで作り出してしまう、というエピソードだ。セラフィーヌは、自然から取ることができるような、「色」ということにきわめて敏感だった画家なのだと思われる。泥と蝋と染料から作り出された、強烈なのだが渋い「赤」は印象的だ。画商が与える市販の絵具は、標準化された職業人の手段だ。それに対して、彼女自身が創りだす絵具は、標準化以前のプリミティブな感性を象徴している。

それにもかかわらず、このような素朴な画家であっても、画商や鑑賞者の存在は大きかったという点がこの映画では最終的なポイントになっている。画商は、印象に基づいて、はじめの出会いで惚れ込む。けれども、それは一時的なものであって、そののち画家がどのように育ち、二度目の出会いを形成するかが、「絵を描く」ことには重要なのだ。この点がしっかりと描かれている。戦争の社会とは無関係に生活し、絵を描いたセラフィーヌという画家をこの映画は描いているにもかかわらず、きわめて社会的な営みとして、画家の成長を静かに追っている。

画家は最後には気がふれてしまうが、それでも作品だけは正常に残っていくという逆説がきわめて効果的であり、なぜ「絵を描く」のかということが淡々と描かれている映画だった。作品に対しては、このように向かい合いたいものだ。

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映画のなかで、画商の妹が写真を撮る場面が一瞬ある。たぶん、映画のシナリオにそのシーンを付け加える元になった写真が、これだと思う。アイディアは上から降ってくるものだ、と答えているのだが、果たしてそうだろうか。この一瞬一瞬が彼女を生かしたことだけは、確かだと思う。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。