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2010/07/11

終わり良ければ

娘から連絡があって、仕事に使うビデオカメラのバッテリーがないから、持ってきて欲しいという。今どき、あんな旧式なビデオカメラが役立つとは思ってもみなかったので、古いものを大事に使うという我が家のモットーに合っている。あんななどというのは、恩を仇で返すようなもので、娘や息子が小さな時にはずいぶん記憶装置として利用したのだ。すぐにOKして、東京へ出かける。

Photo 帰りに、川崎へ出て、チネチッタへ潜り込む。2階には、 ハンバーガー屋さんがあって、野菜タップリのものを注文する。時間まで、持ってきた原稿を広げる。大きなガラス窓から、人工的なイタリア風の街が並んでいるのがみえる。この街には、隠れ家風のところがいたるところに配置されているところがたいへんよい。けれども、街というのはやはり自然に発達すべきと思われるので、ちょっと人工的すぎるとは思う。時が経てば街はかわるので、このような商業的な統制が将来もうまくいくのかはわからない。

映画を観るときに、どのような観点で見るのかはほんとうにいつも違う。今回注目したのは、最後の終わりかただ。久しぶりの時代劇だ。映画「必死剣鳥刺し」で、藤沢周平独特世界が描かれていて堪能した。途中の描き方は、渋い色調で申し分ない。たとえば、冒頭の能舞台には磨きこまれた木が使われており、その上に配置された、使いこまれた組織を表していた。海坂藩はほんとうに真面目な藩だ、という心配りの演出が至る所に効いている。

面白いのは、この「必死剣」という言い方である。(これ以降、ネタバレの恐れがあるので、観に行く人は読まないほうがよい。)剣術だから、必死と書けば、当然相手を死に至らしめる術だと思われるだろう。だから、自分が死ぬことだという結末に対して、なぜなのかが分からない思いで、映画が終了してしまう。これは、なんとなく不条理極まりない。原作は読んでいたと思うが、現在段ボールのなかに入ってしまっていて、簡単には取り出せないので、確かなことは言えないが、結局のところ、自分が死ぬことによって、残したい何かが生きることを描きたかったというところだろう。この点が理解できれば、藤沢周平のハードボイルド性を楽しむことができるに違いない。

可能性としては、藩が生き残ったり、愛する人が生き残ったり、子供が生き残ったりという条理にかなう筋が描けたはずであるが、どうもこの映画はその筋を微妙に避けているように感じた。それじゃ、微妙に避けておいて、なにかほかの方法があり得たのだろうか。

いろいろの伏線があるので、観る人の解釈と切り取り面で違ってくると思われる。おそらく時代劇性や、組織性ということについては、要約してしまうことがかなりできるので、多くのブロガーがコメントを寄せると思われるので、ここでは触れない。そこで敢えてここでは、家族性という、ハードボイルドの「中心課題」に迫ってみたい。

「旦那様はなぜ連子様を殺めたのでしょうね」というセリフが効いている。日常では、ノンポリである主人公がなぜ突如として、政治の中心に介入するのか、これがわからないというところが、物語の中心にあって、「死に場所を求めていたのでしょうか」というセリフを言わせている。

主人公兼見三ざヱ門と妻の陸江との関係は、家族性の中でも、いわば剣術の正攻法に当たるものである。生活のなかで、これが中心となっている。この描き方は、藤沢周平の細やかな描き方をこの映画も踏襲していて好ましい。だから、妻が死んだのちに「生きる」という問題が生ずるのだ。問題は、姪の里尾が介入することで、本題の「必死剣」の必死ということが明らかになるところにあり、ここを見逃すべきではないと思われる。

「必死剣鳥刺し」では、「遣い手は、半ば死んでいる」という剣であることになっている。もちろん、映画のなかでの剣術の描き方はそのとおりになっていて、最後の殺陣がこの映画の山場で、「必死剣鳥刺し」という殺法がいかなるものかが、明らかにされ、物語は終了することになるのだが、それは表面的な物語である。もう一枚剥がすと、そこにはもうひとつの「必死剣」が生活のなかに仕込まれていて、妻「陸江」が亡くなって、主人公は「半ば死んだ」状態になるのだが、そこに姪「里尾」が現れて、淡々と生活を支え、最後にぐっと「生きる」ことになるのだ。

この感触を出すのは、映画「ジョゼと虎と魚たち」を演じた池脇千鶴しかいない、というキャスティングは間違っていなかったと思う。だから、最後のシーンで、神社で兼見を待つのではなく、ぐっと「生きている」シーンで終わりにしてもらいたかったと思う。二人の間にできた子供は、「鳥刺し」そのものだというところをしっかりと映像表現してもらいたかった。

さて、劇場では、中年以上の、むしろ老年世代の方々が多かった。ちょうど真後ろに座った方は、歩行もままならず、さらに喘息持ちの人で、始まる前は咳が止まらずに、周りに唾を発散させていた。わたしの10年後を予想させるので、多少の降りかかるものは仕方がないと観念した。ところで、果たして、わたしは十年後もこのような映画を鑑賞するだけの丈夫な身体と頭を維持しているのだろうか。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。