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2010/05/20

古典派は革新派

クラシック音楽を聴いていると、時代感覚がおかしい、と思うことがある。音楽のクラシックと呼ばれている時代は、じつは経済の世界では、産業革命前夜から最盛期を迎える時代であり、世の中には発明発見があふれていて、革新の時代なのである。だから、バッハやモーツァルトが古典的だというのも、印象からすると、古典の意味がかなり違ってしまう。

朝から雨が降ってきて、きょうは午後に神奈川学習センターで打ち合わせがひとつあるだけなので、木曜日なのにマン・デー・サービス(1000円)を実施している千葉のシネマックスで、映画「ドン・ジョバンニ」をみる。モーツァルトの歌劇ドン・ジョバンニの脚本を書いたダ・ポンテとモーツァルトとの出会いを描いた作品だ。

この中で、ヴェネチアやウィーンという古典的な都市を見せているものの、今日の感覚は違っていて、ヴェネチアは古典的で、ウィーンは革新的なのだ。ルソーやヴォルテールなどの啓蒙主義が茶化されて使われていたり、イタリアのシルクが多用されて、のちのちこの技術がヨーロッパ中に広がっていくことを見せつけたりしている。

明らかに、ドン・ファンという時代遅れの貴族趣味的な登場人物を、カサノバをモデルとして描いていて、時代の趨勢は押し戻せない。このような旧世代の衰退と、そこからの脱却を図った歌劇だ。

だから、すでに時代から取り残されるものという運命的なものとしての、クラシックということならわかる。けれども、バッハにしても、モーツァルトにしても古典ではなく、むしろ革新勢力としてあらわれる。この時代に、職業音楽家の誕生を可能にしたのは、絶対王政の宮廷文化であり、パトロンが存在しなければ、モーツァルトの存在もなかったことは間違いないが、パトロンが国家から民衆へ転換するという波も押し寄せていたと見てよい。この視点はむしろ映画「アマデウス」で描かれていた点だ。もちろん、採算の合う生活ができないから、モーツァルトは結局のところ、貧困の内に亡くなるのだが。

映画の最後に、このダ・ポンテがNYで一生を終える、というキャプションが入っていた。時代が転換して、ヨーロッパから、すでに新世界(独立後のアメリカ)へという流れが形成されつつあったことを示しているだろう。つまり、最終的には、モーツァルトはクラシックではなく、革新的だったということだ。

この映画は、最後に、モーツァルトが宮廷から見放されるということを強調させた解釈にしていた。そのことは、浅はかな読みであるかもしれないが、カサノバが象徴する放蕩文化は近代以前の文化であったのであり、それを放擲することで、じつは道徳観として、近代を準備する文化へ転換を遂げたことを、この歌劇ドン・ジョバンニは暗に示したのではなかろうか。

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