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2010/05/10

フローズン・リバー

誰の前にも、「凍った河」が横たわっている。ほとんどの場合、それは運命的なものなので、見過ごしてしまうかもしれないが、それでも誰の前にも存在するように思う。

ほんとうは、人生でこちらのほうへ行くはずであったのだが、偶然にも違うほうへ向かうということは、よくあることだ。この違うほうこそ、「フローズン・リバー」なのだ。映画「フローズン・リバー」には、節目節目にこの河が映し出される。

この違うほうは、もしかしたら、悪いほうかもしれないが、しかし行きがかり上、こちらを選択せざるを得ない。大概の場合、望んでないほうへ行くのは、悪い兆しである場合が多い。

映画のなかで、主人公が罪であることを知りつつ、この「凍った河」に引き寄せられていく。国境を越える中国人たちを密輸する仕事を行うのだ。グローバリゼーション世界の現実だ。生活の必要に引きずられるというのは、氷が破れて、河に引きずり込まれるような感覚かもしれない。

そうなると、大抵はそこからは抜け出せないのだが、今回の主人公はいくつかの幸運や、周りに助けれらながら、どうやらぎりぎりのところで、セーフなのである。

人生で何が大切なのかといえば、このぎりぎりの最後の一線のところで、どうなるのかなのだ。「こんなことで、へこたれない」というのは、今読んでいる本のなかで出てきた語句だが、まさにそんな線で踏みとどまることができたら、まあ良しとしよう。

また、その線が見えなくとも、もうちょっと犯した線でも、もしかしたら踏みとどまることができるかもしれない。この「凍った河」は、最初は冷たかったが、付き合ってみると次第に、わたしたちにとって、無くてはならないもののように思えてくる。ちょっと油断すると、「なめんじゃない」と突き返されるかもしれないが、人生のなかで、突き返されたときにいかに頑張れるかが、面白いところだと、最近になってようやくわかってきたところなのだ。

そんなことを言っているようでは、まだまだ現実がわかっていないということなのだろうか。それにしても、妻がいつも拳銃を持っていて、けんかすると、銃口がこちらを向いている、という家族はちょっと厳しいな、と思う。あとで、涙が出ても、仕方ないだろう。

母と子の物語としては、かなり普遍的な要素を表現しているように思う。たとえば、息子は母を想っていて、だからこそ、言うことを聞かないというコンプレックスがあるのだが、その調子が自然に出ていた。友人関係が母親関係という共通点を見出した時に結ばれる、という感覚は、男性にはほとんど欠けているのではないだろうか。なぜ主人公の二人は友人関係を築くことができたのか、それはこの映画ではたいへん重要な視点だったのではないだろうか。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。