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2010年5月に作成された投稿

2010/05/31

わたしは環境である

Photo 新潟最後の朝である。ホテルでひと仕事終わらせることができたので、チェックアウトまでの間、どちらが表でどちらが裏なのかはわからないが、方向としては裏側に展開する丘を散策する。海岸に近い、ちょっと行くと砂丘に続く丘に連なる傾斜地に建てられた別邸群を観る。海と山を両方堪能できる、豊かさ・贅沢さを持った地域なのだと思う。現代になってからは、盛んに高級マンションが建てられるようになってきている場所だ。

Photo_2 昨日は昼食時に、新潟大学病院の12階にある眺望の良い食堂で、日本海を眺めながら海鮮丼をいただき、病院の隣にある「新津記念館」を見学した。石油王と呼ばれた新津恒吉が昭和13年に建てたものだ。ここも丘の上から街と海とを、かつては両方望むことができた高級地だった。

2_2 今日訪れたのは、旧齋藤家別邸である。酒造からはじまり、海運・金融・化学などで新潟最大の財閥を形成した齋藤喜十郎が、大正7年(1918年)に建てた避暑用の別荘である。「地獄極楽小路」という名前が近くの通りについていて、その奥には昔刑務所があって、現在は公園と美術館になっている。だから、右に行けば刑務所の地獄で、左にいけば別邸群の極楽という意味なのか、と想像してしまう。

Photo_4 この別邸は、丘の斜面を利用して造園されており、周りの建物群から隔絶された木樹が複雑に織りなす、いわば渓谷のような空間を都市のなかに実現している。明らかに主体は「庭」にある。もちろん、建物も立派ではあるが、庭を鑑賞する一部として造られていることがわかる。客観的に庭と建物が調和しているのではない。むしろ、庭に佇むときの身体の置き場としてバリエーションを持たせ、多様な鑑賞と身体との一体化を実現することを目指した建物に造り上げたのではないかと思う。

Photo_8 そのことは建物の柱に表れている。角の柱は、ガラス戸を支えるだけのものの如くに造られている。風景を邪魔しないように、最小限の細さを実現している。大きな瓦屋根の重さにほんとうに耐えることができるのだろうか、と心配してしまうほど、華奢だ。40人以上二階に登らないでくださいと、張り紙が貼ってあって、ちょっと心配させるほど柱がない。あとで話を聞くと、新潟地震にも十分に耐えたのだそうだから、これはこれで構造上は問題がないのだろう。むしろ座った人が屋内にいても、外と同じように、庭に投げ出された一体感を共有できることを最優先したことを評価したい。

Photo_6 庭との一体感を多面的に感じることができる工夫は、至る所に施されている。1階からの池を含んで仰ぎ見るような見方と、二階に登って庭の斜面の真ん中あたりを目線にするような眺望的な見方と、さらに庭の奥には茶室と東屋が用意されていて、斜面の上からも眺めることができる。当然、庭の中から全体を見下ろしながら、回遊してみるのも楽しい。パンフレットには、母屋の1階、2階からの眺めのほかに、「池の景」「竹林の景」さらに滝を含む「渓谷の景」「野筋の景」などの多面的な庭の在りようが設定されていることを指摘している。

Photo_7 母屋からの眺めで、数十分堪能し、さらに茶室で木々の触れあう音を数十分鑑賞した。ベテランの庭師のかたが、竹ぼうきの手を休めて、雑談に応じてくださった。毎日維持する側からの「庭」への思いを聞くと、すらすらと答えてくださった。庭には、いくつかのタイプがあるそうだ。この庭は、花の庭ではなく、木樹の庭であって、四季に応じて、色が移り変わり、重層化していくところが面白いのだ、と教えてくださった。箒で落ち葉を掃くことが楽しいし、落ち葉を楽しむことができる、とおっしゃっていた。これは毎日ここに居ることから得られる視点なのだろうと思う。さらに、鳥の鳴き声が毎日変化して素晴らしいのですよ、とおっしゃっていた。庭というものの要請する統合感覚総動員の様子を垣間見た気分だった。

チェックアウトの時間が迫ってきたので、名残惜しかったけれども、退散した。帰りに思い出したのだが、今回の講義に参加した学生の中に、芸術文化の経験で「庭」を挙げた方もひとりいらっしゃって、もしかすると、このような別邸保存運動に参加なさっている方かな、と想像した。新潟の最後に、今日のコーヒーを飲みに、新潟で創業60年を誇る「白十字」という街の喫茶店へいって、評判のブレンドを飲む。ブレンドなので、当然複雑な味を出しているのだが、苦味と酸味を両方とも強調していることに成功しているコーヒーだと思った。

2010/05/30

核心は見えないが重要なこと

中心にあるものがなんだかわからない。なにかそこには重要なことがあるのだが、どのように考えても、もっとも肝心なところは見えてこない。なんだろうか、それは。

と、いうような不思議な感情を持つことはないだろうか。このことを楽しむことができるようになったのはいつからだろうか。それは、ある時間のうちには答えは見えてこないが、そのことに対して、何らかの答えを見出すことが意味あることに見えてくる。

たぶん、世の中の多くのことがこのような疑問だらけの状態に置かれていて、それに安易に答えを与えてしまうと、そのことを理解できなくなってしまうのだろう。

まわりをめぐって、いろいろな事件を経て、すこしずつ中心へ近づいていく。このようなやり方が好ましくなったのは、やはり年を取ったからだと率直に思いたい。

新潟に来て、最後の夜を迎える。講義が終了して、学習センターでお世話になったTさんともうひとりの方がいて成績評価簿の受け渡しを行なった。雑談のついでに、新潟の美味しい料理の店と、古い喫茶店と、さらに映画館を推薦してもらった。

ちょうど時間がよくて、映画館へ行くのにワンコインバスに間に合った。バスセンター裏にある市民が運営している名画座「シネウインド」へ滑り込む。前の回がちょうどはねたらしい。座席もシネコンのような大そうなものではないが、こじんまりした素敵な映画館だ。環境音楽で潮の音が流されていて、朝からずっと続いた講義のつかれが、潮とともに、流されていく。そして、周りからようやく体の中心に向かって浸透していくのを感じた。

映画「ずっとあなたを愛してる」という題名の意味は、映画を観終わらないとわからない。本質は確かにそのとおりなのだが、もうちょっと洒落た題名は思いつかなかったのだろうか。つまり、愛そのものが中心にあるのだが、それは愛と言ってしまったら、なにも伝わらない。

映画の始まりは、空港に到着した姉がひとりで待っていて、迎えに急ぐ妹がそれにオーバーラップして、再会する場面だ。映画全体は結局、本質的には、この最初ですべてが描かれている。ひとつの隠された愛と、もうひとつの妹が姉にずっと感じてきた愛と両方の組合せで構成された映画なのだ。このふたつの愛は最初だれにも理解されないが、妹の夫の控え目な配慮と理解、さらに子供のおばに対するコミュニケーション、保護観察のソーシャルワーカーとの付き合い、警察官との交流、工場主とのやりとり、どれをとっても丹念に描いていると思う。

周りをめぐって、十分に描きつくすことで、最後に中心がぐっと見えてくる、そんな映画だった。それにしても、母の愛というものは深いのだ。15年という年月は一つのことを思い続けるには、十分すぎるくらい長い。

Photo バスセンターから宿泊地のほうへむかうバスがあと1分でくるというタイミングの流れに乗って、学習センターで推薦してもらった料理店へ駆けつける。ここで、すでに夜も深くなっていたので、わたしがほぼ最後の客だった。広い店内はガラスを多用してあって、中庭にたっぷりと余裕を感じることのできるように工夫されている。外見は木造の古い洋館を再利用したものだが、内は開放感あるシンプルさがデザインされていた。

料理もおいしくて、最後は苦味系のコーヒーを飲んで、一日の反省をじっくりと行なった。女性客が多い店らしく、肉料理を頼んだのだが、野菜の多い構成だった。静かな街をひとりで歩いて帰ると、照明が店内を照らしている店が並んでいて、また訪れても十分受け入れてくれそうな街の顔を示しているような気がした。

2010/05/29

ハマナスの花が誘う

Photo_2 新潟学習センターの面接授業だ。朝早めにホテルを出たつもりだったが、途中の喫茶店でポットにコーヒーを入れてもらったりして、街のモニュメント(新潟市出身の漫画家水島新司のドカベンなのだ。バットのしなりはすばらしいのだが、顔が似ていないのが残念だ)を眺めたりしていたら、すっかり歩く速度が鈍っていたらしく、学習センターへ到着したのは15分前ほどだった。

クラスの人数は少ないので、対話重視の講義ができる。最初にまず、学生の方々の紹介を含めて、芸術経験を聞くことからスタートした。いくつかの事例として参考になりそうな話を聞くことができた。これがあるから、同じ大学でも社会人の大学は楽しい。

講義が終わるころ、10年ぶりに連絡を取り合った新潟大学のH先生が訪れ、新潟の散歩コースを案内してくださる。学習センターは信濃川と日本海との間の大きな中州みたいなところに位置しているのだが、ここだけ小高い丘になっていて、周りは意外に高級住宅地で、お屋敷がところどころに点在している場所なのだ。丘を下って海側を案内してくださった。坂を下っていくと、護国神社があり、それを超えると視界がばっと広がり、日本海が180度展開する。この辺りで横田めぐみさんが拉致されたのだそうだ。

Photo_3 海岸には、ハマナスが花をつけていて、昨日までの荒れた天候の中で耐えてきたのかと思うと、花もたいへんだなと思う。すこし先に夕陽の沈むのを見る最適の場所があり、あと1時間ほどだということで、車だまりに人が集まっていた。そのわきに、ハーブを特色とするカフェレストランがあって、そのテラスが冬にも十分耐えることができる座席になっていて、しばし日本海の遠望を楽しむ。店員が人懐っこい方でわれわれのような年寄りを気にせず会話に入ってきた。この店は、サンセットと同時にいつも閉店するのだそうだ。草花的なカフェだった。

車で街の中心街へ出て、街中を案内していただく。豊かな豪農や網元がくりだしたような、見事な門構えの料亭などがまだまだ残っている。H先生の行きつけの店は、気の置けない静かな席を用意してくださって、ゆったりと歓談することができた。もちろん、お造りや、岩ガキ、藻づくなど海の幸は十分あり、酒もTという透明感ある味の美味しい銘柄を選んでくださった。

じつはふたりには、共通の友人がいたのだが、3年ほど前から行方がわからない。それで、会って最初の話題がそのことに集中した。なにか、良い方法はないだろうか。そのご、話はH先生が出版なさってきたアメリカ経済とグローバル経済の話になり、異なるところで異なる立場からそれぞれ考えてきたことに、ほんとうに意外なほど共通点が多いことが分かってきた。というよりも、どこがわからない点なのかがそれぞれ確認できて、たいへん面白い会話をすることができた。長く生きていると、このようなことがあるのだ。

2010/05/24

人は二度死ぬ

モモという名の喫茶店が、K大ちかくにあって、講義のある金曜日の夜食を10年以上もお世話になった。たぶん、女主人のか、あるいは娘さんのか、どちらかの名前だったと思われるが、このような習慣からかモモという響きには以前から親しみがある。

「もも」という女の子が母「なおこ」を見つめるところから、映画「パーマネント野ばら」は始まる。このことはじつは映画全体を語っているのだが、それは最初のうちはわからない。(もっとも、その前に、自転車の車輪が回るシーンが入るが、これはなんだろうか。ここでは問い詰めないことにしよう。)「母を見つめる女の子」という設定は、ずいぶん何回も見てきたような気がするが、やはり母子・母系家族の物語を期待させる。現代日本を特徴付けているのは、女性問題で、母系性は何度話題にしても、尽きることはない。ももがなおこになり、さらに、なおこが母まさ子を受け継ぐ物語だ。

わたしは今回、映画館に入り、映画の途中までは、別のことを考えていた。どうしても昨夜から、なぜ「低生産性の産業」が競争社会でも成り立ってしまうのか、という、わたしにとっては大問題に取り組んでいて、なんとなくいくつかの解答を得たような錯覚に陥っていたのだ。

それで、なぜこの映画がこの大問題に関わってくるのかといえば、この映画に出てくる仲良し三人組(なおこ、みっちゃん、ともちゃん)それぞれが、どちらかといえば労働集約的で、ちょっと間違えれば低生産性に陥りかねないサービス産業に関わっているからだ。

それは、「美容院」(主人公なおこが母まさ子を手伝う職場)、「キャバレー」(小池栄子が演じるみっちゃんが経営する場末のキャバレー)、「ギャンブル」(池脇千鶴が演ずるともちゃんの夫はギャンブルで破滅する)である。それにしても、美容院の院とはどのような意味なのだろうか。美容室というのもあり、十分に家族・家庭を比喩とする名前のように聞こえるが、ちょっとこじつけ過ぎかな。

これら三業種は、家族・家庭の近くにあって、十分に家族内でも生産可能ではあるが、どういう理由か、家族から外部化されているものの代表選手である。これらの業種は、ほとんどシャッター街区の田舎町でも大丈夫だし、これらだけはしぶとく生き残っている、不思議な業種なのである。特徴は、家族に近いような「サービス性」、家の近くに需要があるような「地域性」、さらにかなり制限された範囲で成り立つ親密な「ネットワーク性」などにあるのだ。もっとも、ギャンブルだけはネットワーク性からは外れていて、それはそれで問題であり、そこにドラマがあるのだが。

キャバレーを切り回すことを表現して、みっちゃんが良人に向かって吐く名セリフがある。「あんたと付き合うよりましや!金になる。」家族に近い、ほんとうに限界的な業種なのだ。そして、ここでは、産業転換が起こっている。かつての産業構造では、男性が女性を食わせたが、この限界産業では、女性が男性を食わせるのだ。ここにはじつは、上で指摘した、これらの産業特性に加えて、もうひとつの特徴があるのだ。

「人は二度死ぬ」というセリフも面白かった。郵便配達は二度・・・をちょっと連想させる。ふたりの想いは、一人が亡くなっても、他の一人の記憶のなかで生き続ける。けれども、二人とも亡くなったり、もう一人の記憶からそれが無くなったりすると二度目の死を迎えることになる。

これは、肉体の死と、精神の死とも言ってもよいだろう。肉体の死が先に来て、精神の死が後から来るのであれば、仕合わせだが、精神の死が先に来て、肉体の死が後から来ると問題だ。けれども、そうなるのが少なく無いのが世の常だ。その意味では、菅野美穂の演ずる主人公はほぼ恵まれていると言えるのではないだろうか。「なおこ」の記憶のなかに、一人居て、さらに「もも」の記憶のなかに、「なおこ」もいる。人は二度生きるのである。

2010/05/20

古典派は革新派

クラシック音楽を聴いていると、時代感覚がおかしい、と思うことがある。音楽のクラシックと呼ばれている時代は、じつは経済の世界では、産業革命前夜から最盛期を迎える時代であり、世の中には発明発見があふれていて、革新の時代なのである。だから、バッハやモーツァルトが古典的だというのも、印象からすると、古典の意味がかなり違ってしまう。

朝から雨が降ってきて、きょうは午後に神奈川学習センターで打ち合わせがひとつあるだけなので、木曜日なのにマン・デー・サービス(1000円)を実施している千葉のシネマックスで、映画「ドン・ジョバンニ」をみる。モーツァルトの歌劇ドン・ジョバンニの脚本を書いたダ・ポンテとモーツァルトとの出会いを描いた作品だ。

この中で、ヴェネチアやウィーンという古典的な都市を見せているものの、今日の感覚は違っていて、ヴェネチアは古典的で、ウィーンは革新的なのだ。ルソーやヴォルテールなどの啓蒙主義が茶化されて使われていたり、イタリアのシルクが多用されて、のちのちこの技術がヨーロッパ中に広がっていくことを見せつけたりしている。

明らかに、ドン・ファンという時代遅れの貴族趣味的な登場人物を、カサノバをモデルとして描いていて、時代の趨勢は押し戻せない。このような旧世代の衰退と、そこからの脱却を図った歌劇だ。

だから、すでに時代から取り残されるものという運命的なものとしての、クラシックということならわかる。けれども、バッハにしても、モーツァルトにしても古典ではなく、むしろ革新勢力としてあらわれる。この時代に、職業音楽家の誕生を可能にしたのは、絶対王政の宮廷文化であり、パトロンが存在しなければ、モーツァルトの存在もなかったことは間違いないが、パトロンが国家から民衆へ転換するという波も押し寄せていたと見てよい。この視点はむしろ映画「アマデウス」で描かれていた点だ。もちろん、採算の合う生活ができないから、モーツァルトは結局のところ、貧困の内に亡くなるのだが。

映画の最後に、このダ・ポンテがNYで一生を終える、というキャプションが入っていた。時代が転換して、ヨーロッパから、すでに新世界(独立後のアメリカ)へという流れが形成されつつあったことを示しているだろう。つまり、最終的には、モーツァルトはクラシックではなく、革新的だったということだ。

この映画は、最後に、モーツァルトが宮廷から見放されるということを強調させた解釈にしていた。そのことは、浅はかな読みであるかもしれないが、カサノバが象徴する放蕩文化は近代以前の文化であったのであり、それを放擲することで、じつは道徳観として、近代を準備する文化へ転換を遂げたことを、この歌劇ドン・ジョバンニは暗に示したのではなかろうか。

2010/05/14

インタヴューあるいはオーラル・ヒストリー

夜になって、放送大学テレビ科目「社会の中の芸術」第6回が放映されていた。わたしのインタヴュー番組の最後の回に当り、有田の今泉今右衛門さんに話を伺ったものだ。今回の番組制作では、インタヴューという手法を毎回中心に据えた。

講義で伝えたいことを、他者の言葉を通じて、迂回させて学生に届けようと当初から考えていた。他者が媒介するから、わたしの伝えたいことが、糸電話のように、途中で変容しつつ伝達されていく、けれども良い変容が加わる可能性に賭けてみようという作り方を試してみた。

今回の今右衛門さんへのインタヴューに如実にあらわれていたのだが、こちらが質問したことが、完全にインタヴューされる側に乗り移ってしまうという貴重な経験をたびたびすることになった。もちろん、憑依とまでは行かないのだが、フラットなこちらの考えが、微妙なギザギザをつけた話となって、戻ってくる。その繰り返しが楽しかった。このようなときには、番組では質問するほうの側の映像をカットしてしまって、ずっと相手の話をベタにつないでも、十分に番組は繋がっていくのだ。

もっとも、そんな言い方は失礼で、むしろインタヴューをしてそこから新たなことを学ぶほうが大きい。だから、通常であっても、全体のインタヴューは番組に出るものの数倍の話を聞いていて、それをまた、自分の中で反芻させて、ようやく最後に映像に定着されるのだ。そこに互いに相通ずるものが反映されないで済むわけはない。

これは、いわゆる「トーン」の問題だと思う。『仕事』『アメリカの分裂』『インタヴューという仕事』などのインタヴュー集で著名なスタッズ・ターケルが、「フィーリング・トーン」ということがインタヴューでは大切だ、と言っている。感受性が合うということが起こったとき、インタヴューはうまくいくのだ。

Photo きょうはK大の講義のあと、久しぶりにダウンビートへ寄って、そこで読みかけの本『スタッズ・ターケル自伝』(原題:タッチ・アンド・ゴー)を読み終わった。2008年に96歳でなくなっているが、90歳を超えた記憶力だと思う。店で頼んだギネスが美味しかったからでもないのだが、活字を読んでいて、泣けてくる文章がたびたびあらわれてきた。薄暗いジャズ喫茶だから、目がしょぼしょぼになったわけではなく、ほんとうに涙が出そうになる文章が続いたのだ。

Photo_2 たとえば、過去の自分にインタヴューしている。8歳のころに父親が自分をだしに使って、愛人とデートをした場面を自分に思い出させている。たぶん、最近まで気にも留めていなかったことが、インタヴューによって蘇ってくるのだ。それはたぶん自分が父親の世代になって、初めてトーンが合ってきたということだろう。

妻に対するインタヴューはさらに感動的だ。妻がソーシャルワーカーとして、仕事上、ミーンズ・テストを行わなければならない場面を聞きだしている。ここまでの伏線も素晴らしいが、それを聞き出す視線を明らかにしている。ここはぜひ読むことをお勧めしたい。インフォーマルなことを、インフォーマルのままで残すことができるのが、インタヴューあるいはオーラル・ヒストリーの良いところではないかと思う。

2010/05/11

老後に通うところ

高齢化社会の特集などで、老後にどこで時間を過ごすのか、ということがよく話題になる。わたしの職場でも定年になっていく先生方の間でたびたびこの話題がのぼっていた。

先生方の場合、うらやましいと思うのは、さまざまな「会」をすでに主宰したり、参加したりしていて、自発的な活動が現役時代から持続していて、改めて定年になったから新たに始めるというものではないことだ。だから、ふつうはこちらから聞くと差しさわりがあって、もう何回も訊かれて疲れた、と言われてしまうことになるのだが、意外に自発的に話してくださる先生も多い。

この職場の先生方には、多趣味な方がたが多く、定年になるのを待ち焦がれている。それで、一週間の予定がぎっしりで、仕事をしていたときよりも忙しい方々だ。問題はどこにあるのか、といえば、やはり場所なのだ。そこに行って、自分も楽しみ、なおかつ、その場も乱さないような場所を、定年後に見つけることはやはりたいへんらしい。

定年後に忙しい先生方は、定年になる前に、すでにそのようなところを確保している。意外に、図書館と答える先生方は、少ない。すでに仕事でたくさん読みすぎていて、定年後にはもう読みたくないと考えるのだろうか。

今月の文藝春秋には、図書館とは答えたくないが、結局は図書館だというエッセイを書いている方もいる。街中には、あまり長居できるような日常的な場所はそう多くない。やはり図書館は無難なところだろう。

でも、希望を言うならば、植草甚一の行きつけの喫茶店とか、ケインズのような友人宅のティーテラスとか、一日一回は寄っても苦にならない場所がいいな、と思う。

図書館に類するところで、希望を言うならば、アーカイブは必須になってくると思われる。文書館のようなアーカイブもよいが、やはり映像のアーカイブには、時々行きたくなる。けれども、現在のところ、かなりそういうところは限られている。

きょうは、荒れ狂う雨のなか、今年度制作のディレクターにお願いして、渋谷のNHK内にあるアーカイブへ入れてもらって、番組に使う映像資料を選んだ。1970年代から始まって、2000年代に至る膨大な映像を次々に選んでいった。ニュース映像の場合には、だいたい数分のものだが、選んだものは数百に上ってしまったので、もしこれらをすべてみるとしたら、1週間はかかってしまうだろう。それくらいの規模の映像をたちどころにみることができる施設が実際には存在するのだ。そのこと自体驚きなのだが、一般には公開されている部分はほんのわずかなのは残念である。

おそらく、あと10年もしたら、著作権法も多少緩んで、あるいは期限の切れるものも出てきて、映像アーカイブはひとつのブームになることは間違いないだろう。今回は、サッチャー政権、レーガン政権、中曽根政権、橋本政権、小泉政権・・・を渉猟したのだが、この並びをみれば、どのような映像を集めたかはおおよそ想像が付くであろう。面白い映像が出てきたら、また紹介することにしたい。

あっという間に、お昼になったので、同行したI先生とNディレクターとNHK近くにある、魚屋さんが経営する海鮮ランチの店へ入る。雨にもかかわらず満員で、大振りのトロやタイの刺身のたっぷり乗ったどんぶりを食べる。上に乗った具を掻き分けながら、ご飯をいただいた。蜆の味噌汁も薄味で美味しかった。

番組制作で、全体のトーンをどのように合わせていくのかは、じつはこのような会食やその後の喫茶店での語らいの中で、形成されていくのだと思っている。かなり、非公式的な作業が必要なのだ。語らいもたのしかったが、さらに、NHKに戻って、結局一日映像を収集した。でも、まだまだ飽き足りない。

老後の楽しみで、希望をさらに言うならば、やはりこのような映像アーカイブはぜひ加えたい。昔起こったことの記憶を確かめるというのは、読書でも可能だが、映像でもできたら楽しみは倍加する。結局、老後になって、自分は何者であったのかが疑問として残るが、それを確かめるには、ひとつには時代との関係を見てみたいと思うのは自然ではないかと思う。

今回の番組は、そういう意味では、授業・講義であるということはもちろん考慮しているが、それと並んで、自分の記憶を確かめる、という自分の老後の楽しみ実践という観点も追究してみたいと思っているところである。

自宅でアーカイブというのは、著作権をクリアできないとは思われるが、国立のアーカイブならば、特別の法律を作って、囲い込んで公開することが可能ではないだろうか。NHKと民放の社会的貢献をぜひ発揮していただきたいと夢想している今日この頃である。そうなったら、海鮮丼などと贅沢なことは言わないから、お弁当と珈琲マグを持って、日参したいな。

2010/05/10

フローズン・リバー

誰の前にも、「凍った河」が横たわっている。ほとんどの場合、それは運命的なものなので、見過ごしてしまうかもしれないが、それでも誰の前にも存在するように思う。

ほんとうは、人生でこちらのほうへ行くはずであったのだが、偶然にも違うほうへ向かうということは、よくあることだ。この違うほうこそ、「フローズン・リバー」なのだ。映画「フローズン・リバー」には、節目節目にこの河が映し出される。

この違うほうは、もしかしたら、悪いほうかもしれないが、しかし行きがかり上、こちらを選択せざるを得ない。大概の場合、望んでないほうへ行くのは、悪い兆しである場合が多い。

映画のなかで、主人公が罪であることを知りつつ、この「凍った河」に引き寄せられていく。国境を越える中国人たちを密輸する仕事を行うのだ。グローバリゼーション世界の現実だ。生活の必要に引きずられるというのは、氷が破れて、河に引きずり込まれるような感覚かもしれない。

そうなると、大抵はそこからは抜け出せないのだが、今回の主人公はいくつかの幸運や、周りに助けれらながら、どうやらぎりぎりのところで、セーフなのである。

人生で何が大切なのかといえば、このぎりぎりの最後の一線のところで、どうなるのかなのだ。「こんなことで、へこたれない」というのは、今読んでいる本のなかで出てきた語句だが、まさにそんな線で踏みとどまることができたら、まあ良しとしよう。

また、その線が見えなくとも、もうちょっと犯した線でも、もしかしたら踏みとどまることができるかもしれない。この「凍った河」は、最初は冷たかったが、付き合ってみると次第に、わたしたちにとって、無くてはならないもののように思えてくる。ちょっと油断すると、「なめんじゃない」と突き返されるかもしれないが、人生のなかで、突き返されたときにいかに頑張れるかが、面白いところだと、最近になってようやくわかってきたところなのだ。

そんなことを言っているようでは、まだまだ現実がわかっていないということなのだろうか。それにしても、妻がいつも拳銃を持っていて、けんかすると、銃口がこちらを向いている、という家族はちょっと厳しいな、と思う。あとで、涙が出ても、仕方ないだろう。

母と子の物語としては、かなり普遍的な要素を表現しているように思う。たとえば、息子は母を想っていて、だからこそ、言うことを聞かないというコンプレックスがあるのだが、その調子が自然に出ていた。友人関係が母親関係という共通点を見出した時に結ばれる、という感覚は、男性にはほとんど欠けているのではないだろうか。なぜ主人公の二人は友人関係を築くことができたのか、それはこの映画ではたいへん重要な視点だったのではないだろうか。

2010/05/01

オーケストラ、あるいはコンサート

今日は、1日で映画の日である。ふつうは、混んでしまうので避けるのだが、パソコンで良い席が取れたので、午前中に映画「オーケストラ(原題:コンサート)」を、久しぶりにチネチッタへ見に行く。映画の基調としては、喜劇仕立てである。

この映画は、音楽がさまざまな解釈を許すように、同様にさまざまな考えを許容していて、その配合が面白い。中でももっとも興味深いのは、「究極のハーモニー」という今日ではかなり多様化してしまっていて得られない、けれどもまだまだ魅力的と思われる状態を、映画的に描いて、映像として定着させようとしているところにある。

バラバラの考えを一つに統合するということは、現実にはわたしたちの日常世界では頻繁に行われているものであるが、それを可視化、というべきか、映像化というべきか、という状態にまで持っていくには、かなりの努力が必要だ。それは、現代が多様化時代であるという時代のせいでもあるが、やはりそれにふさわしい場面を設定することが難しくなってきているということによる。

この映画の中心にあるアイディアは、オーケストラ、あるいは原題のように、コンサートを実現させるなかで、ハーモニーという現代においてはきわめて貴重なものを見せようとしたことにある。これは正統的な方法だと思われる。

わたしも授業でたっぷり使ったのだが、「オーケストラ」にはそもそも、集団効果を及ぼすという機能が含まれており、なぜバラバラだった全員が、ひとつの集団としてまとまるようになったのかを見せるには最適な題材であるといえる。講義のなかでは、交響楽団のなかでの団員と指揮者との交感を描いた。その細部にはなかなか近づくことができないが、面白い現象だと思っていた。

この映画のなかでは、最後のコンサートの場面で、それがうまく出ていた。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲がかかっていた。曲の冒頭でバラバラになって収集がつかない音を出していたのだが、途中で団員のなかに記憶がよみがえり始めると、ソリストのバイオリンの音を中心として、ほかの楽器の音が急に、奇跡的に、絡み合ってくるのだ。音の組合せだけでも、これほどの効果が出てしまうのだが、それに加えて、聴衆の反応などを加えることで、映画としては視覚化に成功していると思われる。曲の合間に挟み込まれた過去のエピソードの総括も、意外な効果を上げていたと思われる。見方を変えれば交響楽団もそうだが、多くの組織員を犠牲にして成り立っているといえる。それでも、音楽を続け、30年間を飛び越えて、最後やり遂げるために機会を狙っているというのは、なかなか感動的だった。

音楽というのは、好きだから続けると言われているが、好きにもいろいろな種類のあることが描かれていて魅力的だ。団員たちはそれぞれ異なる関心で、この楽団の試みに加わってきているというのが面白いと思う。「究極のハーモニー」は、団員の自発性や、団結性ということを含みながらも、最後まで突き進むのだ。そして、成し遂げられてはじめて、それが興味深いものであることを知るのだ。

それにしても、現代のロシアでは、このような楽団が瞬時に成立してしまう可能性を持っているということが、じつは改めて問題ではないだろうか。つまり、冷戦から冷戦以後にかけて、芸術家たちが失業して、ちょっと声をかけて集めれば、プロを上回る交響楽団が直ちに組織できるという状態なのだ。わたしたちは、ロシアのことだからと納得してしまうが、じつはこのことは日本をはじめとして、すべての先進諸国に共通することなのだ。

資本主義化されたのは、ロシアが初めてではなく、現在の資本主義国すべてが、刻一刻と資本主義されており、専門芸術家は呼べばセミプロをはじめとしてすぐ集まる状態は、すでにあらゆる先進諸国で常態化している。つまりは、どのように集結を図ることができるのかが問われているのだ。この映画では、この結集それ自体が重要となっているのだ。

このような見方は、わたしの見方であって、かなり偏向している。むしろ、芸術上の挫折がロシア共産党との葛藤とのなかで起こっていたことの時代を描くということが主眼であろう。けれども、これらの視点を上回って、オーケストラ効果の事例としては、秀逸な作品になっていると、わたしは思っている。お金を稼ぐこと以上のことを目指した経験のある方は、途中で泣けてくる。日ごろ感動から遠ざかっている、わたしのような老人の涙線確保にはお勧めの映画である。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。