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2010/04/24

ウサギの話

秋田学習センターは秋田大学の中にあって、ゆったりした施設だ。所長のY先生は、生理学を専攻なさっていたとのことで、実験を相当行ってきたらしい。実験の話をなさるときの勢いはたいへんなものだと思う。動物実験でかつてはウサギを使っていたとのことだった。首にある血管が太く、実験しやすいのだとおっしゃっていた。

ウサギについては、じつは思い出がある。わたしの通っていた、田舎の小学校は経験主義的な教育を重視していた。で、ウサギを飼うことになり、どのクラスが飼育を担当するのかが争われた。それまでも、田んぼや畑を作って、訓練を怠りなく行われたのだが、やはり動物となると、植物とはすこし違っていた。

ウサギを担当するクラスのことがなぜ、争いになったのかは諸説があったが、問題はウサギを飼うことの意味がみんな分かっていなかった点だった。とても、手がかかるのだが、毎朝の当番や、夏休みや冬休みの当番などなど、そして最後は病気の問題がのしかかる。経験主義的な小学校では、これらをいかに解決するのかはたいへんな問題であったのだ。

ウサギそれ自体も問題なのだが、それをめぐる飼育や、クラスの決定など、多くの教訓を残して、ウサギ小屋は作られたのであった。経験とは、当然ながら瞬間的な経験ということではなくて、経験の蓄積、あるいは累積が問題になるということなのだと思われる。

Y先生は、ウサギは駄目になったのです、とおっしゃった。もちろん、それはわたしたちのように、世話がたいへんというレベルではなく、動物愛護という倫理的な問題なのだとおっしゃっていた。その後は、ラットで我慢するほかなかったのだという、ラビットなのかラットなのか、それが問題だ。

結局のところ、ウサギが何を教えたのは、今になってわかることだが、反作用ということだったと思う。ウサギに人格があるわけではないが、しかしわたしがウサギの立場になってみることは可能だ。実験に使われたウサギの場合も、科学への貢献もさることながら、やはり何事かを反映しているということが重要ではないかと思われる。

実験系の先生方は、意外に義理堅く、倫理観に強いといわれている。供養塔などが建てられているのをみても、そのことはわかる。代理人の世界が今日の世界の中心にあるのだが、元祖人間の代理人こそ、愛すべき動物たちではなかったと、Y先生の楽しいお話を聞きながら思った次第である。

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