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2010年3月に作成された投稿

2010/03/29

安正柑とレモン

Photo_9 尾道は港町であり、さまざまな船がホテルの窓の外を夜中までも行きかう割には、静かな街だ。横浜ならば、夜明けには必ずなる霧笛もここでは全然聞こえない。それに不思議なことには、潮の香りもしない、磯ではないということなのだろうか。水がきれいなのかもしれない。

Photo_10 渡し船は、5分ごとくらいに行きかっていて、70円~100円くらいの料金だから、橋が高いところに出来ても、こちらを利用したほうが回り道をしないで良いから便利なのだろう。

Photo_11 近代になって、多くの町からストリートカーが駆逐されたように、渡し舟もなくなっていった。けれども、ここがいくども挫折を繰り返してきた街の凄さだと思われるのだが、大きな橋より、渡し舟という選択を尾道は受け入れてきている。尾道と向島・因島を結ぶ幹線は、前近代的な渡し船であり、これがすっかり街に溶け込んでいる。サイクリングを奨励することも、生産性の低くしかしそれを最大限利用しようとすることの一環ではないかと、わたしは考えている。渡し船に自転車はPhoto_12似合うと思う。

今日は早くから、お腹を一杯にして、このようにホテルのバイキングを片付けて、一階の桟橋から、生口島を目指すことにする。

このホテルは、目の前を尾道と向島との間の尾道水道が通っていて、水路を船が水平方向に移動していくが、それ以外に、この水道を横切る渡し船が数本維持されている。夜の11時過ぎても営業していて、縦方向へ移動していく船たちも夥しい。

Photo_13 船には、必ずと言ってよいほど、自転車が積まれている。サイクリング人口の多さを物語っている。村上水軍という組織がなぜ生まれたかについては、戦略上の問題が大きかったと想像される。時代背景からして、南北朝の不確実な時代になっていた。けれども、意識の問題からすれば、これらの島々をめぐる経済的・政治的取引に、組織の力が必要になったことは、容易に想像できる。自転車を島から島へ乗り入れることさえ、これほどの軋轢が起こってくるのだから、死活問題が生じた時代には、もっと多くの制度調整が必要とされただろう。結果として、組織による統制は必然であったといえよう。

Photo_14 水道と水道を結ぶ内海に、船影が見える。どのような船なのか。敵か味方か、こころ踊る瞬間が歴史上繰り返された海なのだ。船の描く白い軌跡を見つめながら、その波が岸に届くころ、こちらのこころは、もうそこには居ない。遠方にかかる橋影は、昨日見た虹ではないかと確かめる。

Photo_15 瀬戸田港に着くころには、すっかり雲も上がって、陽が射してきた。さっそく、目的地へ向かうがのどかな商店街を見ることについ夢中になってしまった。柑橘類の豊富なことは比類ない。Photo_19 とくに、バンペイ柑、安正柑などの大きな蜜柑は、この地ならではのものではないか。手ごろなものを購入した。港の常夜灯や、旧家の家並みは、瀬戸内海らしい佇まいだ。この風と気分は、相関していると思われる。

Photo_16 サイクリングセンターは、港から離れた観光拠点にあって、十分な施設を保っていた。季節になれば、ライダーたちが群れを成すことだろう。サイクリングがすべての人びとのものになるには、交通規制を考え直す必要がある。たとえば、身障者を自転車に乗せるには、二人乗り禁止規定という、交通規則の根幹を規制緩和しなければならなくなる。Photo_20 これについては、これまでかなりキツイ規制が敷かれてきており、緩和論の争点である。このような問題点のところで、制度論の本質が現われる。興味深い点だ。

この島へわざわざ渡ってきたのは、自転車専用道路というのが整備されているからだ。写真に撮ってきたPhoto_18 が、海岸べりのものは有名だが、内陸部にも地図には載っていないが、存在するのだ。レモン畑に囲まれて、ずっと奥地へ続いていた。さて、このような専用道路を作ってしまえば、走る人は規制されないと考えることができるだろうか。

Photo_21 島を一周するには、歳をとりすぎているという自覚があったので、島を一周する路線バスに乗る。同じ趣向の3人の女性たちがおしゃべりをしながら、楽しそうに乗った。50分ばかりの安上がりの観光を済ませて、早々に尾道へ引き返す。

C 夜は、駅近くのイタリアン料理の店で、蛸やイカや海老がたっぷり入ったパスタ。そのあと、近くにあるジャズ喫茶Andyにて、外国人の弾くピアノで、日本の歌シリーズを聴く。イタリアンの店のぶどう酒が効いてきたので、Andy 最後のコーヒーも眠気覚ましにはならなかった。この街には、ジャズ喫茶があり、図書館があり、公立の大学があり、さらに映画館があるのだ。それは、小津や新藤たちが、ここをロケ地に選んだことが影響していると思う。映画館は、当然渡し船や、サイクリングと手を携えているのだ。

Photo_22 レモン畑は今が収穫期らしく、枝にたくさんの実を付けていた。この豊富さは、きっと香りとともに夢に出てくるだろう。そんな迫力ある実り方だった。                   

2010/03/28

瀬戸内の「のどかさ」

Photo しまなみ海道のサイクリング事情を見に来ている。来年度は、総合科目で「規制緩和」を取り上げたいと考えている。制度設定と解除にまつわる事例を集めている。10年ほど前にも、大店法などの規制緩和を取材したことはあったが、近年タクシー規制緩和などに話題が集中していて、もうすこし興味深い「規制緩和」事例を採取したいと思っていた。

Photo_2 自転車は面白い題材だ。このしまなみ海道はサイクリングの聖地と言われていて、さまざまな試みが行われているらしい。この内容は、最終的に取り上げるか否かは決まっていないが、講義を見ていただくとして、なぜ尾道か、というところの背景が興味深いところである。

Photo_3 尾道の文化は、複合的である。それは、駅を降りて、周りをぐるっと見渡せば、いろいろな要素が目に飛び込んでくるところからもわかる。自然をみれば、山と海がすぐあり、町並みをみれば、モダンとレトロが混在しているのがわかる。Photo_7 駅前の広場から、海が見える。そして、向島が対岸にすぐ見える。ここを渡し船が行き交っている。交通の要所であることは、一目瞭然だ。ちょうど海を挟んだ向こう側にある「Mukaishima Dock」のデザインは、すぐ上の小さな白い灯台とマッチしてきれいだ。

Photo_5 尾道の複合性は、歴史的なものであったらしい。古くは、村上水軍の舞台であったということだが、島影から船が突然現れて、襲いかかってきたら、と考えると、船に乗っても古への想像力が膨らむ。さらに、江戸期の尾道商人は早くから株仲間を築いて、尾道への流通の結集を図っていたらしい。尾道大学のK先生の論文によると、北前船と瀬戸内海産物の商業によって繁栄し、さまざまな商業制度を発達させていたことが知られている。豪商たちの活躍の場だったらしい。おそらく、石見銀山も関係していたのではないだろうか。明治期になると、塩田などの特権を得て、繁栄を続けた、ということだ。その豊かさは、街の至るところに残っていて、街の人びとのなかにも、何かやれば、うまくいくだろうという成功と挫折を何度も経験してきた街の力を感じさせる。

Photo_6 取材をする場合には、このような背景が面白いのだ。実際のビデオは、40分くらいしか、映像は入れられないが、現地での取材はそれの何十倍もの経験が織り込まれる。観光ルートをまず歩いてみた。海から山への坂道を縫って、お寺が並んでいて、そのいたるところに文学者たちの言葉があふれている。

たとえば、江戸期には、十返舎一九がここを訪れて、尾道を次のように描いた。文学の小径コースに載っているのを拝借。

日のかげは青海原を照らしつつ
光る孔雀の尾の道の沖

「しまなみ」と呼ばれる瀬戸内海をよく描いている。山国育ちのわたしにとっては、歩くことの想像は察しがつくが、海を渡ることの想像はなかなかついていけない。備中の人だった緒方洪庵も訪れていて、

Photo_7 軒しげくたてる家
居よあしびきの
山のおのみち道せまきまで

Photo_8と詠んでいる。海から山へ迫った土地に、軒を連ねた家並みの様子がわかる。寺が多い様子を歌って、尾道らしさを切り取っているのは、正岡子規だ。しまなみ海道は彼の伊予に通じている。

のどかさや
小山つづきに塔二つ

Photo_9 のどかさ、なごやかさなどの、静かなる変化を予期させる「海と街との関係」がずっと続いていたのだ。途中、志賀直哉が借りていた六畳二間の長屋や、林芙美子の書斎が移築されている文学館に座って、海としまなみを眺める。大正時代の古い写真が展示されていて、ちょうど洋風が日本に染み込むPhoto その時代を捉えていた。江戸期初期から衰退に衰退を繰り返してきた尾道は、それでもまだまだ、たいへん豊かな街であったことが窺い知れる。街に改装されて残っている「商業会議所」の建物は近代の尾道商業における組織力を表している。

Photo_3 千光寺裏にある市立美術館で、ヤマタネ美術館の特集を組んでいて、小林古径の「兎」が相変わらずよかった。尾道出身の片山牧羊「きつね」の綿密Photo_4さには目を見張った。虹がかかって、美術館からの遠望は比べるべくもなかった。

最後は、商店街に戻って、P喫茶店にて、イエメンモカを1杯。 3階には、休日だけ出張してくるという木工屋さんがギャラリーを開いていて、雑貨や飲み物を提供している。マホガニー造りのガウディ風椅子を制作なさったということでに座らせてもらった。すわり心地は良く、尾道の「のどかさ」を感じた。

林芙美子が少女期を過ごして、ここから多くの題材をもらったことを知る。「海が見えた 海が見える」という海岸のホテルで宿泊。通り過ぎる船を飽きることなく眺めていた。サイクリングも良いけれど、船も良い。いずれも、現在では低生産性だけれども、復活させる価値があるものだと思う。

2010/03/27

感情と言葉

100327_103402 今日は冷たい雨の日を予想していたのだが、すっかり晴れた。陽が眩しい快晴だ。卒業式の開催場所が教育会館からベイホールへ、さらに現在のNHKホールへ変わってずいぶん経つ。ビルの谷間から覗く空が、こんなに青く目立つ年も珍しい。

今日の卒業式の最中、感情がいかに言葉となって送り出されていくのかに注目した。卒業式だからあたりまえかもしれないが、送り出すほうよりも、送り出されるほうの言葉に、感情が乗っているように思えた。

それで儀式だから、真面目な言葉が飛び交うことは仕方ないとしても、その中にきらっと経験が織り込まれるようなときに、感情が言葉を超えて迫ってくる。学生の答辞には、それが出ていて、あとの懇親会でも同じ体験を持った学生の方から、共感の声が聞こえた。経験に裏打ちされた言葉でなければ、空々しく聞こえてしまうことだろう。

100327_104401 毎年楽しみにしているのは、予想を上回る言葉であり、それに載せられた感情なのだが、これを上回るようなものでなければ、到底感動をよぶものとはならないだろう。

卒業式の楽曲演奏で、小椋佳さんが3曲歌った。放送大学のイメージソング「と・も・だ・ち」と「人間の贅沢、ひとつ」、それに加えて、卒業生へのメッセージとして、「流されはしなかった」である。

100327_132901 このなかで、人間が生きてきて、ほんとうに価値のあるものはなにか、と問いかけて、それは富でもなく名誉でもなく、酬いもなく見返りもないものだ、という詩を歌っていて、それが通常のときであれば、聞き流してしまうものでも、このような状況で聴くと、違って聞こえるから不思議である。

小椋さんご本人が、50歳過ぎてから大学へ戻った経験があり、知る喜び、解っていく喜びを知っているから歌えるのだと思う。また、奥さんがこの大学の卒業生であることも話していた。経験を得てから知るということがより深く、積み重なりとなって出てくることを知っているから、歌詞に反映できるのだと思った。

感情が言葉となってあらわれていると思ったのは、歌詞のなかで、「思えば学びは人間が味わえる最高の贅沢のひとつ」、という繰り返しのフレーズが出てきたところだ。適切な感情と、適切な言葉と、さらに適切な状況が重なったときに、心が動かされるのだと思う。前に座っていた、N先生が振り向いて、そう語っていたから、ほぼ共通の感情がこの場を支配していたことは間違いないだろう。

Photo おそらく、この場でなければ味わえない、瞬間だったのではないかと思う。このことは、場所を移して、卒業記念パーティでもあらわれた。偶然にも、会場移動のバスで、同窓会会長のMさんが隣の席に座った。埼玉学習センターの機関紙を取り出して、苦労話をしてくださった。わたしも神奈川学習センターの機関紙の編集を長年行った経験があるので、それはよくわかった。紙面の割付も自分で行っているそうだ。そのあとの千人を超える人びとを前にした会場での堂々としたMさんの挨拶は、常日頃の活動を言葉にしたものだと納得した。

修士論文を終えた学生も、卒業研究を終えた学生も、また授業を取ってくれた学生の方々も、積み重なりの記憶の中から、言葉を選んでくるので、パーティ会場でのおしゃべりも初めて会話するようには思えない。わたし一人だけがそうなのかと、周りを見回してしまったが、みんな初対面の人びとであるにもかかわらず、共通体験を基礎にしている分だけ、話しやすそうだ。

Photo_2 このように見ると、やはり大学というところは、良い意味で「特権的な」場所ではないかと思われる。働くことができることも特権だが、それと違った意味で、このような感情を載せた言葉を、駆使できる時間と、場所を持っていることは素晴らしいことなのに違いないだろう。卒業式と記念パーティをずっと眺めていて、そう感じた。

Photo_3 渋谷のコインロッカーに、荷物を預けてきたので、赤坂のパーティ会場から引き返した。飲んだワインを覚まそうと、百軒棚の喜楽で腹を満たし、クラシック喫茶ライオンで、ベートーベンのピアノ協奏曲を聴いて、家路につく。それで、今日最後のコーヒーは、煮出し珈琲的で濃厚な珈琲をいただくことになった。

2010/03/22

浴びるような読書

Photo ついに旅も最終日となってしまった。昨日も、早めに帰って残された仕事をこなした。陽が沈み、港を背景にして、放水ショー(なんで放水のショーなのか)が始まり、これを全部見ているような暇な人はそう居ないのではと思いつつも、酒を片手に眺めてしまった。

Photo_2 今朝の陽も、なんとなく寂しげに思えた。以前、三橋節子美術館を訪れて、「三井の晩鐘」や「余呉の天女」に描かれた琵琶湖のイメージがまだまだわからなかったが、湖上を観ていると想像力が膨らんでくるという実感がわかPhoto_3 る。欠落が想像を作り出すのだ。小説家や画家が幾多の題材を求めたり、天下取りを目指す上洛の武将や、敗軍の将たちが、ここを通るたびに眺めたりした陽と湖だと考えると、ほんとうに離れがたい。

土曜日は、図書館が10時から始まる。朝の散歩もたっぷりと行ったが、読書もたっぷりと行った一日だった。「塩1トンの読書」もすごい表現だと思っていたが、それは単なる表現ではないところが恐ろしい。ひとつのことを理解するには、塩を1トンほど舐める覚悟がなければ、何事も理解できないだろう。

じっさい、読書の効果が上がるのは、塩を舐めるほど集中しているときなのは間違いないだろう。1冊の本にじっくり取り掛かる読書もあるが、拾い読みのように何かを探しながらの読書もある。今回は後者の方法で、「浴びるような読書」を目指した。シャワーを頭から浴びるように、書棚から次々に本を持ってきて、目を通した。

このような読書が効果のあるのは、新たな問題を巡ってである。網羅的にすべての文脈を探るときに適している。このときにメモに残る言葉は、その本のフレーズそのものではなく、全体の流れが多いような気がする。頭の中を何かが流れていき、それがメモされていくようだ。

この図書館は、ひとつの書棚がちょうどひとつのテーマに整っていて、余裕を持って5つくらいの棚を読めば、おおよその傾向を把握できる。大きなテーブルのあちこちにパソコン用の電源が整備されていて、どこかの図書館のように、この電源を使うと、「盗電」ですなどと書かれてはいない。無線LANを使えば、書斎にいる便利さがこの図書館でも実現できる。

京都の市民がこの図書館に憧れるのは、京都大学の名前ばかりでなく、実質的に利用しやすい、居心地のよい図書館だからに相違ない。結局、新幹線の時間が迫ってきてしまったので、15冊を消化したところで、今回の資料収集は終了となった。

今日の最後は、京都駅のILLY珈琲で、エスプレッソを1杯。おまけのおまけ、メタ認知関連の本を1冊、東京に着く寸前に読みきる。バブル経済と同じで、無理した取材には、かならず反作用が出ることになっている。望むらくは、良き反作用の現れん事を。

2010/03/19

シンプルな複雑さ

滋賀に泊まる意味がもうひとつある。昨年出版した先生方の共著『市民と社会を生きるために』の中で、政治学のA先生が、大正期に活躍した建築家ヴォーリズを「越境する人々」の代表として取り上げている。近代が浸透していく過程の典型例として、わたしも一度その舞台の中心となった近江八幡市を訪れたいと願っていた。社会学のF先生も、昨年訪れてなかなか良かった、とおっしゃっていた。

大津から新快速に乗れば、30分くらいで着くのだが、各駅停車に乗って、野洲辺りでまごまごしていたら、時間はずいぶんかかってしまった。ホームの待合所で、人生の行く末を考えてしまった。これが旅の醍醐味だ、と諦める。

滋賀の春は琵琶湖があるから、陽が出ていれば暖かいのではないか、と見くびっていて、セーターと上着だけで出かけたら、寒さが身にこたえた。盆地並みの底冷えのする寒さである。

Photo_9 駅前にレンタサイクルがあったので、これ幸いと乗り込んだが、地図で見た以上に距離があった。鉄道からこれだけ離れていたから、その後建物群が保存されたのだ。もし中核都市のさらに中心部の利用価値のある効率的な場所であったならば、建て替えが激しいので、残されることはなかっただろう。そう考えると、古いものが残る環境には、一定の条件があるように思える。

近江八幡が周辺的だとは言えない。なにしろ、近江商人発祥の地だからだ。けれども、中心より、周辺のほうが、何かを成し易いということはあって、近江八幡の街の位置はちょうどそのような位置にあったような気がする。

朝、湖畔の散歩のあと、パルコの横から膳所の街へ入って、そこの喫茶店でモーニングセットを食べた。そこの女主人が、この街は入れ替えが激しくて、ちょっと先のドーナッツ・チェーン店も今度撤退するのよ、と言っていた。チェーン店のような広域で勝負するようなブランドは、ひとつの地域で効率が悪ければ、すぐ撤退する。けれども、ひとたびその地域でのみ成立したようなブランドは、その地でなくなれば、すべて失くなってしまうので、そのまま頑張るのだ。

生産性の低いもの・低い活動をそのまま利用できる仕組みというものが、今日求められているのだと思われる。減価償却の終わった建物のように、低生産性の保存が、採算性を維持しつつ可能となる条件があるのだと思う。

Photo_10 池田町住宅の配置が面白かった。現在の保存は、その本質的なところをだめにしてしまってよくない。当初、全体は写真に写っているように、レンガの塀で囲われていたかもしれないが、本来は建物同士が有機的な庭や小道で結合したコミュニティを形成していて、現在のような個別の区画に分かれていたわけではなかったようである。なぜ建物が互い違いに配置されているのかの意味が重要で、それは建物群がひとつずつの建物の組み合わせ以上の効果を上げていた、コミュニティであったことの表れだと思われる。http://www.omi8.com/vories/builds01.html

Photo_11 これだけの広い地域に建物群が広がっているとは思わなかった。教会、郵便局、いくつかの住宅を巡った。自転車の選択は正解だったようだ。

Photo_12 ヴォーリズの住んでいた住宅のすぐ裏に広がる、近江兄弟社学園の建物群が集団効果をあげているのも、やはりひとつの建物が重要でないことを示している。建物群がリズミカルなシンプルさで、複雑な意匠効果をあげているのが、ヴォーリズの特徴ではないかと思われる。単純な窓の配列を、反復させることだけで、美しさを醸し出している。

Photo_13 完全に身体が冷え切って疲れてしまったので、すこし甘いものと暖かいものを欲しくなった。ヴォーリズの忠田氏住宅が、Photo_14 タネヤの洋菓子ハリエ工房になっていて、裏に改装したカフェを開いている。Aさんによると、全国のバームクーヘンブームの火付け役になったところだそうだ。焼きたてのバームクーヘンと、カフェオレをいただく。カフェのほうは、天井が高く、温室風にガラスで覆われていて、空気対流用に扇風機がゆったりと回っている。Photo_15 隣接して、ヴォーリズ住宅も公開しており、占有ルームサービスも行っているそうだ。ここで注目した意匠は、玄関タイルだ。単純な繰り返しだけで、十分な美的効果をあげている。ヴォーリズ的だと思Photo_17う。

これは旧住宅を、高度利用の商業施設として再生するという 利用方法で、もしこれが成り立つならば、それに越したこPhoto_16とはない。低生産性にこだわる必要がなく、使用しなければ意味が無いという方向性もありうると思われる。

ヴォーリズが近江八幡で、近江兄弟社を起こし、メンソレータムの輸入代理・製造販売を始めたことも有名である。最後Photo_24 に、メンソレータムのショールームを見学させてもらった。高生産部門と低生産部門とを組み合わせて、産業と教育に展開していった軌跡が展示されていた。

まだまだ、陽が高く、お昼を回ったところだったので、京都へ取って返し、山科から蹴 上へ出て、トンネルをくぐり、いわゆる南禅寺別荘群を散歩がてら鑑賞することにする。今年のおPhoto_22 正月にNHKが特集して評判をとった。ほとんどは非公開なので、今回はつてを求めることなく、「何有荘」と「碧雲荘」の外側だけ見て回ることにする。「碧雲荘」のとなりの野村美術館Photo_19では、乾山と仁清の楽焼を特集していた。

老婦人ふたりがちょうど、わたしの前で鑑賞していて、いいなあ、これうちにほしいな、と言っていて、お茶席にでも使うのだろうか。美術館に入れておくのは惜しいな、と思ったのだった。先日別の展覧会で、仁Photo_20清のかわせみをパンフレ2ットで見たが、それの本物をここで観ることができて良かった。百合形向付の繊細さ、花笠香合の可愛さはこの上 なかった。うちに欲しいな。

2010/03/18

湖畔の散歩

Haikei ホテルは、いわゆるレイク・ヴューである。昔、レイク・ヴューの家は、1等地だ、という話を聞いて、世俗的な欲望を擽られた経験がある。昨年の11月に琵琶湖の生涯学習センターで講演を行って、その機会を狙っていたのだ。泊まるならばこれだと思っていた。

琵琶湖のレイク・ヴューまで、京都の三条京阪からたった23分で着く。それで、今回の京都行きの宿泊所は、琵琶湖湖畔に取ることにして、ここから京大図書館へ通うことにした。1時間もかからずに着く。

Photo もっとも、琵琶湖のホテルと聞くと、ふつうはBホテルか、Pホテルを思い浮かべるらしくて、それはそれで、次回必ず泊まってみたいと思っている。けれども、贅沢を言わなければ、もっと簡易にレイク・ヴューを楽しむことができる。わたしの部屋から眼下に、ずっと湖面が広がっている。

Photo_2 右に、石山寺方面、左に比叡山方面が、窓からずっと展望できる。左右ともに、歴史の宝庫が満載のレイク・ヴューでこれほどのレイク・ヴューは望むべくもないだろう。

朝の散歩は、湖畔沿いに広がる「なぎさ公園」をずっと右に2,3キロメートル展開する。メタボ対策の夫婦や、ルアー釣 Photo_4 りの人、犬の散歩、猫の朝寝、個人所有のモーターボートでクルージングへ向かう人、さらにサイクリングを楽しむ人、それらに混じって、通勤客もかなり多い。もちろん、鴨もたくさん居る。

つまり、湖畔には、日常が欠如しているのだ。ふつう、この青空の下に、ビルや家屋が展開して、心の中を埋めてしまっている。それが、ぽかっと何もない空間が広がるという贅沢が存在する。この何も無いということに気づいてしまった人は、幸か不幸か、散歩に出るしかない。この欠如感は、比類ないものだ。

Photo_6 もちろん、海でも悪くはないが、動的だ。湖の静けさは、欠如感に似合っていると思われる。このまま、欠如感を楽しんで、埋めたり削ったりするのもよいが、やはりそうもいかないだろう。

8時過ぎには、駅に戻って、9時ちょっと過ぎには、すでに図書館へ入っていた。この充満した感じは、また比類ないものだ。昼は学食のカンフォーラで599円のランチ、進々堂のコーヒーとチーズケーキ。書棚ふたPhoto_7 つばかり、約10冊を拾い読み。細分化された項目での充実振りは、やはり京大図書館ならではのバランスある揃え方を示していて、渉猟していて安心感がある。開架式で、すぐにこれだけ集められるところはそう多くはない。

夕方になって、妻からメールが入り、人文・社会科学系では、二条寺町の三月書房の品揃えが良いらしい、と言うことなので、何を見てそうなのかは深く詮索Eight せずに、旅人らしく、すぐ寄ってみる。買わずに見過ごしてしまった、岩波文庫など5冊購入。時間が余ったので、街の喫茶店「Eight」へ入って、1杯。

阪大のK氏と、昨年と同じ、高瀬川沿いのMにて待ち合わせ、雑談を楽しむ。彼は、昨年ずっと雑誌連載を行っていて、体調をすこし崩していた。メタボ気味だった体つきが、ウォーキングの成果なのか、すこし細くなっていた。そのためか、サラダ中心の飲み会となった。わたしだけ、ワインをたくさん飲んで申し訳なかった。

Photo_8 最後は、メニューには載ってない、特別注文のたっぷりとしたカップに入った、アメリカンを飲んで電車に乗り込んだ。京都市役所前駅から、乗り換えなしの終点が、宿泊所なのだ。

2010/03/17

病いについて

京都に来ている。来年度制作の印刷教材の資料収集がようやく先週あたりからうまく行くようになったので、この春休みのうちに、なんとか集中的に終了させておこうと思っている。

午前中に東京圏を出発して、午後になる前に京都に居るという感覚は、横浜の家から、放送大学幕張本部へ通勤するという感覚とあまり差がない。もっとも、それじゃ日帰りで済ませたら、と言われたら、幕張と同様にちょっと辛い。

Photo 京阪三条駅まで地下鉄で出て、コインロッカーに荷物を預ける。身軽になったので、歩いて京都大学へ向かう。鴨川端を上流へ向かって歩くと、ボケの花や、 気の早い桜の花が咲いていて、やはり来てよかったな、という気分になった。心の中と同様に、Photo_2雨の間のつかの間の晴れだ。

京大の職員だったKさんから以前推薦されたことのある、喫茶店「かもがわカフェ」に寄ろうとするが、どうもお休みらしい。それでも、店の道路標識がすこし離れた表通に出ていて、ちょっとだけ寄り道した気分にさせてくれる。

Photo_3 それじゃというので、Kさんのもうひとつの推奨である、京大が管理しているという日本庭園を探す。ホームページで調べると、確かに京大は年間かなりの庭園維持費を業者に支払っている。

じつはこの庭園のことを放送大学の「社会と産業」カンファレンス室で先日話題にしたところ、そこに政治学のA先生がいらっしゃって、N先生に確かめながら、あれではないか、これではないか、と言っていて、最後は言い当ててしまった。インターネットで調べてみると、その庭園そのものはホームページには載っていないのだが、別のルートから辿ると、確かにA先生の言うとPhoto_4おりだった。先生方の頭の中には、明治期という時代と、京都の政治地理とが、常識として備わっているらしく、うらやましい。

その庭園は、京大の宿泊施設「清風会館」の向かいにある生垣に囲まれた庭園で、百万遍辺りではかなり贅沢な敷地を持った邸宅「清風荘」である。この清風荘は、西園寺公望の京都邸として有名らしく、しばしば明治期の政治舞台に登場したらしい。

玄関には、庭師たちの車が数台停まっていて、ちょうど庭の手入れが始まっているらしかった。ちょっと頼んで見せてもらう、という雰囲気ではなかったので、しかたなく、周りを巡って、想像力をはたらかせて鑑賞する。

Photo_5茶室があったり、ぐるり巡る散歩道があったりするのだが、どうも庭園は中で二重になっていて、その中核は、外からは伺うことのできない構造になっているらしい。おそらく中に入ると、周りの世界から隔絶された別の世界が展開されているのではなかろうか。

裏には、有名なS予備校の宿泊施設があって、受験の終わった予備校生の引越し荷物が山積になっていた。こちら側からは、おそらく庭を窺い見ることができたようで、それを防ぐために古いレンガ作りの防御壁が二重に作られている。なんと念の入ったことか。

また、この敷地内には、京大の女子寮があるらしく、周りを巡って、中を伺い見ることがタブーである雰囲気だ。鈍感なわたしでも、二度ほど巡ったころPhoto_6には、視線を感ずるようになって、ようやく昼飯を食べようとそこを離れることにした。

今出川通をわたって、路地に入ると、有名な梁山泊があるが、ちょっと敷居が高かった。もう一本違う路地にある、定食ランチの店「ラ・トゥール (La Tour)」へ入る。京大の時計台にも店を出している。けれども、こちらの店はランチが600円で、一皿に魚と肉とメンチの三種類の料理に、さらにサラダとご飯がついている。価格だけでも十分に、学食と争えるが、さらに美味しい。サラダのドレッシングや、トマトのソースは懐かしい味がする。

Latour午後、十分な時間的余裕を残して、図書館にこもることができた。春休みのせいか、席も空いていて、ラッキーだった。コーヒーも我慢して、夜まで数冊の収穫を得る。

じつは、京都への出発数日前に、同僚のある先生がいらっしゃって、どうもお腹が痛くてたまらない、入院するかもしれないとおっしゃる。それで、今日にも主治医の先生と相談して、治療方針が定まると聞いていた。病は気から程度で済めば良いが・・・。このような状況が続いて、精神的に「お腹が痛い」とでも言うような状態だ。つかの間の晴れを大事にしたいと思った。

2010/03/13

虎の守り

虎ノ門という場所は、わたしにとってたいへん験のいいところだ。もちろん、わたしが寅年生まれだという単純な理由もあるが、それだけではない。

虎ノ門という名前の由来はいろいろあるようだが、わたしは素直に方角の問題だと思っていて、この方向には何か面白いことが起こる予感がする。もちろん、江戸城(千代田城)の城門のひとつであり、それが地名として残ったことは間違いないないのだが、城門に虎を守り神とする風習があったということだろう。虎は日本にはいないのだから、中国伝来の言い伝えによるものと推測されるし、常識的な知識の持ち主ならば、けっして問題を持ち越すことなく、すぐに思い当たることになるはずだ。

もし方角をあらわすのであれば、有名な風水に出てくる「玄武・朱雀・白虎・青龍」の虎だと思いあたる。家を建てるときに、日本人は方角を見るのが好きだが、江戸城建築でも当然行われたであろう。その結果がこの虎ノ門に現れている。四神獣伝説によって、魔除けが行われ、とりわけ、西方に対しての配慮から、虎ノ門にはおそらく特別な配慮が行われ、意匠が施されていたことはまちがいないだろう。本物を見たいものだ。

現在では、石垣がすこし残されただけだが、この西の守りは相当重要な意味を持っていたものと思われる。この石垣のあるちょっと先のビルで、大学院生時代に長くアルバイトをしていて、この研究所が「余暇」を考えるというところだった。年度末には、近くのホテルに泊まりこむほど忙しくて、余暇どころではなかったけれども、いろいろな方から、「余暇とは何か」という話を聞くことができて、その後の考え方にかなりの影響を受けた。だから、わたしにとっては特別に、虎ノ門はビジネスの中心地というよりは、余暇の息吹があったところだという印象が残っている。

娘が生命を吹き込まれたのも、この地にある病院だった。タクシーで駆けつけて、廊下で待っていると、程なく遠くで泣き声が聞こえた。人生のなかでも、そう多くない種類の、感動を受けた。この瞬間を経験したのも、虎ノ門だからこそだったと思う。つい昨日のような気がするのだが、すでに20年以上が経ってしまった。

Photo_3 それで、今日から新たに、虎ノ門でゼミナールを催すことになった。月2回ほどのペースで、放送大学の東京連絡所で会議室を借りることができたのだ。文京にある学習センターが1年以上、建て替えのために遠くへ移転してしまった。新幹線で来る学生のためにも、東京駅近くの場所を確保する必要があったのだ。

昔、アルバイトをしていて、徹夜があけ、近くのうどん屋さんでかつおだしの効いた朝食を食べて土曜日の街に出ると、人がひとりも居なくて、虎ノ門のもうひとつの顔をみた。

Photo_4 また、このように土曜日の、人気のない街で、人気のないビルの一室で、しかし少人数の熱い議論を行うことができるのは、たいへん仕合せである。今日最後のコーヒーは、ウィークデイであれば、満員で入れない喫茶店で、桜のケーキと甘いキャラメル・マキャート。しばし学生の方々と雑談を楽しんで、家路についた。

2010/03/04

現実と幻覚と

先日、妹が料理を作ってきて、母の家で食べることになった。中国からお土産で持ってきた調味料の、「花椒」が粒のまま入っている茄子と豚肉の料理だ。これまでも、麻婆豆腐などに花椒の粉などが入っていて、独特の味を出していることは知っていたが、これを丸ごと粒で食べたのは初めてだった。

口にしたことのある人は、印象ある刺激なので覚えていると思われるが、口中が痺れて、そのあとずっと、しょっぱい味が残る。試しに、白飯だけを口に含んでみたが、十分それだけでご飯を食べた気分になるほどだ。

この刺激は一種の麻薬と同じような、感覚を麻痺させる効果を持っている。映画「バッド・ルーテナント」は、ハリケーンのカトリーヌ後のニューオーリンズという状況での、コカイン中毒の悪徳刑事物語だ。木曜日は映画館が男性の日になっていて、割引価格なのだ。いつもより心持男性ファンが多かった。ニコラス・ケイジは癖のある俳優なので、好き嫌いがはっきり分かれるが、今回の映画はちょうどN・ケイジのオーバーな演技が映える役どころだ。

麻薬中毒には、幻覚がつき物だが、彼の場合その幻覚の中に爬虫類が出てくる。映画の冒頭でも、邪悪さを象徴する蛇の映像から始まる。それも表現のひとつだが、彼の幻覚にはなぜかイグアナが出てくる。ときどきのこの登場が面白い。彼だけに見えて、時には歌ったり踊ったりしてしまう。つまり、幻覚のなかで彼自身から何かが抜け出て、世界の構成にダイナミックにもうひとつの要因を付け加えてしまうのだ。

何が言いたいのかといえば、同じ幻覚でも動的な幻覚と、静的な幻覚があるように思われる。ケイジ演ずるテレンス・マクドノー刑事は、かなり積極的な幻覚を経験していて、個性を突き出て、さらに世界を変えようとするような、幻覚作用を描いている。外へ外へと作用が向かっていって、他者へ他者へと影響が拡大していく。

同じ幻覚を描いているものでも、日本映画では表現がかなり異なる。映画「人間失格」は太宰治の同名小説を映画化したもので、やはり主人公が麻薬中毒へ陥っていく。それを象徴するシーンでは、花火が使われていて、トンネルの雨の雫が途中から、線香花火の雨に変わるのだ。けれども、この幻覚が世界を変えることはない。あくまで、美的な感覚の問題に止まっていて、それ以上の作用を及ぼすことはない。この結果、麻薬の作用は、本人自身を傷つけ、内部へ内部へと影響を及ぼし、最終的には本人自身が崩れてしまうことになる。

ちょうど同じ時期に、日本の幻覚作用と、米国の幻覚作用とが映画で描かれているのは、やはり何かの符牒に相違ないのではないか。幻覚をそのまま通り過ぎるのではなく、何なのだろうと、眺め考えることが必要な時代になっていることを感じている。マグドノー刑事が映画の最後の場面で、正気に返って水族館に座り、自分が助けた男と何か考えている。これが重要なのだと思われる。

どこかで見たような場面じゃないかと考えたら、ドンキホーテが浮かんできた。麻薬を打たなくとも、十分に幻覚を味合うことができるのが、人間の特質だと思う。

2010/03/01

春の目眩

春の目眩が起きる季節をむかえている。毎年、花粉症で紛らわされているのだが、確実にこの季節には、目眩が生ずるのだ。それは、身体全体の疲れを反映しているのだと、わたしは思い込んでいる。熱が出たり、だるさが襲ってきたりする。

昨年の仕事が忙しいときほど目眩の影響を受けるから、周期的にあらわれるのはほぼ間違いないと思われる。だいたい、テキスト1冊程度が標準とすると、それより多くなってくると、この春の目眩が出てくるのだ。だから、200枚程度、つまり10章程度の仕事だと、影響があらわれない、という感じがする。

妻はパソコンによる眼精疲労ではないか、と言うのだが、首筋から頭にかけての痛みは疲労だとしても、頭のなかのぼんやりとした感じは、目眩の症状だと思われる。これは、身体全体から来ていると思われる。

このような目眩の季節は、いずれ家にいても、外に出ていても、気分は勝れないので、きょうは思い切って、家族4人で三浦半島へ出かけることにした。娘が幸いにも就職出来たことへの感謝の祭りとしての意味もある。息子もアルバイトなどで忙しかったが、ようやく暇になったらしく家にいる。

当初は、横須賀美術館から観音崎灯台をめぐって、観音崎ホテルのバイキングという案があったのだが、美術館が毎月第一月曜日がお休みで、天候が昨日の雨、さらに今夜の雨が予報されていて、海の近くは荒れるのではないか、ということで、山のほうを目指すことにした。

京急線を利用している者にとっては、昔から気になる駅がある。「YRP野比駅」である。このYRPとは何だ、と言うことが、小さな頃からいつも話題に上るのだ。それで、子供たちはクイズを出し合って、情報を共有しているからすぐわかるのだが、わたしたちの世代は突如として現れた名称に、以前は戸惑うばかりであった。

100301_132001 今回、このYRPのなかに、京急ホテルが経営する、尖がり屋根を持った1軒家レストランがあって、山奥にもかかわらず評判を呼んでいるというので、赤い電車を乗り継いでいくことにする。おそらく乗用車のある家族であれば、このような機会は多いのだろうけれども、自慢するほどではないにしても、我が家では免許を持っている者がひとりもいないのだ。

100301_134501 それで、また駅からバスも出ているので、乗ればよいところ、天気も回復してきて、ハイキング日和になってきたこともあって、歩いていこうということになり、おしゃべりしながら、自動車を肩越しに見ながら、道を登ったり、トンネルを通過したりして、丘の上に開けた街、YRP(Yokosuka Research Park)へ着く。その奥に水辺公園という、野鳥観察用に開発した沼地が整備されていて、その池のほとりにレストランは建っていた。

野菜がたっぷりのランチコースで、サラダを山盛りにして食べた。メインは肉や魚、イタリアンなどの選択制になっていた。幸いにも、20人くらいのパーティと一緒になったにもかかわらず、窓際の真ん中の席を取ることができて、ゆったりとした食事を取ることが出来た。

三浦半島へは、子供たちが小さな頃から何度も連れてきていて、首都圏に住んでいて、海と山の趣味を満喫できるところが近くにあるという、仕合わせを享受してきた。とくに野菜には縁が深く、海水浴に行って、スイカの大群に出くわしたり、三浦大根をはじめとした、丘での農作物を購入したりしてきた。今回の野菜も、あの道の途中、おばあさんが自分の畑の横で売っていたあの野菜なのだろうか、と想像しながら食した。野菜レストランという発想は、なかなか今風で良いと思った。

相変わらず、このような場所を占めているのは、90%が女性である。ウィークデイのランチをこのようなところで食べることが出来るのは、そうなのかもしれない、と思った。

しかし、何事にも例外はあって、このYRPには、NTTの名だたる研究所があり、それをめぐって、NEC、富士通、パナソニックなどの電気通信企業が進出してきている。近代的なビルをそれぞれ建てている。そこから来たのだろうか、中年の背広姿の男性が隅の席で、ひとりでランチを召し上がっていた。おそらく、単身赴任で来て、研究所に泊り込んでも、ときどきこのレストランに来れば、たっぷりとした野菜を取ることができる、という発想だろうか。

わたしの少ない海外経験からすると、このような雰囲気の場所には、必ずベジタリアンの食堂があって、結構賑わっていた。それは、多くの肉食食堂が並んでいるからであって、ぽつんと野菜レストランというのは、やはりすこし寂しい。ちょっと気分をかえて、天空の世界を垣間見たいときには、お勧めのレストランである。

帰りも、もちろんバスをやり過ごして、梅の花が香る道をくだった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。