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2010/02/21

提喩について、あるいは「脳内ニューヨーク」

日常生活というものが、きわめて修辞的に成り立っていることは感じていても、視覚的で映像的な生活として定着させて描くとなると、途方に暮れてしまうのは事実である。

映画「脳内ニューヨーク」は、原題が「Synecdoche New York」であり、その言葉通りに、シネクドキつまりは提喩ということをテーマとしている。この映画の宣伝マンはどのようにこれを日本語にしようか、さぞかし悩んだことだろう。提喩のニューヨークということだから、全体の混沌のなかに、いくつもの部分的な混沌を表現してみようという趣向だ。

主人公のケイデンは脚本家であって、つまりニューヨークなのだ。物語は、娘が緑色のウンチをするところから、つまりは家族、そしてケイデンが異常をきたすところから始まる。家族劇に、つい引き込まれる。けれども、それはほんの触りであり、思わぬ展開が提喩的に起こってくるのだ。

映画「カラヴァッジョ」が近代に入るときの自己分裂を描いていたとするならば、この「脳内ニューヨーク」は近代以後の自己分裂を描いている。自分がまず分裂を日常で意識するのは何時なのかを考えてみると、わたしの場合、朝起きて、郵便受けに新聞を取りにいくときだ。そのとき、そと面のわたしと、うち面のわたしが離れるのを感じる。

じつは、この映画での提喩、つまり自分の分身が最初に現れるのが、ケイデンが冒頭で郵便受けへいくときであり、通りの向こうに、分身を演じるサニーがすでに現れている。ここを見逃すと、この映画はずっと理解できなくなってしまうだろう。

わたしたちの周りには、提喩的世界がつねに存在していて、他者を介して、それが自分に帰ってきている。それをありのままに描くとすると、このような映画になるのではないかと思われる。

とくに気になったシーンは、自分を自分の分身が模倣する場面である。ケイデンがかつて自殺しようとしたビルを模倣したセットのビルで、自分の分身であるサニーが、分裂のあおりを受けて、実際に自殺してしまう。分身の自殺がリアルであることを示すために、このとき逆に、歩道が映画のセットであることを強調するのだ。つまり、サニーの身体が、歩道を模した木で出来た道にめり込んでしまうのだ。このような凝った話が緻密に連続している映画だ。

それから、自己分裂が起こったときの指標として、感情が磨り減り、感情の提喩たる肉体に異常が起こるというのは、ありそうな話である。ケイデンが、肉体に変調をきたしたとき、医者から言われるのだ。意識して、唾液を出しなさい。呼吸をしなさい。

そこまで演じることができれば、「脳内ニューヨーク」では、すべての配役が主役になる、ということになるのだが、その途端に、すべては混沌に帰ってしまうのだ。秩序ある混沌は、混沌の混沌の一部でしかないということなのだ。当分、提喩が夢の中に出てきそうである。

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