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2010/01/30

仙台の街のイメージ

仙台の街のイメージはどのようなものだろうかという問を、この時期に考えるのは、きわめてまっとうだと思われる。たしかに、特徴があるのは認める。けれども、なんとなく言葉に出していうことができない。

伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」というイメージは、ひとつの小説のなかで使われたイメージに過ぎないが、仙台の街をイメージするには、適切な言葉ではないだろうか。映画のなかでは、「黄金のまどろみ」と訳していたが、黄金のまどろみを与えるほどの街なんて、そうざらにあるものではないが、数回の訪問ではそのとおりだと思った。

いつも仙台へいくのは、スクーリングなどの仕事なので、黄金のまどろみにひたったことはあまりないが、数年前に3月の2週間ほど、仙台を拠点として資料収集して原稿を書いたことがある。このときには、3月だというのに、吹雪になって仕方なく、宿舎で黄金のまどろみを体験した。雪のなかは、静かでずっしりとした感じで、まどろむには最高の条件だったと思う。

仙台のひとたちは、冬になると、ゴールデンスランバーの気分になるのだろうか。今度、仙台出身のブログ仲間のKさんに聞いてみよう。

採点の作業に入る季節になって、手元にはぞくぞく答案が集まってくる。そこで、試験週間が終わる前にということは答案にかかる前に、今日封切りの映画「ゴールデンスランバー」を見に来たしだいである。

これまで伊坂幸太郎の小説の映画化の映画をみるのは、いつも場末の映画館(失礼、場末だから悪いというのではなく、ちょっと隠れてみたいという意味だ。)にしていたので、今回も場末の感じがよく出ている映画館へ駆け込んだ。

まだ、封切りしたばかりなので、ネタばれの嫌な方は、これ以降読まないほうがよいかもしれない。へんな偏見を植え付けられて、見るわけには行かないだろう。

映画の出だしで映っていたのは、一番街商店街と老舗の百貨店藤崎だと思う。大きなアーケイドは、関西のほうへ行くと、単なる宣伝の飾りのように思えてしまうが、仙台では冬の雪を考えると必需なもののように思われる。

最初に仙台に来たときに、すでに故人となってしまった日本経済史のW先生に案内されて、放送大学の宮城学習センターのある東北大学片平地区の学生街から出て、老舗のうなぎ屋さんに寄りながら、このアーケードへ吸い込まれるように入っていき、繁華街のある国分町へ向かったのを覚えている。

定禅寺通りという音の響きが素敵で、やはり足を伸ばした。ここには、独特の喫茶店が軒を並べていて、散歩の途中によるところとしては最高のところだ。並木の木漏れ日が素晴らしい。

映画では、このメーンストリートで、首相の車が爆破されることになっており、今回の主人公の青柳の逃亡がここから始まる。なぜ逃げねばならないのか、それははじめは企みで、つぎには偶然そうなったという設定だが、ここへ呼び出したのが、大学生時代の親友であるという設定には、相当無理があるように感じた。それは、結局結末にまでも響いてしまうのだが。

この映画でもっとも良いアイディアだと思われたのは、黄色いカローラだ。野原に放置されていて、大学時代から打ち捨てられているのだが、バッテリーを加えただけで再生し走り出すのだ。過去の記憶が思い出されるように、その車は軋みながらも、友達と友達を繋げながら乗せて走る。この車は、主人公そのものでもあり、仙台の街そのものでもあり、物語全体でもあるかのようだ。こんな素敵な復活を遂げるのであれば、車の嫌いなわたしでも乗ってみたい。

主人公は、ということは小説家もだが、「習慣と信頼」にこだわっている。まどろみが可能なのは、信頼ある場所と人に囲まれている必要があるのだが、逃亡者青柳には、逃亡はなかなか習慣化できないのだ。ここでアメリカの映画「逃亡者」を思い出すのだが、逃亡生活のなかで、しだいに周りの信頼を獲得したりして、日常を過ごしていくという設定だ。今回の映画では、昔の恋人晴子がこの役割をこなしている。時空を超え、家族を越えた友人関係は可能か、ということも問いかけられている。

横浜にも明治時代の水道管が残っているが、仙台にも明治時代の雨水管が残っていて、これが最後にあんなことを演じてしまうというのは、素晴らしいアイディアだと思った。映画的である。雨水管の先が、広瀬川に通じているという場面は、ジャンバルジャンのパリや、地下水道のワルシャワを踏まえていて、これもそのあとの圧巻のイベントまで考えると、きわめて映画的なのだ

この映画の良いところは、脇や周りが秀逸であるところだ。永島敏行演じる刑事と、濱田岳演じる通り魔男との戦いのシーンは、息がぴったり合っていてなかなかなものだったし、渋川清彦演じる宅配ドライバーも楽しかった。

もしひとつだけ苦言を呈するならば、主演女優の竹内結子が映画のなかでいっているのだが、「小さくまとまり過ぎている」というところだろうか。たぶん現在のハリウッドのアクションシーンに適う映画はないだろうが、これに対抗するならば、このような「いなし」のような方法しかないのであろうか。

けれども、いなすことはできても、自分が土俵の外に出てしまったのならば、あまり共感できない。晴子に「よくできましたね。はなまるよ」といわれても、そうですか、と素直に喜べないだろう。友人を失くし、自分を失くしたものが、どのように生きていくことができるのだろうか、こちらのほうがよっぽど問題である。習慣と信頼が大切だと言っておきながら、この主人公は、これらの両方を結果として失っているからである。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。