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2010年1月に作成された投稿

2010/01/30

仙台の街のイメージ

仙台の街のイメージはどのようなものだろうかという問を、この時期に考えるのは、きわめてまっとうだと思われる。たしかに、特徴があるのは認める。けれども、なんとなく言葉に出していうことができない。

伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」というイメージは、ひとつの小説のなかで使われたイメージに過ぎないが、仙台の街をイメージするには、適切な言葉ではないだろうか。映画のなかでは、「黄金のまどろみ」と訳していたが、黄金のまどろみを与えるほどの街なんて、そうざらにあるものではないが、数回の訪問ではそのとおりだと思った。

いつも仙台へいくのは、スクーリングなどの仕事なので、黄金のまどろみにひたったことはあまりないが、数年前に3月の2週間ほど、仙台を拠点として資料収集して原稿を書いたことがある。このときには、3月だというのに、吹雪になって仕方なく、宿舎で黄金のまどろみを体験した。雪のなかは、静かでずっしりとした感じで、まどろむには最高の条件だったと思う。

仙台のひとたちは、冬になると、ゴールデンスランバーの気分になるのだろうか。今度、仙台出身のブログ仲間のKさんに聞いてみよう。

採点の作業に入る季節になって、手元にはぞくぞく答案が集まってくる。そこで、試験週間が終わる前にということは答案にかかる前に、今日封切りの映画「ゴールデンスランバー」を見に来たしだいである。

これまで伊坂幸太郎の小説の映画化の映画をみるのは、いつも場末の映画館(失礼、場末だから悪いというのではなく、ちょっと隠れてみたいという意味だ。)にしていたので、今回も場末の感じがよく出ている映画館へ駆け込んだ。

まだ、封切りしたばかりなので、ネタばれの嫌な方は、これ以降読まないほうがよいかもしれない。へんな偏見を植え付けられて、見るわけには行かないだろう。

映画の出だしで映っていたのは、一番街商店街と老舗の百貨店藤崎だと思う。大きなアーケイドは、関西のほうへ行くと、単なる宣伝の飾りのように思えてしまうが、仙台では冬の雪を考えると必需なもののように思われる。

最初に仙台に来たときに、すでに故人となってしまった日本経済史のW先生に案内されて、放送大学の宮城学習センターのある東北大学片平地区の学生街から出て、老舗のうなぎ屋さんに寄りながら、このアーケードへ吸い込まれるように入っていき、繁華街のある国分町へ向かったのを覚えている。

定禅寺通りという音の響きが素敵で、やはり足を伸ばした。ここには、独特の喫茶店が軒を並べていて、散歩の途中によるところとしては最高のところだ。並木の木漏れ日が素晴らしい。

映画では、このメーンストリートで、首相の車が爆破されることになっており、今回の主人公の青柳の逃亡がここから始まる。なぜ逃げねばならないのか、それははじめは企みで、つぎには偶然そうなったという設定だが、ここへ呼び出したのが、大学生時代の親友であるという設定には、相当無理があるように感じた。それは、結局結末にまでも響いてしまうのだが。

この映画でもっとも良いアイディアだと思われたのは、黄色いカローラだ。野原に放置されていて、大学時代から打ち捨てられているのだが、バッテリーを加えただけで再生し走り出すのだ。過去の記憶が思い出されるように、その車は軋みながらも、友達と友達を繋げながら乗せて走る。この車は、主人公そのものでもあり、仙台の街そのものでもあり、物語全体でもあるかのようだ。こんな素敵な復活を遂げるのであれば、車の嫌いなわたしでも乗ってみたい。

主人公は、ということは小説家もだが、「習慣と信頼」にこだわっている。まどろみが可能なのは、信頼ある場所と人に囲まれている必要があるのだが、逃亡者青柳には、逃亡はなかなか習慣化できないのだ。ここでアメリカの映画「逃亡者」を思い出すのだが、逃亡生活のなかで、しだいに周りの信頼を獲得したりして、日常を過ごしていくという設定だ。今回の映画では、昔の恋人晴子がこの役割をこなしている。時空を超え、家族を越えた友人関係は可能か、ということも問いかけられている。

横浜にも明治時代の水道管が残っているが、仙台にも明治時代の雨水管が残っていて、これが最後にあんなことを演じてしまうというのは、素晴らしいアイディアだと思った。映画的である。雨水管の先が、広瀬川に通じているという場面は、ジャンバルジャンのパリや、地下水道のワルシャワを踏まえていて、これもそのあとの圧巻のイベントまで考えると、きわめて映画的なのだ

この映画の良いところは、脇や周りが秀逸であるところだ。永島敏行演じる刑事と、濱田岳演じる通り魔男との戦いのシーンは、息がぴったり合っていてなかなかなものだったし、渋川清彦演じる宅配ドライバーも楽しかった。

もしひとつだけ苦言を呈するならば、主演女優の竹内結子が映画のなかでいっているのだが、「小さくまとまり過ぎている」というところだろうか。たぶん現在のハリウッドのアクションシーンに適う映画はないだろうが、これに対抗するならば、このような「いなし」のような方法しかないのであろうか。

けれども、いなすことはできても、自分が土俵の外に出てしまったのならば、あまり共感できない。晴子に「よくできましたね。はなまるよ」といわれても、そうですか、と素直に喜べないだろう。友人を失くし、自分を失くしたものが、どのように生きていくことができるのだろうか、こちらのほうがよっぽど問題である。習慣と信頼が大切だと言っておきながら、この主人公は、これらの両方を結果として失っているからである。

2010/01/13

放送大学叢書

放送大学叢書が発刊されて、もうすぐ1年になる。これまで7冊が左右社から発行されている。新聞の書評などで取り上げられたものもあり、評判を取ってきている。

最初の企画では、当時図書館長だったK先生が関わっていて、その助走速度があった。このため、その勢いがずっと続いてきている。わたしもこの叢書をプロモートする委員会に所属しているが、この勢いを感じている。

文化というものの底力というものがあるとすれば、それは丹念に練り上げられ、静かに貯蔵されて寝かされたものが、はじめて得る力であり、けっして一朝一夕では成し遂げることはできないような力が働いているのだといえよう。

熟成の極地を示す言葉で、「何も足さない、何も引かない」というサントリーの名コピーがあるが、しかし、開発段階を含めて、この段階にいたるまでには、「すべてを足し、すべてを引く」覚悟で試行錯誤が行われた後に、ようやく何も足さない段階に近づくのだと思われる。

この意味では、放送大学の「樽」のなかには、すべてを足し続けて熟成されたテキストがたくさんあるように思われる。すでに絶版になってしまったもののなかで、いくつかのものは、現在まったく手に入らない。

もし放送大学のなかに継続性ということを探るならば、これらの作り続けられてきたテキストの伝統の中にあるのではないかと思われる。もっとも、テキストだけにこの伝統が生かされるのではなく、もっと広がりをもつことも可能ではないかという思いは、以前からすでに、たとえば退任なさったH先生も主張なさっていた。

だから、昔評判の良かったテキストの復刊は、放送大学の文化なのだと思われる。放送大学らしさの粋が集まっていると考えられる。それも単なる復刊ではなく、現代に合わせて作り直されて出てくるのだから、きわめて伝統的かつ現代的な企画なのだと思われる。

じつは、早稲田大学O先生の3日前のブログで、放送大学からテキストの復刊、つまりは叢書執筆の依頼があったとのことが語られていて、「さて、どうしたものか」としている。O先生のテキストは、当時受講者数も多く、評判の良いテキストだったので、現代バージョンを世に出す意味は十分あると思われる。それに、主観をつかんで離さない独特の文体は、この叢書に絶対合うと思う。ぜひ引き受けてくださったらいいな、と思っている。

2010/01/11

コンタクト・プリント

Photo 母の入院している病院に泊まり込んだので、起きて午前中に、病院内にあるコンビニでの果物の買い物や、喫茶店でのコーヒーに付き合う。病室の窓からは、近未来的な光景が広がる。母が盛んに幻想をしゃべるようになったのも、この風景も原因の一端ではないかと思う。

その後お世話になっている担当医師の方と看護師の方がたと、言葉を交わして、午後には東京都写真美術館へ向かう。「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン」展がすでに11月から行われているので、そろそろ空いた頃ではないかと思って出かけることにしたのだが、残念ながらまだまだ超満員であった。

今回の展覧会では、コンタクト・プリント(撮影フィルムのベタ焼き)を初公開しているということなのだ。それで、写真愛好家が押し寄せているのだと思っていたが、このコンタクト・プリント展示のまえはそれほど混んでおらず、じっくりみることが出来た。なぜコンタクト・プリントなのかといえば、それは写真表現の本質的な問題がここに表れているからだ。

よく写真は瞬間の芸術だといわれるが、結果だけでそう判断されているにすぎない。じっさい、俳句がそうであると同じように、制作の過程では、その瞬間にはたくさんの要素が盛り込まれて、一枚の写真が出来上がっているのだ。人為的に盛り込まれるというのではなく、無意識の内に重層化されているために、その何枚かをはがしてみることが難しいから、このことが認識されないのだと思われる。コンタクト・プリントの存在は、このことを明らかにしている。

コンタクト・プリントでは、ライカ・カメラの35枚の連続写真として映し出されているために、ベタ焼きのなかで、どの瞬間が選ばれたのかがわかるのだ。評論では、木村がトリミングを行わないことを盛んに強調していたが、だからといってまったく編集ということが行われていないというわけではない。連続写真のなかでの選択は立派な編集であり、昔聞いたことだが、木村には中間的な眼ということが存在することを示しているのだ。

たとえば、「板塀、秋田市追分」という写真では、古木が板塀のまえに根をむき出しで生えていて、郵便受けがふたつ並んでいる。これらの連続写真が残っていて、最後に選択されたのは、馬のお尻と尻尾がちょっと写真の端に覗いたものを選んでいる。板塀と古木だけで秋田らしくていいじゃないか、と思うのだが、やはりこの馬のお尻が入るだけで、もっと秋田らしさが出ているのだ。

ふたつ以上の世界が重層している構図が多いのが、木村の特徴だと思われる。早稲田大学のO先生もコメントしているので、二番煎じの感があるが、有名な写真「本郷森川町」のコンタクト・プリントでは、人物がまったく写っていない辻から始まって、ひとつの世界、ふたつの世界、三つの世界と重なっていく。そして、8枚の写真がすべて重なったような世界が突如として、そこに現れる。その1枚が結果として選らばれている。

昨夜看護師の方の巡回があって、念入りに母を監視する体制が組まれていたので、その一端を担うにも、覚悟と忍耐が必要であった。そのため、寝不足で帰りの電車ではすっかり寝込んでしまった。このような緊張を毎日行っている病院の方々のご苦労は、仕事とはいえ、相当に大変であることが改めてわかったしだいである。

2010/01/10

勤めながらの研究会

面接授業の二日目である。今回は、去年と違って、A先生が正式に講師として加わり、インターネットを通じたコミュニケーションについても講義を行っていただいたので、健康と地域と、さらにこれらを結ぶ関係についてもはなすことができた。盛りだくさんの内容となった。

このようなときには、まとめが大変だが、学生同士の話し合いもうまく行き、よく言えばオープンな講義ができたと思う。実験的な試みだとはいえ、内容の7割程度は尻あがり的に達成できたのではないかと思う。

最後は、先生方がまとめを行い、沖縄にいる先生方への拍手をもって、両センターともに無事終了することができた。

成績をつけて、早々に学習センターを失礼して、品川へ向かう。じつは放送大学大学院の卒業生のYさんとSさんが、関西大学のNさんを巻き込んで、研究会を作りたいというので、助言者として参加することになったしだいである。

やはり、大学院論文を書いた後が重要だと思われる。大学院での論文は、単なる予備実験であって、それ以降にいかに論文作成を継続できるかが社会人の場合に大切だと思われる。博士課程に進むのでなければ、多くの卒業生は論文を書くことを止めてしまう。

このような状況を転換させたいと考えていたのだ。この研究会はこの意味でもたいへん推奨すべきだものと思われる。放送大学のような遠隔教育の機関では、このような自発的な研究会がこれまでなかったことのほうがむしろ問題だと思われる。先生方が主導するのではなく、参加者がどんどん進める会にしていただきたいと思う。

品川にはビジネス関係をねらったレンタル会議室などがあって、社会人が集まる場所にことかかない。けれども、今回は研究所勤めのSさんの推薦で、ホテルのレセプションにある喫茶室を利用してみた。まわりはすべて外国人であったが、何時間でも落ち着いて話すことができたので、少人数の研究会では、お勧めの場所である。

友人との待ち合わせには、何回も利用していたが、レンタル会議室とホテルのレセプションとが競合する時代になっっていることには気づかなかった。料金も1時間ならば、同程度で終わるが、2時間を越えるとやはりホテルがかえって安くなる。このような贅沢な場所で研究会というのも、悪くはないだろう。

以前にも、指摘したように、都心でみんなが集まるところがあれば、このような研究会ももっと組織されるようになるかもしれない。品川駅で行うメリットは、出張で出てきた人が、時間いっぱいまで研究会に出ていて、そのまま新幹線に乗ることができるというところにある。普段はメールのやりとりで、論文をある程度完成することはできるが、最後はみんなで会って、討論を行っておきたいと思った。

この意味で、駅近くの会議室というのは、社会人遠隔教育大学にとっては、必須の場所ではないかと思う。そういえば、大阪には駅前に公的な貸し会議室があって、借りることができたが、このくらいの便利さを関東でも実現したいものである。

会社で仕事をして、そのあと研究会で談論しあうというのが、仕事と余暇のバランスを考える上ではたいへん良い条件ではないかと思われるさらに、仕事で行っていることがそのまま研究になる、というのは、恵まれていると思われる。ちょっと時間の余裕がなくなるし、仕事もキツクなるが、それ以上に昇華されることが多くなるに違いない。

連休には、一番忙しくなるのが、放送大学に所属するものの伝統だ。今日も、母の入院している病院から呼び出しがあり、研究会の終わった後、付き添いのために病院に泊まることになった。

2010/01/08

フリーの法則

朝起きると、昨夜飲んで宿舎に戻ったままの姿だった。そのまま寝入っていたのだ。それほど飲んだ記憶はないのだが、収録と旅の疲れのためか、思った以上に酔っていたらしい。

せっかく、長崎に来たのだからと、早起きしてこの宿舎の山側に展開している、唐人屋敷跡を散策する。江戸から明治にかけて、おそらくその後の横浜の中華街のような雰囲気で、商人であった唐人たちの街が発達した地域だ。

案内の地図は、屋敷群の周りの環境を見ることから勧めているので、それに従って、まずは住宅地に広がっている、狭い階段の入り組んだ路地裏を回って歩く。なるほど、こうゆうのが長崎らしさなのか、と頷ける町並みが続く。曲がりくねった階段道と、左右に連なる平屋の家々。近くの高校生や大学生が、坂道を登ってくるので、道を聞きながら、先を進んでいく。今は建物が立て込んでしまっているが、「遠見番跡」では遠く海のかなたが望めたのだろうか、と遠望のマネをする。「レンガ塀」が特徴の一角では、外国人が居住していたのかもしれないと想像する。

唐人屋敷跡には、土神堂や天后堂などの神様を祭る建物が、復建されているのだが、祭られているのは、道教の女神で、海の神とされている「媽祖」である。横浜にも近年立派な廟が再建された神様だ。伝説が過酷だ。媽祖が寝ていると夢を見る。父と兄が沖へ漁に出て戻らない。夢の中で、遭難した父を抱え、兄を口にくわえて救出する。けれども、母が媽祖を起こしたときに返事をしてしまい、口をあけたときに兄が海に投げ出され、父のみが助かる。という厳しい伝説だ。

お願い事をすると、家族の半分を失うような犠牲を強いられそうで、ちょっと怖い話だ。男性を海外へ出し女性を定着させてきた、という比喩だろうか。いずれにしても、母系制の伝統に基づく、伝説のように思える。けれども、この伝統が海外に移住した福建の人びとのなかに、コミュニティ意識として存在するらしい。

中国人の移民には、定着型と回遊型とが存在するらしいが、母系制は定着型にとって都合よかった伝統なのではないかと推論してみた。したがって、日本の中華街では、媽祖信仰が盛んに行われたのではないだろうか。

さて、身なりを整えて、出張本来の仕事に向かう。今回は、放送大学内部に大学間の単位互換を推進する企画連携委員会というのがあって、そこから派遣されたのだ。各委員が当番制で相手校を訪問しており、わたしは長崎大学ということになったしだいである。

2時間にも及んだ意見交換で、いろいろなことがわかって、たいへん勉強になった。当初は、単位互換での放送大学の役割は、語学などの教養科目を大量に引き受け、相手校の多くの学生を受け入れよう、という趣旨で行われ始めた。もちろん、放送という手段を持っている大学としては、これは得意な技で、大量に情報伝達ができるという特性を生かしたい、ということは自然な流れだ、と思われていた。

ところが、すでに数年が経ち、しだいに経験が蓄積されて、振り返ってみると、放送大学の取り柄はこのような大量散布方式だけではないことが次第にわかってきている。むしろ、少人数しか望めないような科目こそ、放送大学の取り柄であり、相手校ではこのような2, 3人規模の学生の取る科目を、互換科目にリクエストする傾向が見られるようになって来たのである。

どういうことなのか、ということだが、大勢を集める科目の場合には、相手校は自前の先生、あるいは非常勤の先生を準備したほうが、経費がかからないのだ。それに対して、20人以下の学生にしか需要のないような科目こそ、放送大学を利用する価値があるのだと、認識するように、ここがずいぶんと変わってきていることがわかってきたのだ。アマゾンやグーグルが取っている、いわゆるロングテール法則に則った傾向だ。つまり、一大学からは2,3人の受講者しかなくても、放送大学は全国の大学と互換しているので、すべての受講生を合計すれば数百のレベルになるのだ。

ちょっと道草を食うことになるのだが、ロングテール法則は、米国の『ワイアード』誌編集長クリス・アンダーソンが広めた認識だが、彼が広めているもうひとつの「フリー(無料)」という考え方についても、じつは放送大学は先取りしている。つまり、放送大学は当初からテレビ・ラジオ放送に関しては、誰でも無料で視聴できるようにしているのだ。つまり、無料市場と有料市場を組み合わせて採算を考える、いわゆるTwo-sidedモデルを取っている。

というように、長崎大学の担当者との討論のなかで、いろいろの知見が改めてわかってきて、たいへん有益な訪問となった。長崎大学と長崎学習センターの関係者の方々には、感謝申し上げるしだいである。帰りに、一緒に出張したKさんと長崎市内へ戻って、卓袱料理の店「吉宗」で大きな丼に盛られた「茶碗蒸し定食」を食べた。お正月気分を思い出しつつ、空港へ向かった。

2010/01/07

ジェットコースター的な生活

ジェットコースター的な生活ということは、日常一般に生ずるものではないことは承知していても、一年のなかで、必ず忙しさが勝り、複数のコースが同期反復してしまうことがどうしても起こってきてしまうのが、現代の特徴だ。

このようなときに、現実を受け入れざるをえないようなことになってしまう。時間は過酷で、待ってくれないし、過ぎることのみを法則としていて、それ以外の法則や論理をなかなか受け付けてくれない。

夕べ寝るのが遅かったので、今日は長い一日になることを覚悟した。朝4時に一度寝たのだが、眠りにつくやいなや7時には、もう眼が覚めてしまった。家族からは、3分で眠りに落ちる人という異名を付けられており、それを守っているものにとっては、珍しいことである。

10時からは、定刻どおりラジオ収録が行われた。前回はAスタジオで、かなり冷えていたのだが、今回はこじんまりしたBスタジオだ。放送大学のなかでも、好きな場所のひとつだ。

金魚鉢と呼ばれているラジオスタジオだが、たぶんその語源となったのは、調整室とスタジオを隔てるガラス窓があるからだろう。数ミリの厚いガラスが3枚も埋め込まれている。さらに、今日気づいたことに、その3枚が微妙に傾きを持っている。これで、ガラス窓が光らない仕組みになっているのだ。改めて眺めてみると、複雑な構造を持っている。忙しいときほど、このような些細なことに眼がいくという悪い癖を持っているのだ。

順調に進んだことを感謝しつつ、羽田空港へ駆けつける。長崎へ出張が入っていたのだ。途中、寄り道をする必要が出来たので、結局19時の航空機になってしまったのだが、利用することになっていた飛行機が落雷のため、使えなくなり、そのため、30分以上遅れての出発となった。

Milstone せっかく、長崎へ行くからには、美味しい卓袱料理を食べたかったのだが、あまりに遅い到着になってしまったので、断念する。そのかわりに、港町特有のJazz喫茶を探すことにする。宿の近くの運河沿いに2軒ほど見つけたので、その中でも老舗の店へ入ることとする。

こんなに遅くなって、知らない町で狭い階段を登っていくのには、勇気がいる。そして、もしかしたら、4階へ通り過ぎてしまうかもしれないような、コーナーを振り返ると、「マイルストーン」があった。

扉を思い切って開けてしまえば、懐かしい開放的な空間が開けてくる。なんと今日は客が一人もいないのだ。運河に向かって広く臨む窓は、今日午前中にみたガラス窓より一回り大きな一枚板のガラスがはめ込まれていて、贅沢な気分だ。ここから眺めれば、世界中が一望のもとに収めることができそうだ。

Photo_2 テーブルと椅子は相当年季が入っている。真ん中にピアノが置いてあり、バックヤードにも席がかなりたくさん設けられていて、もし一杯になったら、迫力あるライブ演奏も圧倒する客が入りそうである。今日は、想像だけだが。

さて、さらに輪をかけて、年季の入ったご主人が、芋焼酎に凝っているらしい。わたしはあまり詳しくはないが、ことしは地域性をテーマにワインを追ったので、その伝えで、焼酎にも地域性があるのだろうと、いくつかを推薦してもらった。有名な「魔王」や、地域性のある「六代目百合」などをしたたか飲ませていただいた。

明日の出張の予習を行うために行ったのだが、それは1時間ぐらいで終わってしまい、いろいろと新しい発見もできた。それも、良い音楽と、酒のおかげだったろうと思う。収録の緊張感をほぐして、次の仕事へ転換を図るには、やはりアルコールは効用があるのではないか、と思ったしだいである。

それにしても、このような時間が用意されているとは思わなかった。K先生との雑談の中で、ひとりで飲むのは楽しいですよ、と先日おっしゃっていたのを思い出した。そして、それを実感したしだいである。今日は、収録で十分仕事をしたのだから、それを沈静化するのは必要ではないかとも思った。

帰り道は単純だったので、すぐに宿舎に戻ることが出来たが、部屋に戻ってからの記憶がないのは、かなり飲んだ証拠かもしれない。

2010/01/02

贅沢について

展覧会の観初めに選んだのは、「ラグジュアリー Luxury」展(東京都現代美術館)である。じつは、今回制作した放送大学の講義「社会の中の芸術」では当初、贅沢をひとつの柱にして組み立てるつもりだった。けれども、消費社会論を以前書いているので、今回は新しいところに挑戦したいと思い、残念ながら落としていた観点である。この展覧会がもっと早く行われていたら、きっと贅沢論を含めて取材していたに違いない。

服飾にはあまり馴染みがないこともあって、はじめは贅沢の意味が単線的で、贅沢を扱っている割には、地味な展覧会だな、と思って観ていた。けれども、これはわたしの力不足がもたらした錯覚で、観ているうちに、伏線がいろいろ張ってあって、しだいに面白くなってくるタイプの展覧会だった。

キイワードは、「トレーン(train)」、引きすそである。列車や汽車にも連想が働くが、そうではなくもっと中世的な言葉なのだ。贅沢を「見せびらかしの消費」として解釈したのは、ここでもよく引用するT.ヴェブレンだが、彼は労働を免除されている階級を表す象徴として、贅沢を説明した。たとえば、女性のスカートやコルセットは、明らかに労働を行わないことを誇示する服装だ。このトレーンも同様に説明できる。スカートから引きすそをたらして、歩く姿は、明らかに労働には向いていない。

おそらく、このトレーンは宗教的な意味から始まって、キリスト教僧侶の袈裟あたりに由来するものと思われる。それで、袈裟が前垂れとなって、労働向けに使われるようになったのが、エプロンで、逆に、後ろへ回って、労働を妨げる道具となったのが、トレーンになったものではないだろうか。もっとも、この説はわたしの推断なのであまり信用してもらっても困るが。けれども、記号発生的には、同じものが片方は前に回って労働促進的なエプロンになり、他方は後ろに回って、労働免除的なトレーンになった、というのは合っていると思われる。

エリザベス朝のスカートに付属して、外部的に付けられた赤いトレーンが美しかった。トレーンの長さが身分を現わしていた、などということも、やはり見せびらかしの効果を狙ったものだ。

展覧会のパンフレットでは、ダビッドの描いたナポレオンの戴冠式で、ジョセフィーヌが身に着けていたトレーンに注目していたが、現代においても、結婚式ではウェディングドレスはほとんどが引きすそに造られていて、日常みることができる服飾である。

18世紀くらいまでは、長さを競っていたが、次第にスカートの中に取り入れられるようになって、スカートの裾それ自体が長くなる。裾の長いスカートが宮廷などで流行ることになる。そして最後には、恐竜の尻尾のように、退化が始まり短くなってきて、ついには消えていくことになる。18世紀の貴族趣味の絹ドレスにおけるトレーンが、洗練されていて美しかった。

と思いきや、なんとスカートの内部に、掬い取られる形で、存続していったらしい。つまり、内面的なトレーンがその後の服飾のなかに存在することになる。これから後は、展示提供者たちの心境を推測して思ったことだが、服飾のリボンや、レースや、さらには、襞や重ね着も、もしかしたらトレーンの変形かもしれない。あるいは、服飾がトレーンに反映され、さらにトレーンが服飾へ再投入されたのかもしれない。と新年の想像力は止まるところをしらない。

それは、最後の展示での、コム・デ・ギャルソンのデザインに顕われていた。異様に長い袖、ターバンのように巻きついたシャツ、幾重にも重ねられた襞の服、異なる服の複合された服など、過剰で豊かで多くのものを結び付けていく、「トレーン」を現代に蘇らせていた。

トレーンの進化論、という趣の筋のとおった伏線が見事な展覧会だった。トレーンという贅沢が、現代においても、ほんの身近に存在するのだ、ということを気づかせてくれたことで、今年は新年早々幸先がよいな、と思いつつ、つぎの目的地へ向かった。

2010/01/01

新年早々?

31日の深夜、いざ風呂に入ろうと、スイッチを入れたとたんに、火がダウンした。何回試しても、エラー表示が出てしまう。

以前にも、給湯器が故障したことがあって、同じだと思い、大晦日のこんな時間に営業しているはずはないとは思ったが、駄目元でメーカーへ電話してみた。ところが、こんな時間にもちゃんと働いている人びとがいるのだ。

でも、やはり修理は5日以降になってしまう、ということなので、予約だけをして電話を切った。それで、仕方ないから、家族で年越しそばを食べて、寝ようということになった。ところが、ガスコンロもはじめは炎を出していたのだが、途中で火が弱くなって、最後は止まってしまった。

それで、故障は給湯器ではないのでは、ということになって、今度はガス会社へ電話をすると、すぐに来てくださるということになった。何も大晦日の夜に、故障しなくても、他にも日はたくさんあるだろうに、とも思ったが、これも運命だ。

故障したのは、たしかに大晦日の深夜だったのだが、すったもんだしているうちに、新年になってしまった。ガス会社の方は、さすがにプロで、検査の機械を駆使して、ガスが流れなくなった原因をたちどころに解明してくださった。パイプの調整弁が壊れていたらしい。

さて、大晦日に押し詰まってからの事件なのか、それとも、新年早々事故に見舞われたというのか、それによって、1年の印象がガラッと変わってしまう。ここは、いろいろなことが起こった昨年のせいにして、朝から始まる新年にはこのような事故が起こらないよう。家内安全を願って、ようやく就寝した。もちろん、遅ればせの年越しそばをいただくことは忘れなかった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。