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2009/10/26

虚無とカムイ

映画「カムイ外伝」を観た。漫画のカムイ外伝をどこで読んだのかは、覚えていない。でも、ひと昔前であれば、友人の下宿へいけば、大概ガロやビッグコミックは置いてあったから、全体は読んでいないが、部分的で切れ切れであったものを読んでいて、イメージで全体が結び付けられていた。

だから、読んだ人にしかわからない「変移抜刀霞斬り」や「飯綱落し」が映画の最初に「解説」されてしまったときには、それじゃ何を見せてくれるのだ、と思ってしまった。観客としては、それ以上のものを当然求めるだろう。

監督は期待させる。役者も良かったと思う。それぞれの場面も十分にじっくりと描いていて、申し分なかった。景色もよかったし、ブルーがきれいだった。だから、個々のところでは、まったく悪いところはない。どうして、映画というものは、これほどすべてが良くても、満足しないのだろうか。不思議に思ってしまう。

カムイと不動が決闘する場面で、荒れ果てた砂地の土地から、にゅっと枯れ枝が何本か飛び出ている。漫画では、おなじみの荒涼風景の典型である。ところが、何か違うのだ。二人とも、栄養状態は良いし、空はなぜか青いし、環境がずいぶんと「豊か」なのだ。21世紀のカムイは、豊かなところに住んでいるのだ。

これに象徴されるように、映画全体が、沖縄でロケが行われているだけあって、なんとなく緊迫感がない。そのことは映画の長さにも響いているように思えた。

カムイ物語の中核は、虚無だと思われる。けれども、この映画が追求したのは、どう観ても、虚無ではなかったような気がする。内容が詰まっていて、空しい感じははじめから排除されている。カムイの恋愛も、緊迫感がないのは、虚無のせいでなく、むしろ映画の文脈に無理があるからではないだろうか。

虚無をもたらす道具として、今回の映画では、「猜疑心」が使われている。スガルとの間の「自己猜疑心」と、不動との間の大なる「猜疑心」なのだが、自己猜疑心は半兵衛の人柄もあって、信頼関係へと変わっていく。

不動との関係がわからないのだ。部下からの信頼を勝ち得ており、また島々から集団としての信頼も勝ち得ている、その棟梁が部下を裏切り、島民たちを裏切る。この不条理を「追忍」ということで説明してしまうところに、無理があるような気がする。「陰忍」はこんなに目だっても成り立ちえるのだろうか。それとも、カムイの虚無というよりは、不動の虚無を描いたのだろうか。

すべてにおいて申し分がない映画なのに、感じる部分がないのは、この映画の中での虚無がしっかりと描かれていなかったからではないだろうか。猜疑心も虚無も現代的で、この時代に合ったよいテーマだと思う。けれども、虚無から感動を作るということは、きわめて難しいことはたしかなのだ。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。