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2009/10/25

ヴィヨンの妻

大学院生のころ、井の頭線「三鷹台」で、取り壊し寸前の、風通しの良い一軒屋を借りて住んでいたことがあった。玉川上水がすぐそばを流れていて、まだお茶の木の生垣で囲まれた大根畑がたくさん残っていた。春には、菜の花の黄色が目に染みた。根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻」を見てきた。夫婦で夜道を帰るシーンがあって、その場面は武蔵野の昔の感じを知っている人にしかわからない雰囲気を再現していて素敵だった。

わたしのまわりには、どういうわけだかわからないが、偶然にも女優の松たか子をあまり好きではないという方がたが多い。わたしはといえば、好きでないところは包容力がなさそうにみえてしまうところであり、嫌いでないところは意外に屈託がないところだ(演技の上だけの印象だが)と思っていた。けれども、今回はちょっと好きに傾いた。

女性類型あるいは夫婦類型の話である。このふたりの関係は特別な関係であって、ふつうの夫婦でも特別なのだから、それに輪をかけて特別だと思われるくらい特別なのだ。何が特別なのかといわれると、互いにどうして夫婦なのかよくわからないというところだ、と思われる。けれども、ふつうの夫婦もよくわからないといわれれば、そうかもしれないので、特別ではないのかもしれない。

たとえば、このような場面がある。夫が昔からいつも神に見られているような気がする、と言うところで、「生まれたときから死ぬことばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもうたしかなんだ。それでいてなかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕が死ぬのを引き止めるのです。」それで、「いるんでしょうね。」と夫が妻に問いかけると、「私にはわかりませんわ。」と答えるのだ。

わからなくても、夫婦でありうるというところが本質的なところなのだと思われる。しかし、こうなってくると、創作上の人物なのか、太宰本人なのか、わからなくなってくるのだが、ここまで自分のことを言葉で捉えていたにもかかわらず、最後はあのようなことになってしまったというところが、太宰なのだと思う。

フランソワ・ヴィヨンは、犯罪と放蕩を尽くした詩人で、15世紀のパリにおいて、ならず者生活を送ったらしい。太宰治自身を彷彿とさせる主人公の夫が、やはりそのような面を持っていて、これに対して、妻がどのような役回りを演ずるかが見ものの映画だ。夫が描く「理想の妻」とはどのような類型なのか、ということが試される映画だといってもよいだろう。

グリークの「ペール・ギュント」を思い起こさせるような部分もあり、「特別さ」のひとつの類型を見事に、今回の映画は描いていると思われる。なぜ太宰は、この普遍性をわかっていながら、受け入れることができなかったのだろうか、ということが頭に沸いてきて、映画館の椅子から立ち上がることができなかった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。