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2009年10月に作成された投稿

2009/10/28

電子ブックのめざすところ

Kindle 電子ブックが何をめざしているのか。まだ、予断は許さないのだが、なんとなくわかってきたことが、いくつかある。

ひとつは、これまでのイノヴェーションすべてがそうであったように、ブックと名がついているが、これは書籍とはほぼ異なるものとして発達を遂げるだろう、ということだ。紙の書籍には、それなりの利点があるし、わたしたちの習慣がそう簡単に変わるわけではないだろう。

ふたつには、新しい機能として発展するのは、どのような点か、といえば、やはり今回のアマゾンの「Kindle」は良いところをついていると思われる。即時性である。あの薄さで、しかもインターネットへの無線通信料が無料なのだ。野外でも家を離れても、どこででも繋がり、メールができるのだ。残念ながら、現在は英語だけだが、日本語もそのうちできるようになるだろう。ニュースだけでなく、書籍購入の即時性も魅力だ。論文を書いていて、すぐに近刊書籍を購入できる。やはり専門用語の英語が気になるときがあるのだ。書籍代がいくらあっても足りない。

Managing じつは、この即時性は、ちょっと脅威である。いま、ちょうど放送大学のテキストを書いているのだが、書いてすぐ出版されていくようになったら、放送大学の教員はいつ眠ったらよいのだろうか。これまでにない出版革命が起こることは間違いないだろう。新聞業界はほんとうに脅威だと思われる。

みっつには、やはり検索機能だろう。日本の青空文庫や欧米のグーテンベルク・プロジェクトが出てきたときは、パソコン上でのことだった。けれども、今度は書籍のなかに検索機能がついているような感覚だ。付箋をつけて読む人にとっても、この検索機能は便利だ。

わたしもさっそく、古典をたくさん入れ込んだ。リヴァイアサンや国富論、一般理論や人口論、さらにチェスタートンやピーターパンなどをパソコンから、キンドルへ移した。まだ、ちょっと個人的な技術が必要だが、日本語版が出てくるころには、もっと使い勝手のよいものになってくるだろう。ということは、やはりグーテンベルクのときと同じように、古典が復活することに十分貢献できるだろう。

検索という言葉じたいが、英語では再発見する、思い出すという言葉であることからも、個人アーカイブとして発達することは間違いないだろう。卒論や修士論文を放送大学で書きたいと思っている人は、通勤電車の中で、ちょっと読むのに適している。読みたい論文を英文テキストにして、入れておくだけで、論文完成まで失くす心配がない。もちろん、自分の書いた論文の収納庫としては、申し分ないだろう。いつでも、自分の書いたものを手元に置いておくことができる。

以上は、なんだ、パソコンと同じじゃないか、という方もいるかもしれないが、やはりこの薄さが重要だと思う。昼寝をしていて、眠りながらも持つことができるメリットは感覚の問題だと思われる。おそらく、この感触はもっと進化すると思われる。ポータブルという価値に関しては、現代人はずいぶんと知ってしまって、すこし幼児回帰のような病的な気がしないではないが、手放すことができなくなってきていると思われる。

当分、日本語については画像で我慢することになるから、たいへん不便だ。古典を読む必要のない人にとっては、わざわざ英語版のキンドルを購入することはないだろう。日本で普及するのは、やはり日本語版が出てからになると思われる。

2009/10/26

虚無とカムイ

映画「カムイ外伝」を観た。漫画のカムイ外伝をどこで読んだのかは、覚えていない。でも、ひと昔前であれば、友人の下宿へいけば、大概ガロやビッグコミックは置いてあったから、全体は読んでいないが、部分的で切れ切れであったものを読んでいて、イメージで全体が結び付けられていた。

だから、読んだ人にしかわからない「変移抜刀霞斬り」や「飯綱落し」が映画の最初に「解説」されてしまったときには、それじゃ何を見せてくれるのだ、と思ってしまった。観客としては、それ以上のものを当然求めるだろう。

監督は期待させる。役者も良かったと思う。それぞれの場面も十分にじっくりと描いていて、申し分なかった。景色もよかったし、ブルーがきれいだった。だから、個々のところでは、まったく悪いところはない。どうして、映画というものは、これほどすべてが良くても、満足しないのだろうか。不思議に思ってしまう。

カムイと不動が決闘する場面で、荒れ果てた砂地の土地から、にゅっと枯れ枝が何本か飛び出ている。漫画では、おなじみの荒涼風景の典型である。ところが、何か違うのだ。二人とも、栄養状態は良いし、空はなぜか青いし、環境がずいぶんと「豊か」なのだ。21世紀のカムイは、豊かなところに住んでいるのだ。

これに象徴されるように、映画全体が、沖縄でロケが行われているだけあって、なんとなく緊迫感がない。そのことは映画の長さにも響いているように思えた。

カムイ物語の中核は、虚無だと思われる。けれども、この映画が追求したのは、どう観ても、虚無ではなかったような気がする。内容が詰まっていて、空しい感じははじめから排除されている。カムイの恋愛も、緊迫感がないのは、虚無のせいでなく、むしろ映画の文脈に無理があるからではないだろうか。

虚無をもたらす道具として、今回の映画では、「猜疑心」が使われている。スガルとの間の「自己猜疑心」と、不動との間の大なる「猜疑心」なのだが、自己猜疑心は半兵衛の人柄もあって、信頼関係へと変わっていく。

不動との関係がわからないのだ。部下からの信頼を勝ち得ており、また島々から集団としての信頼も勝ち得ている、その棟梁が部下を裏切り、島民たちを裏切る。この不条理を「追忍」ということで説明してしまうところに、無理があるような気がする。「陰忍」はこんなに目だっても成り立ちえるのだろうか。それとも、カムイの虚無というよりは、不動の虚無を描いたのだろうか。

すべてにおいて申し分がない映画なのに、感じる部分がないのは、この映画の中での虚無がしっかりと描かれていなかったからではないだろうか。猜疑心も虚無も現代的で、この時代に合ったよいテーマだと思う。けれども、虚無から感動を作るということは、きわめて難しいことはたしかなのだ。

2009/10/25

ヴィヨンの妻

大学院生のころ、井の頭線「三鷹台」で、取り壊し寸前の、風通しの良い一軒屋を借りて住んでいたことがあった。玉川上水がすぐそばを流れていて、まだお茶の木の生垣で囲まれた大根畑がたくさん残っていた。春には、菜の花の黄色が目に染みた。根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻」を見てきた。夫婦で夜道を帰るシーンがあって、その場面は武蔵野の昔の感じを知っている人にしかわからない雰囲気を再現していて素敵だった。

わたしのまわりには、どういうわけだかわからないが、偶然にも女優の松たか子をあまり好きではないという方がたが多い。わたしはといえば、好きでないところは包容力がなさそうにみえてしまうところであり、嫌いでないところは意外に屈託がないところだ(演技の上だけの印象だが)と思っていた。けれども、今回はちょっと好きに傾いた。

女性類型あるいは夫婦類型の話である。このふたりの関係は特別な関係であって、ふつうの夫婦でも特別なのだから、それに輪をかけて特別だと思われるくらい特別なのだ。何が特別なのかといわれると、互いにどうして夫婦なのかよくわからないというところだ、と思われる。けれども、ふつうの夫婦もよくわからないといわれれば、そうかもしれないので、特別ではないのかもしれない。

たとえば、このような場面がある。夫が昔からいつも神に見られているような気がする、と言うところで、「生まれたときから死ぬことばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもうたしかなんだ。それでいてなかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕が死ぬのを引き止めるのです。」それで、「いるんでしょうね。」と夫が妻に問いかけると、「私にはわかりませんわ。」と答えるのだ。

わからなくても、夫婦でありうるというところが本質的なところなのだと思われる。しかし、こうなってくると、創作上の人物なのか、太宰本人なのか、わからなくなってくるのだが、ここまで自分のことを言葉で捉えていたにもかかわらず、最後はあのようなことになってしまったというところが、太宰なのだと思う。

フランソワ・ヴィヨンは、犯罪と放蕩を尽くした詩人で、15世紀のパリにおいて、ならず者生活を送ったらしい。太宰治自身を彷彿とさせる主人公の夫が、やはりそのような面を持っていて、これに対して、妻がどのような役回りを演ずるかが見ものの映画だ。夫が描く「理想の妻」とはどのような類型なのか、ということが試される映画だといってもよいだろう。

グリークの「ペール・ギュント」を思い起こさせるような部分もあり、「特別さ」のひとつの類型を見事に、今回の映画は描いていると思われる。なぜ太宰は、この普遍性をわかっていながら、受け入れることができなかったのだろうか、ということが頭に沸いてきて、映画館の椅子から立ち上がることができなかった。

2009/10/24

こもりにこもった場所

Photo_2 この2ヶ月間は、ずっとこもりっぱなしで、原稿とにらめっこしていた。隠れ家ならば、ふつうの仕事はパスできるのだが、こもりっぱなしの割には、原稿以外にも大学の仕事もずいぶんこなした。

こもった場所は、ホーム図書館にしているK大図書館だ。定位置を朝一番に確保して、昼に出る以外はずっと占有している。夏休みには、学生はほんとうに少なかったから、ひとつのテーブルを全部使うことができた。最近、学生が戻ってきてしまったので自重気味だ。

Photo_3 レンガ・タイルつくりで、概観も素晴らしいが、中も明るくて利用しやすい。とくに、テーブルとテーブルの間が重要なのだが、この間隔がたっぷりとってある。ひとつのテーブルずつが、それぞれ孤立して、ひとつの小宇宙を構成するような感覚が重要なのだ。

たとえば、うしろに座った人の息遣いなどが聞こえ、なにかしゃべりかけないと悪くなるような親密な距離だと、ちょっといけない。手を伸ばしても、両方から手を伸ばしても、十分届かないだけの距離が必要なのだ。

けれども、最近の図書館では、人声やら、外界の雑音やらがなぜか入ってくる。このようなときに威力を発揮するのが、イヤホーンだ。パソコンには、好きな音楽がたくさん詰まっているし、音楽ラジオはインターネット経由で聞き放題だ。とくに最近気に入っているのは、ピアノソロ専門のラジオ局で、ここを流しっぱなしにしていると、リズム感のあるキーボードを打つようなピアノに合わせて、原稿も進むような気がする。

Photo_4 文章の仕事をしていると、まわりに本がたくさんあることが、なぜか良い。それは、一冊一冊には、その背景に著者いて、ずっと見守っているような気になるからである。もちろん、1時間に1回は立ち上がって、手当たりしだいに書物を引き出し、足あたりしだいに書棚の間を散策する。すると、それまで海の底で腐っていた頭の中が軽くなって、流れが急に早くなるような気がする。   

ディラートが『The Writing Life』で、書斎について書いている。

「書斎はおよそ横2メートル半、縦3メートルの大きさである。(略)この書斎は本を書く予定の人間一人のためには、十分なスペースである。棺ひとつのスペースで、人は本を読める。草刈り機やシャベルをしまう物置のスペースがあれば、人は物が書ける。」

じつは、この書斎は、家から歩いて数分の松林の中にあり、近くには昔からの数軒の夏の家、北には新しい農場が砂山の上にあり、砂山の開けたところから、牡蠣の養殖床が見え、入江から帆船の出て行くのが見える、という風向優美な土地にある。それで、こんな魅力的な場所を避けるために、棺ひとつの眺めのない小さな部屋を用意したというわけなのだ。

書斎に入り、掛け金がかかるように思いっきりドアを強く閉めると、何も見えなくなる。こうしないと、想像力は暗闇のなかで記憶に出会うことは出来ない、ということらしい。さらに、西アフリカの格言を引用している。格好いいのだ。「知恵の始まりは、頭上に屋根を得ることである」と。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。