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2009年8月に作成された投稿

2009/08/23

音楽が繋ぐもの

音楽が人びとをつなぐ、というのであれば、これはどうか。と言って、妻が壁の上まで積み上げたビデオのなかから、取り出してくれたのは、フランス映画の「コーラス」(2004)であった。

昨日の「キャデラック・レコード」の場合には、夫婦、友人、愛人などの親密な関係が音楽を媒介として結ばれることになるのだが、「コーラス」の場合には、師弟関係が結ばれるところが、すこし違う。最終的には、どのようにして関係が成り立つにいたったのかが、綿密に描かれている。途中に生ずる数々の誤解や邪魔を乗り越えていくドラマである。

けれども、音楽を求心力としている点では、同じだ。混沌から秩序へ、周辺から中心へと描かれている。

ただ、「コーラス」の場合には、求心力と同時に、これを引き立たせるために、遠心力の配役も準備されている。このところが、周到さを感じさせる。「天使の声」をもつ子供に対して、バリトンの子で、泥棒の濡れ衣を着せられ、最後は放火をして、完全に合唱団のサークルの外へ出て行ってしまう「不良」を登場させているのだ。

それじゃあ、ほんとうのところ、音楽はどのようにして登場人物を結んでいったのだろうか。ここが一番興味深いところなのだが、これ以上は、観てのお楽しみということにしておきたい。

2009/08/22

ビジネスと家族

中学時代に、ビートルズやローリングストーンズを日常の音楽として聴いて育った。だから、彼らの音楽はオリジナルな音楽だとずっと思い込んでいた。ところが、ビートルズが英国にブルース奏者を招いたり、映画「バックツウ・ザ・フューチャー」などに、チャック・ベリーが出てきたりして、そのルーツが次第にわかってくると、それじゃあの歌はどこから出てきたんだということになる。

伝説のチェス・レコードを描いた映画「キャデラック・レコード」を観てきた。ロックンロールという言葉が、このレコード・カンパニーから生まれたのを知った。

三つのビジネス形態が問題になっている。一つ目は映画の主人公であるレナード・チェスとマディ・ウォーターズのパートナーシップ型。ここでは、友情関係とビジネスがどのような関係にあるのかが描かれている。

二つ目は個人とバンドと会社との関係であり、バンド型という考え方が面白かった。とくに、ハウリン・ウルフは興味深い役どころだ。三つ目は、もっとも普遍的ではあるが、家族がビジネスにかかわる形態だ。恋愛関係が直接ビジネス関係になったり、会社自体がファミリーだという考え方であったりする考え方だ。

結局のところ、ビジネスというゆるい関係を必須とする関係に、強い紐帯である家族関係を持ち込むために、関係は崩れていくことになる。

映画の中では、曲がヒットすると、自動車のキャデラックがもらえるという仕組みが描かれていた。これは、ずいぶんアメリカ的なエピソードに見えるが、その内容は、キャデラック的ではなかった。最後は、利益分配をめぐって、分裂することになるが、ほんとうの壊れていく理由はビジネスではなく、もう一つの絆のほうに問題があったからなのだ。

ビジネスが、もう一つ別の絆によって維持されている、という企業論の基本が、音楽ビジネスでも現れていて、面白かった。学生時代から不思議に思っていたことがある。それは、音楽系の人びとは、あっという間に結びつく、ということだ。「始まりは、ひとを驚かす意外性である」といった哲学者もいたが、まさにそんな感じだ。

それが何故だか、ようやく解った。「始まり」はビジネスとしてではなく、もうひとつの絆のほうで始まっていたのだ。だから、ビジネスは後追いで生じたにすぎない、ということだったのだ。「チェス・レコード」の始まりと終わりはそのことを如実に語っていると思われる。

2009/08/18

シャボン玉飛んだ

Photo 今年の夏には、仕事の山に切れがなく、次から次へと、片付けても片付けても、山の高さは低くならないし、ずっと遥か遠くまで続いているのだ。

それで、散歩の時間も削って肩こりを揉み解し、軟膏を貼るのに余念がなく、ついに、2,3分でいける川にも、行ってなかった。それで日も少なくなってきたので、気分転換にきょうは思い切って、外へ出ることにした。

Photo_2 そんなときには、何かが起こるのだ。隣のうちの裏口付近に、ミツバチが巣をつくり、数万匹がいっせいに飛び立った。道を整備するために、ブルドーザーが唸りをあげたのに反応したのだと思われる。よく漫画で、蜂に襲われる場面があるが、それとは印象がだいぶ違う。数万匹がいっせいに空気の中を飛行するのも、かなり壮観だ。まとまって襲う感じではなく、ブラウン運動のように、空中を乱れて飛んでいる、という感じだ。

Photo_3 林を抜け、宿屋街を通り過ぎると、もうそこは大きな川が流れている。今年は、雨のせいか、水量が豊富で、たっぷりとしている。

この透明な感じの水は、白い花崗岩の川原風景にぴったりだ。この秩序に嫉妬したのか、娘が石を投げ入れ始めた。小学生のときにも同じことをここで行ったような既視感覚に襲われた。けれども、そんなことにはお構いなしに、水流は激しくうねりを続けている。

Photo_4 この水の秩序に似合うのはシャボン玉の無秩序だ、という娘の発想にはついていけないが、川を渡っていくシャボンの群れには、爽快感があった。昔の手作りのシャボン玉は、石鹸が悪かったせいか、こんなに大きな群れにはなら2 なかった。そこで、シャボン玉に粘り気を出すために、いろいろのものをいれた。当時バイオリンの弓用に使っていた松脂が最適だった。それを削っていれた。

Photo_5 大きなシャボン玉、小さなシャボン玉、意のままに吹くことができた。風も重要な要素で、むしろ風を感じるためにシャボン玉を吹いたこともあった。川には、横に渡る風がいつも吹いている。川が風を吹き寄せるのか、風を吹き出すのか。

Photo_6 帰り道には、残念ながら喫茶店はない。たとえ在ったとしても、財布を忘れてしまったから、最後のコーヒーは飲むことはできない。

Photo_7 田圃には、靄がただよっていて、今年の天気を表している。稲穂がそろそろ重みを増してき て、頭をたれる季節が間近なことを示していた。

2009/08/16

一緒に生きることから親密な関係は生ずる

ウサギとの共生は、10年後くらいになりそうだが、ウサギ派を宣言した途端に、動物との関係を考えることになってきている。

Photo 2軒先の家で、3匹の犬が飼われている。昨年来たときには、2匹だったが、今年もう1匹が仲間入りした。いっちゃん、モモ、そしてまだ子供のリキである。

まず、初対面の人には、かならず吼えて反応を確かめる、という習性をもった、たいへん利口な犬たちである。もちろん、怪しい人物が近づこうなら、猛烈な鳴き声を発する。

昨年には、犬の声が聞き分けられず、闇雲に吼えているように感じていた。けれども、今年はだいぶわかってきて、真剣に吼える声と、不真面目に吼える声と、さらに戯れに吼える声とを聞き分けられるようになってきた。とりわけ、さびしいときの声は格別な声だ。

Photo_2仕方なく、あまりにさびしそうなときには、すこしこちらも声を出して、答えてやるようにまで、関係が濃くなってきている。100メートルくらい離れた声と、匂いはわかるらしい。

けれども、一度真っ暗闇の中、娘と一緒に、12時を回ったころ挨拶に行ったときには、いつもはもっとも冷静ないっちゃんが飛び跳ね警戒していたのには、むしろこちらがびっくりした。夜は、やはり昔の狼時代の血が騒ぐらしい。

Photo_3 という具合に、仕事をしながら、ワンと呼んでは、仲間意識を醸成しているのだ。ちょっと衒学的に、アーレント流にいうならば、共生から生まれる公的意識のぎりぎりのところを犬たちと確かめ合っているといえよう。

わたしたちの地域意識は、かなり堅固なものに育ちつつあると観てよいだろう。

2009/08/15

影法師のパー編

Photo 泊まっている部屋には、ヘンリーミラーの「マリアンヌ」が飾ってある。

以前は、この近くにヘンリーミラー美術館があって、小説ではなく、彼の絵が見られたのだ。その中の1枚が、この「道化のマリアンヌ」で、悲しいときにみると笑っていて、楽しいときにみると、悲しい顔つきになって、素敵だった。

Photo_3  散歩で以前美術館のあったところへ行ってみると、コンクリートの塊と化していた。コンクリート打ちっぱなしで、大きなガラスの窓と、テラスがあって雰囲気があったところだった。

Photo_4 仕事場で借りたいくらいだが、どのくらいで貸してもらえるだろうか。購入したら、数千万円するだろうから、借りるとしても、数十万円というレベルだろうか。当時、経費削減のためだろうか、冷房が切ってあって、すこしむあっとする中で、汗をたらしながら、ミラーの絵を観た記憶がある。

それでも、続けていただきたかった。たぶん企画者のひとりは、U氏であろうと思われるが、昨年亡くなったと聞く。あの絵は、どこへ行ってしまったのだろうか。

3 美術館の壁を利用させていただいて、早稲田大のO先生が時々見せる影法師を真似して、こちらは「ぱー編」を作ってみた。屈折や断層、さらに雑草との組み合わせも、試してみた。このように見ていくと、やはり自分というのは多面的、多重的、多様的なのだな、と改めて観てしまう。

4

2009/08/14

ウサギ派宣言

田舎に滞在して、5日目にして、雨の降らない一日がようやく巡ってきた。自然の気持ちは測ることができない。青空からの木漏れ日がまぶしい。周りの家々からも、ここまで篭もってきた人びとがそとに出てきた。みんな活動的な人びとなので、掃除をしたり不要物を処分したりしている。

働き者だな、と感心してみていると、湿った枯葉に無理矢理火をつけて、さらに不用品を燃やし始めた。枯葉の燃える匂いは好きだ。周りの空気を燻蒸して、殺菌してくれる気分になる。けれども、不用品のなかにプラスチックが混じっていたらしく、だいぶ離れているにもかかわらず、こちらにも漂ってきてしまった。

頑張ってみたけれども、この異臭にはついていけない。自然の浄化作用も、ここまでは面倒を見てくれない。悪いことに、この土地のおおらかさなのか、火をつけっぱなしにして、その家の人たちは買い物に出てしまった。困ったものである。

仕事が一段落したので、昨年お世話になったOさんのところへ出かける。ログハウスから突き出た大きなベランダで、近所の方と将棋をしていた。

いろいろと雑談をしていくうちに、Oさんの奥さんがペットでウサギを飼っていたという話になって、思わず興味を持ってしまった。家のなかで、十分放し飼いができるそうである。モコモコ感があって、飼いやすい動物なのだそうだ。写真をみると、たしかに可愛い。

ウサギを飼うと聞いて、昔のことを思い出した。小学校5年生のときに、学校のどのクラスに動物小屋の飼育を任せるのかで、生徒会で獲得合戦を行った。1年間面倒を見ることになって、キャベツやにんじんを調達したことを思い出した。

そのときのイメージでは、ウサギというものは小屋で飼うことはあっても、到底いっしょの部屋でペットとして暮らせるようなイメージではなかった。けれども、話を聞いていると、適度に飛び跳ねるし、寝ていると擦り寄って一緒に眠るし、そして何よりも犬や猫のように主人に媚びないところがたいへん良いそうだ。

都会では、以前にも注目したように、ペットについては犬派と、猫派に別れるのが通常である。ほんの物心がつくかつかないときに、犬を飼い、さらに実家で猫を飼っていた。だから、両方とも飼った覚えがあるので、感覚はわかる。それで中学時代から大学時代に、猫を飼ったので、一応猫派ということにしている。

けれども、Oさんがいうには、どうもわたしには、ウサギが似合うのはないかと勧められてしまった。ほおって置いても、家のなかでモコモコと勝手に過ごすので、あまり手がかからないというのが推薦の理由だそうだ。

もちろん、ウサギを飼うことのデメリットもいくつかあって、家の中のものを無暗に噛むのだそうだ。ヤギのように、本までは噛んでしまうことはないかもしれないが、Oさんはカシミヤの毛布をやられてしまったそうだ。それから、意外にショックに弱いというのも難点だ。だから、家を留守にする人には、ちょっと向かないらしい。

だから、ウサギ派だ、と名乗ることにして、当分犬派や猫派に対抗しようと思うが、これはジョーク程度に言うことにして、ほんとうのところは実現しそうにないのがまったく残念なのである。

2009/08/13

墓参り

午前中、仕事が進んだので、午後は娘と街へ下り、迎え火のための墓参り。バス停には、わたしたちのほか2名の利用者があった。これだけの数が確保できれば、当分コミュニティ・バスは続くだろう。いつもながら、特別の税を取られている者として、このバスが永く続くことを町当局とともに祈っている。

Photo車窓から眺めていると、ノウゼンカヅラの蔓と黄赤色の花が、各家それぞれ1本ずつあって、高さや枝振りを競い合っている。昨年見つけた30メートルもあるようなノウゼンカヅラの塔が今年もできていて、遠くから見ても見せびらかし効果十分な植物だなあと思う。

このように目立つものには、流行があるらしく、近年は一家に1本が植わっている。必需品のようになっている。娘が動画でバスの窓から風景を撮っていたが、ノウゼンカヅラが一里塚のように、風景を刻んでいくのを見ることができる。

このように目立ちすぎるものは、やはり家のそばに植えるのははばかれるらしく、敷地内でも一番端っこや、別棟のほうに追いやられているのは、なんとなくわかる気がする。車が曲がる角にあれば、交通標識の代わりになって、避けて通るので、機能的に合っているのだが、けれどもそういうことではなく、美的センスからして、美しいものは外側に置いておきたい、というのは、社交の精神に合っている。

Photo_2近隣効果が絶大なのだということではないかと思われる。

親戚のおじさんが墓まで送ってくださったので、寺から駅までは徒歩にて出る。途中、以前住んでいたところのそばに、砂漠の要塞を思わせる住宅を見つけて、思わず記念撮影をしてしまう。心なしか、空や雲の様子まで、砂漠を連想させる。デザインは、自然のほうが得意なのかもしれない。

Photo_3 家路に着く前に、酒屋で桔梗ケ原のメルロー種で作ったワイン1本を購入。いつもの、喫茶店で今日最後のコーヒーを一杯飲んで、バスに乗り込む。喫茶店には、山登りからの帰り道、ちょっと一息というご夫婦が何組かいらっしゃって、1年に1回の常連気分を楽しむ。

松本には、以前から山登りの人びとが下山してきて、コーヒーを飲むという喫茶店が存在していたが、このような地域に存在する風習には、何かしらの理由があるように思われる。

2009/08/12

流星群の夜

田圃のなかの夜道に出た。
何事もなく平穏そうな夜空が続いている。

雲のなかに、宝石たちがちりばめられ、都会の数倍の光が届いている。
首の回らない頭めがけて、小宇宙が降ってくる。

あの星は、ロンドンからNYへ。あの星はヨコハマからMMへ。
きっと誰かのメッセージを細かく刻んで運んでいるのだ。

昨日までの地震や乱れた天気は、人間社会の何かの予兆だと伝えている。
田舎の犬がこんなに増えたのも、たぶん人間社会の自信喪失の現われだ。

家の窓に、影がうろうろ映っている。
問題は家の中にあって、吼える相手は外にいないのだ。

外の世界は透明な夜にすっかり参っている。
内から解放された思い出だけが、漂って隙間から這い出ている。

もう少し時間がもらえるかもしれない。
夜の帽子はそっとささやいて、境界線を見守っている。

夜陰にまぎれて、今日まで溜まった息をすっと外へ吐き出した。
気が楽になってみると、真っ暗闇のなかに、裸の自分が立っていた。

遠くから迫ってくる自動車は、影を世界にずっと投影し続けている。
数分たってようやく、細長い予告編を見せながら通り過ぎて、何もなかったと言っている。

酔っ払いが自転車で通り過ぎても、田圃の夜道では、ぴかぴかするばかりだ。
影のない者を見つけて、星たちが仲間と勘違いし、寄り道を企てている。

雲は社交的な星たちをほのかに隠しているし、流星群はまだ接近する気配がない。
でも、夜空の銀幕は、雲を破って予想以上の世界をずっと映し続けている。

信州にて

2009/08/07

勝沼の地域性

天気は不順で雨勝ちなのに、とにかく暑い。東京圏を脱して、甲州市へ来ている。有田と勝沼は、それぞれ焼き物とぶどう酒という観光資源を十分に持ちながら、交通手段に難がある。それは、車を運転しないわたしだけの問題であるのかもしれないが、駅から窯元や蔵元を回る足を確保するのがたいへんなのだ。

今は、車社会なので、自家用車で来てしまう人びとの多いのは仕方ないのだが、電車と徒歩を頼りに訪れるものにとっては、すこし残念な状況がはびこっている。各駅停車で来て、「勝沼ぶどう郷」駅経由でぶどう園に入る魅力はたくさんあるような気がする。

中央線各駅停車の魅力は、なんと言っても、たっぷり時間があるという当たり前のことである。中央線をひとつの列車で行くことはできない。高尾で乗り換え、甲府で乗り換え、さらに小淵沢で乗り換える。そのたびに特急に追い抜かれる。さらには、ホームで30分もの乗り換え時間を消費する。

おそらくこのたっぷりした時間の中で、人びとはいろいろな準備を行うのだと思われる。ぶどう酒を飲むためには、イメージの準備が必要で、勝沼へ入ってくるときに、味の反芻を行って、以前の味を呼び出している。

それは、「地域」ということのなせる特性だと思われる。この地域にゆっくりと入ってくることで、環境からの情報を身体で感じ、ぶどう栽培をアフォードする風土を感じようとしているのだと思われる。(新しく獲得した言葉は、すぐ使ってみたくなるから困るのだ)

いったい全体、そもそも地域性とは何なのだろうか。地域が示す客観的な地理的、物理的条件なのか、それとも、わたしたちが感じる主観的な感覚なのだろうか。どちらも違っているように思う。今回で、うまくこの「地域性」ということが掬い取れればよいな、と考えている。

山梨ワインのN氏に取材。ぶどうに最適な山があり、扇状地の水はけがよく、さらに寒暖の差が激しいなどの地理的条件は、ぶどう栽培への条件を整えている。だから、ほとんどは地理的な条件だ、といわれてきた。

けれども、日本全国には、このような地理的条件の良い地域はたくさんある。だから、勝沼には、それ以上の、いくつかの特性が存在することは確かだ。この辺が社会科学的には面白いところなのだが、お楽しみは後で。

その後、外の温度も35度を超えてきたので、N氏に送っていただいて、K醸造を訪問する。すでに5月にここのオーナーの方にFディレクターが取材してくださっていたので、地域のワインという目的物に直ちに到達することができた。

ここでは、農園ごとにそれぞれ別に樽詰めを行っている。通常は、ひとつの銘柄のぶどう酒は、その地区の複数の農園のものを混ぜて醸造する。ところが、K醸造では、単一の農園での醸造を試みている。すでにほとんどの農園のものは完売されていたが、幸運なことにちょうどそのひとつを手に入れることができた。面白い試みだと思う。

問題は、テロワールと呼ばれる事象だと思われる。もうひとつ、やはり気になるC醸造へ歩く。ここは前回も素敵だ、と思ったが、今回もごらんのような蔦の絡まるビルに試飲できる店を開いている。夫婦でリュックを背負った方々が、熱心に選んでいた。

ここで確かめたかったのは、勝沼の「鳥居平」(とりいびら、と呼ぶらしい)という地区のぶどう酒だ。山の上の栽培に困難に見える場所なのだが、しかし最もぶどう酒用には適したぶどうの採れる地区のひとつだそうだ。

すっかり、身体全体にぶどう酒が回ったところで、幸福な気分のまま、各駅停車の旅を続けることにする。お腹の調子もよく幸いなことに何も食べたくはなく、宿舎の上諏訪につくまでは、余韻を楽しむことにする。列車のゆれと、こころのゆれとの重なりを感じながら、旅に没頭していた。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。