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2009/07/09

放心癖

経済学者たちの伝記を読んでいると、すこし病的な性癖について、それもかなり共通に報告しているところにぶつかる。最近、ふっと自分のことにひきつけて思い出されたことがあった。アダム・スミスや、T・ヴェブレンという著名な経済学者なのでちょっとおこがましい気はしないでもないが。でも、彼らのなかでもとりわけ異端部分に属するところなので、そうなのかな、と思われる。

放心癖と呼ばれている性癖である。スミスは、若いころから出ていて、職場を変える原因にもなっていたことが想像される。他者と話をしていて、突然相手の声が聞こえない、相手からすれば、自分の話を聞いていない、と思われる現象である。

どのようなときにこの現象が顕著になるのかは、本人の自覚が希薄なだけに、なかなか確定的なことは言えない。病的であるという理由がここにあるのだが、最近のわたしの経験を重ねると、だいたいのことがわかってきた。自分のなかでほかの事を考え始めることと、他者の声を聞かなければならないこととが同時におこると、どうやらそのような現象が生ずることになるようだ。

だから通常、人間は訓練すれば、二つのことが同時に行うことができるようになるので、普通の人であれば、子供から大人へ移行するときに、他者の声と自分の声と同時に処理できるようになるのだ。ところが、そこが病的なところなのだが、自分の声のほうが勝ってしまったのだ。

ところが、その訓練には当然個人差があって、どうしても自分の声のほうが優先されてしまう場合が起こってしまう。これが多くの場合に、「放心癖」と呼ばれてしまうことになるのだ。とくに、なにか素晴らしいことが浮かんだときに症状が出る。

さて、このような放心癖が、自然派の詩人たちに特徴ある、絶句するような風景を相手に出てくる場合には良いのだが、自分のことで危機的なのは、対人関係で出てきてしまうことにある。二人関係で出る場合には、笑い話ですむ場合もあるが、雑談やさらに議論の場で頻繁に出てくると、アダム・スミスのように問題とされてしまうのだ。

昨日も、議長になにか言われたような記憶はあるのだが、そのことに反応せずに、自分の文脈で発言している自分のあるのを、離人症的に眺めていた。

アダム・スミスの場合、丘のうえの商工会議所で仕事を終えたあと、近くの酒場で議論をしている最中に、なにか素晴らしいことを発想してしまったに違いない。エディンバラのハイゲートの坂道を転げるように帰って、天文学などのことを考えたであろうことは、やはり放心癖を再発させてしまったからだ、と想像することはそれほど難しいことではない。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。