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2009/07/10

f植物園にて

もし自分が自分でなくなるとしたら、どのようなときだろうか。そればかりか、自分ではない自分がそこにいるときには、どのように対処したら良いのだろうか。

玄関に並んでいると思い込んでいた自分の靴が見当たらない。そればかりか、見慣れぬ靴がそこにあり、履いてみるとみごとにぴったりなのだ。けれども、その靴は自分のものではないと、間違いなくいえる。

さて、自分の靴がわからない自分がほんとうの自分なのか、それとも、見慣れぬ靴にぴったりの自分が、ほんとうの自分なのか。

このようなときに、自分はほんとうにたくさんいるんだな、と実感してしまう。

この喩えは、かなり普遍的に、いろいろな場面で使えそうである。歯が痛くて、歯医者へ行くが、帰ってみると、まだしくしく痛い。どこからか、声が聞こえてくる。「ほんとうに痛いのはこころでしょう」と。

園丁という響きは、英国のブーツを履いて、しっかりした帽子をかぶった人を想像させる。そのような庭は、整然としていて、なぜ整然としているのかも、論理的に説明されそうな気がする。けれども、なぜかこの物語の主人公は、整然としておらず、自分と自分でないものとの区別がつかない。おそらく、妻が誰なのかも見失っている。もちろん、亡くなった子どもについても。

たぶん、ここで重要なのは、植物園の園丁と、家庭ガーデニングの小母さんの違いだろう。後者ではたぶん、ブーツを履いても、それを失くしてしまうことはないだろう。けれども、前者では確実にいえるのは、ブーツをなくしたら、園丁は失格なのだ。履き物は、本人の存在証明なのだ。だから、それを失くしてしまうことは、人格をなくしてしまうことと同じだ。

それじゃ、どうしたら離れていってしまった自分と出会い、それを取り戻すことはできるのだろうか。物語の趣向は、尽きることがない。いつもながら、素敵なフィクションへ誘ってくれる。あとは、梨木香歩『f植物園の巣穴』を読むことをお勧めしたい。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。