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2009/06/19

現代の「灰とダイヤモンド」

映画「ハゲタカ」を観た。NHKドラマのときには、忠実な視聴者ではなかったのだが、今回の劇場版はたいへん凝った作りになっていて、興味深かった。テレビのほうがちょうど現実的な事件が起こっていたので、臨場感はあったかもしれないが、筋としてはこちらのほうが深く考えさせるところがあり、現実を超越する視点もあって面白かった。リーマン・ショックも劇中で映画的にうまく利用していたと思う。

「お金」というものは、ホット・メディアであって、クール・メディアではない、ということがみんなの頭のなかを支配し始めたのはいつのころだろうか。ここで、お金に対して「ホット」になってしまってるというのは、儲けたいという感情が表に出てしまって、頭が暑くなっている、という意味だし、「クール」というのは冷静で、理性的に対処する、という意味だ。わたしたちは、このような意味に使っている。バブルのとき以来、たしかにこのとおりだった。

お金はいつのまにか、ホットな媒体になっていて、いくら得をした、いくら損をしたと言って日常を支配している。けれども、以前から思っていたのだが、お金は、貨幣は、むしろ「クール・メディア」なんじゃないか、ということだ。

この「クール・メディア」という言い方は、以前にも使ったように、情報論のマクルーハンの意味だ。ホットとは高密度の媒体で、クールとは低密度の媒体ということだ。ラジオは、視覚が利かない分だけ、テレビに比べて情報量が少ないため、クール・メディアなのだが、聴覚に限ったぶんだけ、参加者の感情移入が盛んに行われて、実際には「ホット」な感情を際立たせる。

わたしは、「貨幣はクール・メディアだ」と前から主張したかったのだが、映画「ハゲタカ」の表現はまさにその片鱗を見せてくれていて、よくぞ言ってくれたと思った。主人公Wは、ハゲタカであることに徹していて、決して経営者に転進しようとは考えないし、ハゲタカはハゲタカの仕事を全うすべきだという倫理観を持っている。この感覚は、これからの金融社会では、意外に必須な感覚だと考えている。クール・メディアであることを疎んじる事はできないのではないかと思う。

もちろん、みんながハゲタカになるような社会は、当然おかしいのだが、ハゲタカの生まれる必然性までも否定してしまうほど現実は寛容ではないと思われる。実社会と虚社会とがバランスを持たなければならない社会段階にきていることはたしかなのだ。

貨幣はメディアとして、「疎」だから、もっと想像力が発揮されるべきメディアであり、もっと人間をひきつけ参加させなければ成り立たないメディアなのだと思うのだが、この考えに賛成する者はいないだろうな。皮肉な事に、貨幣は問題が起きると、かえって人間を遠ざけてしまう。ふつうの時間には貨幣から遠ざかっていても良いから、むしろ問題が起こったときこそ、普通の人がこのメディアに想像力を吹き込んで、正常な状態を確保する事が求められるべきじゃないだろうか。そういうメディアだと思う。

これ以降、ネタバレも含んでいるので、映画をご覧になっていない方は読まないことをお勧めする。

今回、この映画の極めつけは、最後のほうの場面で、準主人公Rが札の散らばる泥道で、刺されて、札を掴みながら野垂れ死にする場面だとわたしは思う。これは、映画の系統でいえば、映画「灰とダイヤモンド」でチブルスキーの演じる主人公マーチェクの、洗濯物を掴みながら、やはり刺されて野垂れ死にする場面や、やはり映画「勝手にしやがれ」でジャン=ポール・ベルモンド演じる主人公ミシェルがパリの街頭で刺されて、身をくねらせて死ぬ場面などを踏まえている。

ばたんと倒れて死ぬのではなく、何かを真剣に希求し、その最後に果てなければならないのだ。半身姿勢を反転させながら、かなりの距離を何かを掴んで移動し、その果てに死ななければならない場面なのだ。ミシェルはパリの街が象徴するように手を伸ばしている先には「自由」があり、マーチェクの場合には洗濯物が象徴するようにふつうの「生活」があり、そして、「ハゲタカ」のRが希求するのは、「お金」なのだ。

でも、Rの場合、その先には金以外のものが求められていたという、ちょっとドラマとしては余計な落ちがついていた。でも、脚本家が「やった」と思った瞬間は良くわかる。ほんとうのところ、説明はいらなかったと思うくらいだ。

なぜハゲタカたるW氏が刺されるのでなく、ハゲタカになりきれなかったR氏が刺されることになったのか、この点がこの映画の「素敵な」ところだと思われる。ハードボイルドの伝統は健在だ。

わたしたち日本人は、今後もこのような金融危機を何度も潜り抜けなければならないだろう。そのたびに、目減りする資産に嘆くのでなく、むしろそこから、ハゲタカW氏のようなタフな教訓を学び取っていかなければならないだろう。授業料の高くつくことは仕方ないのだ。将来へ向けての精神的な蓄積の多くなることを望むのみだ。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。