« 線という活動 | トップページ | 農業製品の輸入 »

2009/05/26

取り込むことと放り出すこと

放送大学が他の大学と異なる面を持っている点は、数々あれど、もっとも気に入っている点は、教員と学生の区別が外見ではわからないことにある。

構内をふらふら歩いていても、ほとんど気にならない。みんなふらふら歩いていて、学生も教員も同じ挨拶をする。大学内は、ほぼ同じ気質の人たちで満たされている。もっとも、ふらふらというのは気分の問題で、実際には、あまりに多様過ぎて、かえって見分けがつかないというのが正確なところだ。

もしこれが一般の大学ならば、「ふらふら」は若い学生たちのなかではかなり目立ってしまう。哀れみを受けるか、それとも尊敬の対象となるか、いずれにしても教員と学生との間には、歩き方でもかなりの断絶があり、一緒に歩いていても、二つの違和感ある世界が隣り合わせで、というより混在して存在する。

なぜこんなことを話題にするのかといえば、今日はひとつの建物のなかで、二つの世界がまったく分けられているところを訪れたのだ。ふつう、建物のなかで二つの世界を別々に分けているところは珍しい。かなり費用がかかってしまうというのが実情ではないか。

ところが、今日訪問した病院では、病院スタッフが歩く通路と、患者あるいは顧客が歩く通路が完全に分けられていて、通常わたしたちがその病院を訪れると、診察室以外では、看護師の方をまったく見かけることはない。医師も、廊下を歩いているのを見たことがないのだ。

病院では、ほとんど自分たちと同じ境遇の患者だけを、表面的には見かけるだけだ。技術的に考えるならば、院内感染、あるいはスタッフの外部との接触を極力避けようとしていることはわかるが、そのかわりに、医師たちとの親密な接触を妨げてしまうという難点も持っている。

けれども、これ以外に、じつは大きな影響を与えているのは、安心感なのかもしれない。つまり、白衣というのは、以外に圧迫のイメージが強いのだ。だから、病院へ行って、気が滅入るのは、「白衣」が目だって多いところだ。白衣を見ることないというのは、かなりの安心感となっている。

ひとつの建物へ入って、異邦人感を持つのは、自分が違う世界に来たのではないかと思うときである。この点を避けているだけで、この病院の試みは成功しているのではないかと思われる。

Photo_3 ここは大病院なので、5階の喫茶店には、「東京會舘」が入っている。かえりに、今日最後のコーヒーとチーズケーキ。両方とも美味しかったが、それ以上に、以前から目を付けていた、カップ&ソーサーが素敵だった。MIKASAのボーンチャイナで、白地に紺色の細い線が縁を飾っている。譲ってもらえないかと、相談したが、現在生産終了していて、もう手に入らないとのことだった。このようなたっぷりしたカップに目がないのだ。

« 線という活動 | トップページ | 農業製品の輸入 »

日常生活の関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/173786/45137934

この記事へのトラックバック一覧です: 取り込むことと放り出すこと:

« 線という活動 | トップページ | 農業製品の輸入 »

『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

  • “「貨幣・勤労・代理人」"

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。