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2009/04/21

視覚世界の転換

先日、S先生から著書をいただいた。さらにそこには、もうひとつ論文が1篇付けられていた。それは、ル・ナン兄弟の絵画について書かれたものだった。そして今、ルーブル美術館展が西洋美術館で開かれていて、かれらの絵が1枚きているのだという。

こんなお誘いは初めてだが、その論文によると、この絵はその時代の画期的な絵画で、その時代の絵画を転換した、たいへん重要な絵であることがしたためられていた。これは行かなければならない。

さっそく、ほかの絵を飛ばして、「農民の家族」(17世紀半ば)の前に立つ。まず、第一に印象的なのは、この絵の周りには、17世紀の宮廷文化絵画が並べられているのだが、それとは色調がまったく異なり、庶民生活を描いている点だ。単一の焦点に絞る必要に迫られていた王侯貴族の絵画から、多焦点的な一般庶民の絵画への転換は、直ちに見て取れる違いだ。

第二に、感情や内面的な世界を描く技法でも変化が生じたといえる。神話の世界やキリスト教の世界での比喩やレトリックを介してでないと、現実と異なる世界が描けなかった絵画が、この絵からは、いわば真実を絵画に定着することが可能になったといえよう。写実から寓意へ、寓意から真実へ揺り返しが起こったのだ、と思われる。

第三に、明瞭なのだがけっこう困難なのは、「農民の家族」には、9人の家族が描かれているが、ひとりひとり見ていって、最後の9人目を見出したときに、ようやくこの絵の全体世界がわかることだ。

全員の視線が異なるところまでは、みんなが注目する。ところが良く見ると、3人ずつが3セットになっていて、過去の世界、現在の世界、将来の世界を構成しているのだ。ここまで来て、ようやく見える世界があるのだ。

過去の世界には、この絵の背景となっている、次の間の3人がいる。この3人は火を囲んで暖かいひとつの世界を作っている。もちろん、ひとりだけまったく後ろ向きの若者がいて、過去性を強調しているのはやり過ぎのような気がする。

これらに対して、前面には、将来の世界として、3人の子供たちが描かれている。病気のこども、正常なこども、しかし、3人目の、中心にいる子どもだけ、シャツをはだけて、いたずらっぽい目つきをして、ひとり輝いている。このような子供類型は、普遍的な将来像なのだ。

けれどもやはり、中心をなしているのは、若い祖母と夫婦の現実世界を現す3人である。現実の世界は、それぞれ3人が1箇所ずつ鮮明な色彩で、他の世界より一段と特徴強く描かれている。祖母は真紅のワイングラスを持っている。お母さんは緑のビロードのスカートをはいている。主人は控えめに茶色のザックを肩にかけている。貧しい労働のなかに、ワインやビロードの豊かさを交ぜている。この多焦点性はきわめて現代的だ。

3角形のそれぞれ三つの世界がこの絵画を構成している。このような構図を練り上げて、これらの世界がその視線の先までも世界を延ばしていくような世界観を映し出すようになったのが、この絵画の広さである。家族という宇宙の大きさが真実であった時代を思わせる絵である。

大人の落ち着きは、際立っている。貧しさをものともしない、毅然とした日常と非日常のバランスを保っている。どこを探してもこんな落ち着きはありそうにもないが、すぐ隣には簡単に見つけることができそうな気になってしまう。このような生活の根本が過不足なく、書き込まれている。

Photo この絵だけ見ていて2時間はあっという間にすぎた。肝心のラ・トゥール「大工ヨゼフ」もたいへんすばらしかったが、また後日。この2枚だけで十分だった。世界全体を手に入れたような、すっとした気分になったところで、雨の吹き付けるなか、上野駅の入谷口へ出て、道なりのつきあたりにある「北山珈琲店」へ行く。今日最後の1杯は、超重量級の苦味の利いたモカマタリ主体の深煎り珈琲「貴」を飲む。この店には、30分で出なければならないルールがあって、入ってから珈琲が出てくるまでに20分だから、楽しむ時間は10分間なのだ。このわずか10分間の味わいのなかに、5時間くらいを煎りこんで濾過したような、凝縮し尽された珈琲の味があった。


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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。