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2009年4月に作成された投稿

2009/04/29

他者性に対処する方法

これまで、嗜好品消費について、珈琲と葡萄酒を取り上げてきた。もしこれらの珈琲、葡萄酒に次いで、嗜好品文化として何を取り上げるか、と問われるならば、やはり今流行の「スィーツ」だろう。甘さというのは、疲れをとるばかりか、気分を落ち着かせる。珈琲や、葡萄酒にない、嗜好性がある。

ということで、まずは手始めに社会的な観点から。昨年漫画からテレビアニメになって評判をとった「アンティーク(西洋骨董洋菓子店)」が、実写版の韓国映画として劇場公開されたので、観にいく。予想通り、席は若い女性でいっぱいなので、前のほうの席をとって、小さくなって観てきた。

漫画とアニメは見ていないので、何ともいえないが、少なくともこの映画に関して言うならば、ストーリーについては、よく練られた筋が次から次へ展開し、小気味良いテンポが続いて、映画は進んでいく。とくに、主人公がひとりでいろいろな想像をするところで、複数の自画像を飛び飛びに多用する場面があって、基本的な描き方ではあるが、たいへん映画的な効果を挙げていたような気がする。

出だしが良いと思う。ふたりの主人公が出会うシーンだ。高校時代に、女の子から振られて、ケーキを置き土産に受け取る。そこへ準主人公から男性同士の愛を告白され、ケーキ投げが行なわれる。やはり、スィーツの極地は、パイ投げだ。ケーキを媒介とした集団的人間関係が生ずる瞬間として、申し分ない設定だ。ここからスタートするのは、悪くない。

映画のなかで次から次へ、人間関係が展開される。たとえば、オーナーとシェフ関係、シェフと弟子関係、オーナーの家族関係、店と客の関係など、すべてケーキを媒介として展開していく。ケーキは言語なのだ。

このような日常物を媒介とする漫画は、ワインの「神の雫」をはじめとして、古典的にはわたしの学生時代に流行った「味平」など、数多く成功例を挙げることができよう。だから、これらの二番煎じだったら、これほど面白くはないだろう。特色は、オーナーの心理分析にあるのではないかと思われる。

もちろん、推理小説仕立てで展開されるところはたいへん面白い。少年時代に誘拐にあったトラウマを伏線にしたドラマとしては、たいへん秀逸な設定であることは間違いないが、もうひとつケーキ特有の心理を描写していることでたいへん深い筋立てを追加できているように思えた。

「他者」をいかに取り込むのか、ということがケーキ屋の使命だ。ところが、このオーナーがケーキ屋を開いた動機は、通常と違っている。どこが違うのかは、ここではあまり関係ないので、漫画か映画を見ていただくとして、肝心なのはケーキを食べるとこのオーナーは嘔吐するという設定であり、ここがこの映画でいちばん重要なところなのである。

文化人類学者C.レヴィ=ストロースによると、他人の示す他者性に対処する方法には二つあるそうだ。ひとつは、嘔吐的方法で、異物を体内から排除する方法である。もう一つは、食人的方法で、異物を非異物化するために食べて消化し、一体化してしまう方法である。

主人公のオーナーは、ケーキに対して、シェフに対して、さらに過去のトラウマに対して、嘔吐的方法から食人的方法へ経緯させることで、ドラマを進行させている。この機軸がはっきりしていることで、このストーリーは明快なものになっていると思った。映画がこんなに成功しているならば、原作もきっと素晴らしいのだと思われる。

新型インフルエンザの報道が激しくなってきている。インフルエンザの歴史はまさに、嘔吐的方法から食人的方法へ、という繰り返しを行なってきたといえる。現在は、水際作戦を展開して、排除し隔離しようとしているが、いずれは多くの人の体内に侵入する段階が来ることは明らかだ。スペイン風邪の時には人口の3分の1の人のなかに入ってきた。そうなったら、ウィルスも食べて消化するほかないだろう。

2009/04/23

もう一枚の絵画

もう1枚のル・ナン兄弟の絵画「幸せな家族(洗礼からの帰宅)」が、もうひとつのルーブル展(国立新美術館)に来ていた。仕事がそろそろ終わりになる頃に、妻からメールが届いて、15時半に待ち合わせて、乃木坂駅口から入る。

紀元前の「書字板」や、楔形文字を書いた「粘土板」などはたいへん興味があってもうすこし詳しく見たいとは思ったが、あまりに出展物が多かったので、ほとんどはパスして、今回もルナンの絵にほぼ直行する。

西洋美術館の絵画と比べると、登場人数が6名なので、構成の複雑さはむこうより少ない。けれども、色調といい、構成といい、同じ系列に属する絵画だ。

横一列に並んだ人物たちの配置には、やはりいつもの三角形の構成が効いている。一つは、大人の世界で、前の絵と同じで、祖母と夫婦がセットになっている。二つには、やはり子どもが3人いて、その世界がある。三つには、人物ではないがモノの世界があり、ここでも真紅のワインと、洗礼を受けた産着を包む緑のビロード、そしてパンだろうか、茶色の塊が三角形を構成している。

ここで、なぜこんなに3つに固執するのだろうか、と考えたが、それは当然描く側の配分の問題ではないかという考えに行き着く。つまりは、それぞれのセットごとに、兄弟のひとりが担当していて、結果として3世界になったのではないかという仮説である。

おそらく、このような推理は、他の誰かも行なっているはずだから、文献に当たってみれば、どの人物が兄弟の誰が描いたのかは特定できるのではないだろうか。三兄弟だから、三角形で常に3セットの構図が選ばれている。

などというのは、かなり穿った解釈だ。たぶん、おおよその絵画制作の分業はそうであったのかもしれないが、むしろここで重要なのは、制作者側の3セットではなく、鑑賞者側の3セットだろう。

つまり、ひとりがひとつずつの世界を描いていった、ということは、それを見る他の兄弟がふたりずつ見る側として存在していたということだ。つまり、制作がひとりの天才によって行なわれたのではなく、鑑賞者が近くにいて、たえず制作に意見が盛り込まれながら、制作が行われた、という点でも画期的だと思われる。

ときは、師匠と弟子による、工房での制作時代を乗り越えて、近代のチーム制作の時代へと進んだと思われる。この制作の意図においても、構成上の転換が起こったのが、このル・ナン兄弟当たりからだと思われる。

2009/04/21

視覚世界の転換

先日、S先生から著書をいただいた。さらにそこには、もうひとつ論文が1篇付けられていた。それは、ル・ナン兄弟の絵画について書かれたものだった。そして今、ルーブル美術館展が西洋美術館で開かれていて、かれらの絵が1枚きているのだという。

こんなお誘いは初めてだが、その論文によると、この絵はその時代の画期的な絵画で、その時代の絵画を転換した、たいへん重要な絵であることがしたためられていた。これは行かなければならない。

さっそく、ほかの絵を飛ばして、「農民の家族」(17世紀半ば)の前に立つ。まず、第一に印象的なのは、この絵の周りには、17世紀の宮廷文化絵画が並べられているのだが、それとは色調がまったく異なり、庶民生活を描いている点だ。単一の焦点に絞る必要に迫られていた王侯貴族の絵画から、多焦点的な一般庶民の絵画への転換は、直ちに見て取れる違いだ。

第二に、感情や内面的な世界を描く技法でも変化が生じたといえる。神話の世界やキリスト教の世界での比喩やレトリックを介してでないと、現実と異なる世界が描けなかった絵画が、この絵からは、いわば真実を絵画に定着することが可能になったといえよう。写実から寓意へ、寓意から真実へ揺り返しが起こったのだ、と思われる。

第三に、明瞭なのだがけっこう困難なのは、「農民の家族」には、9人の家族が描かれているが、ひとりひとり見ていって、最後の9人目を見出したときに、ようやくこの絵の全体世界がわかることだ。

全員の視線が異なるところまでは、みんなが注目する。ところが良く見ると、3人ずつが3セットになっていて、過去の世界、現在の世界、将来の世界を構成しているのだ。ここまで来て、ようやく見える世界があるのだ。

過去の世界には、この絵の背景となっている、次の間の3人がいる。この3人は火を囲んで暖かいひとつの世界を作っている。もちろん、ひとりだけまったく後ろ向きの若者がいて、過去性を強調しているのはやり過ぎのような気がする。

これらに対して、前面には、将来の世界として、3人の子供たちが描かれている。病気のこども、正常なこども、しかし、3人目の、中心にいる子どもだけ、シャツをはだけて、いたずらっぽい目つきをして、ひとり輝いている。このような子供類型は、普遍的な将来像なのだ。

けれどもやはり、中心をなしているのは、若い祖母と夫婦の現実世界を現す3人である。現実の世界は、それぞれ3人が1箇所ずつ鮮明な色彩で、他の世界より一段と特徴強く描かれている。祖母は真紅のワイングラスを持っている。お母さんは緑のビロードのスカートをはいている。主人は控えめに茶色のザックを肩にかけている。貧しい労働のなかに、ワインやビロードの豊かさを交ぜている。この多焦点性はきわめて現代的だ。

3角形のそれぞれ三つの世界がこの絵画を構成している。このような構図を練り上げて、これらの世界がその視線の先までも世界を延ばしていくような世界観を映し出すようになったのが、この絵画の広さである。家族という宇宙の大きさが真実であった時代を思わせる絵である。

大人の落ち着きは、際立っている。貧しさをものともしない、毅然とした日常と非日常のバランスを保っている。どこを探してもこんな落ち着きはありそうにもないが、すぐ隣には簡単に見つけることができそうな気になってしまう。このような生活の根本が過不足なく、書き込まれている。

Photo この絵だけ見ていて2時間はあっという間にすぎた。肝心のラ・トゥール「大工ヨゼフ」もたいへんすばらしかったが、また後日。この2枚だけで十分だった。世界全体を手に入れたような、すっとした気分になったところで、雨の吹き付けるなか、上野駅の入谷口へ出て、道なりのつきあたりにある「北山珈琲店」へ行く。今日最後の1杯は、超重量級の苦味の利いたモカマタリ主体の深煎り珈琲「貴」を飲む。この店には、30分で出なければならないルールがあって、入ってから珈琲が出てくるまでに20分だから、楽しむ時間は10分間なのだ。このわずか10分間の味わいのなかに、5時間くらいを煎りこんで濾過したような、凝縮し尽された珈琲の味があった。


2009/04/06

山桜の白さ

Sakura3ちょうど弘明寺公園の桜が満開で、昼間なのに花見客がたくさん来ていたのには驚いた。家族の話を聞くと、弘明寺駅のホームも花見客で一杯で、溢れんばかりだったそうだ。弘明寺の魅力は、初詣と花見さらに巡礼など、季節ごとに日常生活に関連することが盛りだくさんあって、それが人気となっているのだろう。

Sakura4電車から見る大岡川沿いの桜並木道も、今が一番の見ごろだ。桜の見ごろというのをいつにするのかということで、その人の価値観がわかる。たとえば、平均値からすれば、ソメイヨシノがすべての花を埋め尽くして、それが一辺倒になってしまう1時期がある。これが見ごろだという人もいる。

Sakura けれども、桜にも種類がたくさんあって、それらの多様な配合がすべて調和されたときが見ごろだという人もいる。わたしは後者である。隣の丘に植わっている桜がすこしずつず090406_150201れながら、花を付けていくのを見るのが好きだ。

とくに、白い山桜は、清々しい。この清々しさが加わらなければ、ピンクから弩ピンクへ一気に行ってしまい、経験の幅もぐっと狭まってきてしまうのだ。それでも、決して悪いわけではないのだが、白があるとより一層、青空に一番映えるような気がする。

桜の思い出は、小さなときから継続していて、とくに自分だけの視野に入ってくるのではなく、周りのすべての人と経験を共有しているところが素敵だ。

Sakura2_3 桜の寿命が100年くらいだ、ということも、個人の来歴にちょうど一つの尺度を提供しているように思われる。こんなに盛んに咲いているのは、なにか普遍的な現象であるように思えてしまうところがあるのだが、じっさいにはこの並木道の桜も、もし植え替えられなければ、数十年で死に絶えることになる。だから、いま見ごろの桜というのは、この数年間の最盛期を一生懸命咲き誇っているに過ぎないのだ、と考えれば、やはり桜というのは、人間の儚さを表現している花だな、と改めて思ってしまう。

2009/04/05

話を引き出すときに必要なもの

三日間いくつもの原稿をちょっとずつ書いていたら、結局ちりぢりの文章がたくさんできただけで、ひとつの原稿も完成しなかった。そこで気分転換を兼ねて、川崎へ散歩。

昨日、珈琲を切らしてしまったので、いつもの豆専門のコーヒー屋さんへまわる。京急線川崎駅を出て、海岸のほうへ向かって、一本目に「砂子」という地名があって、そこに石でできた標識がたたっている。「旧東海道」がこの細いみちを通っていたらしい。観光用の看板によれば、川崎宿はかなり繁栄していたとのことだ。

そういえば、先日の沼津でも、ホテルを出てすこし行ったところに古い土蔵があって、その辺を散策していたら、やはり「旧東海道」という標識がたたっていた。ということは、あの沼津の旧東海道は、まさにこの川崎宿の旧東海道につながっていることになる。当たり前と言ってしまえばそれまでだが、途中断片化しているかつての繁栄した道が、時空を超えて結びついたのだ。

街を知るということは、このようなことをいうのだと思う。この道を行くとどこに出て、どのような店があるのかが感覚的にわかってくる。コーヒー屋さんへ行く途中に、勝沼ワインを置いてあると宣伝している酒屋さんがあるというので、以前見たかすかな記憶をもとに一本曲がって、その方向をながめてみたけれども、結局見つからなかった。あとで知ったのだが、その店は最近移転したらしい。それは予想していなかった。

090406_154601_2 今月の珈琲として、ケニア産とコスタリカ産がおいしそうだったので、煎ってもらうことにする。店内で飲む珈琲は安く美味しいので、今日も所望する。すると、酸味の利いた味で、とてもこんなに安い値段で飲めるようなものではないので、さっそくこの珈琲もください、と依頼すると、じつはこれは、いつもよりすこし高い豆なんです、といって、ハワイ産の豆を出してきた。ちょっと躊躇したが、やはり酸味に目が無いので、購入してしまう。

川崎の繁華街は、夜は相当賑わうが、昼はなんとなくのんびりとしている。通り抜けて、チネチッタへ入る。

今日の本題は、Presidencyという大統領と国民との関係だ。大統領が持っている最高権力とはなにか、ということで、それをめぐっての言説の物語だ。映画「フロスト×ニクソン」で、インタヴュアーと元大統領とが、この最高権力とは何か、ということを一番の山場にして、丁々発止の攻め合いを行う。「言葉の決闘」という言い方を、ニクソンはしていた。

見どころは、インタヴュアーがいかに失意のニクソンから、話を引き出すことができるか、という点にある。予想されるのは、その引き出されるときに、一瞬の「同定」つまり聞く側と話す側の一致が生ずるのだが、その一致がどのようなものとして描かれるかが問題だ。映画だから、驚きの部分を残しておかないと、面白くないとはいえ、実話とかなり違っているのだ。それは、ニクソンの性格に依存していて、本人と写される人とのギャップが決して埋まらなかった人ではないかと思われた。

この筋には関係ないけれども、大統領が冗談を言うのもたいへんだな、と感じたのは、部下を相手に、インタヴュアーの部屋に盗聴器を付けなければ、と言って、小さなメモ帳を取り出すシーンだ。もちろん、これは冗談なのだが、部下は真に受けるという演技をする。このときのメモ帳は、本物だろうか。大統領は、つねに近くに人がいて、言うことはその秘書が書き取ってくれるのだから、メモ帳は持たないのではないかと思っていた。メモ帳はニクソンには似合わない。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。