« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月に作成された投稿

2009/02/21

酒の神ディオニューソス

Photo_3 酒の神ディオニューソスには親近感を持っている。わたしの家系には、日本酒の醸造を行っている分家が何軒かあり、その関係で西洋の神様ではあるが、ディオニューソスに対しても守護神のひとりとしてみる習性がある。酒に強い体質を受け継いでいるのも、ご先祖様のお陰だと思っている。今日も、勝沼からの帰り道で身体全体はアルコールで痺れているにもかかわらず、頭のなかはかなりハッピーな状態を保っていて、電車に揺られても良い気分だ。

Photo_4 山梨県の勝沼で葡萄酒に関する集会「なぜ今、日本ワインなのか」があるというので、制作取材と趣味の両面作戦でいそいそと出かける。現在、世の中はワインブームであると言われていて、テレビの連続ドラマや漫画連載で取り上げられている。それは、円高なので、輸入ワインが隆盛を極めているという面の反映でもあるが、それ以上に流行や社会文化、さらに消費者心理のような要素が混交していて、消費社会論の対象としてはきわめて題材に富んでいる。

Photo_5 なかでも、「日本の葡萄酒がどのような状況にあるのか」という点は、産業としても面白いし、また消費者を巻き込んだ社会文化状況としてもたいへん興味深いところだ。ワインについては、わたしはまったくの素人であるのだが、消費社会論を専攻するものとしては、この現象を見逃すことはできない。

Photo_6 もっとも中心にある問題は、グローバル化とローカル化という大きな流れのなかにあって、もともと「美的」であるとか、「美味的」であるとか、という主観的な規準が社会的な規準を反映せざるを得なくなっている、という問題がワイン文化のなかにもあるのだと思われる。葡萄酒という地域性の強かった産物がグローバリゼーションの影響を受け、変化を遂げているということだ。あるいは、グローバリゼーションが進展するからこそ、地域性という葡萄酒の特性が強調されているのだと思われる。

この集会の講師であるY氏は、内外のワイン書籍を上梓している有名なワイン評論家だが、葡萄酒の良さは葡萄の持つ「自然」と、醸造家および生産・販売者の持つ「技術」によって決まるとする。その結果として、グローバリゼーションの進展は、輸送技術の進展を伴って、世界中のワインがあらゆる場所で販売され、勝沼のワインも競争に曝されている、とする。とくに、20世紀後半から今世紀にかけて、加速度的にこの傾向が強まってきたとする。

Photo_7 これに対して、聴衆のなかからは、ローカルな醸造家の努力が重要で、葡萄酒のもつ地域性の重要さが強調される意見が出されていた。この「美的」な意味での地域性という点には、たいへん興味を覚えた。きっかけを掴んだような気分がして一応の満足を得たので、集会後の交流会では、ディオニューソスの酒宴にもっぱら参加することにした。

Photo_8 葡萄酒は、「人びとの垣根を取り払う」と言ったJ.J.ルソーの言葉は至言である。醸造家のAさん、醸造所オーナーのMさん、アドバイザーのMさんの話を伺うことができた。このなかでも、今回の目的を上回る成果を十分に果たすことができた。酩酊文化恐るべし、という感想を持ちながら、勝沼「ぶどうの丘」を下り、中央線に乗り込んだ。沿線では、梅が咲き始めていた。

2009/02/20

三日間の引越し

Photo_22 研究室の移動は、5年前に一度行い、さらに2年前にもう一度行った経験がある。もう歳なので、さすがにちょっと片づけをしても、脱力感があり、いつも使っていない筋肉が痛い。

若いときには、20数回の引越しの経験にものを言わせて、ほとんどひとりで、結婚してからは妻とふたりで、整理を行い、引越しを行ってきた。けれども、やはり研究室の移動には、書籍が伴うので、家の引越しとはわけが違うのだ。

Photo_16 どのように違うのかといえば、とにかく多種多様な書籍の位置をバラして、再び同様に配置することがたいへんなのだ。したがって、もし自分で行い始めると、その場所を確定させるために、つまりは移動の仕事を先延ばしにしたいために、ついには本を読み始めてしまうのだ。これほど非効率な仕事はないだろう。読み始めたら、止まらないのは目に見えている。本がモノに見えなければ、引越しなんてできないだろう。

そこで引越し屋さんの説明によると、第1日目には、女性がふたり来て、本を段ボールに詰めます。第2日目には、運搬専門の人たち6名が来て運びます。また、それと同時に、書架を解体して、新しい研究室で組み立てます。第3日目には、再びふたりの女性が段ボールから本を出し、書架に納めます、ということなのだそうだ。

Photo_17 結局、書籍だけで、段ボールの数は100個を超えてしまったが、当初の150個と言われていたのよりは、ずいぶん少なかった。大学の先生としても、少ないほうだと思う。この本を次から次へ、私情を挟むことなく、機械的に段ボールに詰めていく女性たちに感謝した。記号でどの書架にあった本なのかがわかるように、段ボールへ書付が行われ、図示して記憶されていくのだそうだ。

Photo_18 そうそう、いつも壊さずに運ぶのに苦労する、鳩時計も忘れずに荷造りしなければ。これは友人のK氏とI氏が記念に持ってきてくれたものだが、研究室にあると、本ばかりの空間がちょっと安らぐ感じがするのから不思議だ。

二日目に来た書架の専門家は、2年前にも来ていただいた方で、見覚えがあった。手際よく解体していき、整然と運んでいった。壁に直接支柱を打ち付けるタイプの書架で、壁にそれだけの強度があるのか、心配だったが、これは飽くまで補強であって、ほんとうに地震に大丈夫かどうかはわかりませんと正直におっしゃっていた。けれども、書架が倒れてくるときは、壁が崩れるときだから、そうなったら、建物全体の問題になります、とのことで、安心してよいのか、恐怖を感じたほうが良いのかは、わからなかった。結局は諦めなさいと言われたように感じたのだった。

Photo_20 さらに、運搬の方々には、2年前に千葉学習センターに置いていった積み残し分も運んでいただいて、感謝感謝であった。ひとりではやはり運べないものがどうしてもある。たとえば、大テーブルなど。台車もふたつ駆使しなければ運べないものもある。今回、懸案だったこれらを解決して、すっきりしたしだいだ。

3日目には、再び書架に本を納めていただいたが、仕舞うよりは整理して並べるほうが時間がかかった。この差はどうしてだろう。途中で、荷物が増えたせいだろうか。これまで段ボールのなかで眠っていた書籍群も、今回復活して書架に並ぶことになった。

さいごまで残って、整理を行っていたら、結局9時近くになってしまった。写真で見えるように、まだまだ段ボール2_2は20個ほど、開けられていない段階で、タイムアップになってしまった。引越しは消耗戦であることは、これまでの経験でわかっていたが、それでもこれまで溜めていた要らない物を一掃できるという点では、精神衛生上たいへんよろしい行為であることも確認できた。

Photo_21 さいごにいつも愛用している椅子を机に差し入れて、今日の引越しはひとまず終了とした。幕張のファーストフードの店で、紙コップのコーヒーを飲んで家路に着いた。

2009/02/16

青山の思い出

Photo_9 妻が、3月に閉館してしまう「青山ユニマット美術館」の招待券をもらってきたので、二人で出かけた。スポンサーは、先日なくなったと新聞で報道されていた不動産会社の社長で、亡くなった途端に閉館とするということも、なんとなく底の浅い事業であった気がする。

けれども、収集品は厳選されたものが多かった。とりわけM.シャガールのものに特色があり、特集されていた。シャガールは、美術の教科書には必ず載っていて、小学・中学・高校では何度となく、わたしたちは見ていて、日本人にとって馴染みの画家だ。たとえば、高倉健主演のやくざ映画でも、親分がシャガール収集の趣味を持っているということを「見せびらかし」効果として使うくらい、日本人の絵画趣味のなかに定着している。もしこれほど皆がシャガールを知っていなければ、映画のなかで洋画収集の趣味を題材として取り上げたときにこれほどの効果を持つことはないと思えるからだ。

キュビズムとフォービズムの影響の多い、1910-30年代はあらためて文脈を追ってみると面白い。今回のなかでも、「酒呑み」「ダブル・ポートレイト」などに見られるような、自己の分裂や、多重人格性などは典型例だ。「あなたはわたしで、わたしはあなた」という状況は、思ったほど、日常では得られないが、絵画では数日で実現されてしまうのだ。

きょうの一枚は、やはり読書論がまだ頭から離れないらしく、書いてしまった読書論をさらに書き直したいと考えていることが、自分でもわかるような一枚となった。1925年作品「本を読む男(ラビ)」。ユダヤ教の聖職者ラビが目をかっと開いて、絵の半分を占める大きな黒い本を広げている。意思の強そうな鼻筋の通った顔立ち、輪郭のはっきりした大きな顎、そして背景にある建物と風景。いずれも、いつものメルヘン的なシャガールとは異なる構図になっている。

Photo_11 青山には、若いときに何回か来ていて、とくに渋谷に住んでいたときには、ちょっとした散歩コースに入っていた。表参道の地下鉄を降りて、紀ノ国屋向かいのビルの地下に、緑の色調のおしゃれな西洋飲み屋があったし、六本木に向かう道の右側に、不思議な雰囲気のレコード店が当時あり、他の店では手に入らない英国トラディショナルやフィドロの音楽のレコードが手に入った。いずれも、今は跡形もない。その昔、妻と出会って、2度目のデートがこの辺だったような気がする。そのとき寄った店もやはりもう無かった。もっとも、変わらない代表選手も「健在」で、青山墓地はモダンなビル群の裏に、いまでもある。

今回、スーパーマーケットの紀ノ国屋ビルも建て変わっていて、ポストモダン風な建物に変わっていた。その向かいの小路を入っていったところは、昔から小さな店が群居をなしていた。個々の店はほとんど変わってしまったが、全体のレトロな雰囲気はかなり残っていたのには救われる思いだ。

Photo_12 この小路に、甲府の喫茶店ロッシュがモデルとした店のひとつがあると聞いていたので、探してみることにする。ところが、二往復して店を確かめたが、その名前の店がどうしても見つからない。そこで3度目には方針を変え、名前や看板で見ていくのではなく、スペースでそれらしきところを見ていった。

2 あった。名刺が1枚貼ってあるだけ。けれども、ひとたびドアを開けてなかに入ると、70年代のにおいがしてきた。喫茶店ブラックホークを思い出して、一番奥の窓のテーブルを占め、今日最後の1杯のブレンドを注文する。居心地が良くて、結局3時間ほど過ごすことになった。木枯らしの舞う道を渋谷まで歩いPhoto_13 ても、20歳代の自分に帰った気分で久しぶりに爽快だった。気分が落ち込むことが続いたけれども、ずっと持続すれば出会えることもあるのだと、気を取り戻すことにする。

2009/02/15

潜在的な部分

昨日は、発表会の第1日目を終えたあと、海浜幕張のビルのなかにある居酒屋で、懇親会が開かれ、雑談を楽しんだ。

SさんやIさんたちとの雑談のなかで、どういう風の吹き回しなのか、ドン・キホーテの話になった。ドン・キホーテはここでも英雄で、なぜ正気の世界と狂気の世界とがあるのか、なぜ狂気の人のいう言葉にこれほどの説得力があるのか、など学生の方々との議論は尽きることがない。

明けて2日目は、今年度の方針が話しあわれ、学生の方々の自主的な活動が目白押しの状態であることが印象的だった。この2年間は、いわば助走期間であって、今後が本格的なサポーターの真価が問われる時期に入ってくるのだという緊張感ある発表が相次いだ。

考えてみれば、神奈川学習センターには全部で5000人を超える学生が在籍しているのだ。だから、いくらサポーターの方々が活動的であっても、これら潜在的な学生のすべてを代表しているとはいい難い。いずれは眠れる獅子たちが目覚めて、この活動へ積極的・消極的に影響を与えてくるだろうと思われる。そのときのことを想像しながら、今回の発表報告会を終了した。参加なさった18名の学生・卒業生、新旧の学習センター所長をはじめとする教職員6名の諸氏に感謝するしだいである。

数日後には、研究室の引越しが迫ってきているので、本部の研究室の荷物をすこし片付け始めるが、まず気持ちのほうの整理をつけなければならないと思った。一息ついた後、八王子で行われるM先生のお通夜へ出かける。

会場にすこし早めに入ることができたので、M先生の肖像写真を遠目の正面から拝見できるところに座ることができた。式が始まるまでの間、写真を拝見しながら、どのようなことを考えながら、仕事をなさっていたのかを想った。

わたしのように、移動ばかりしている人間にとっては、そこに行けば必ず会えて(そのような雰囲気を持っているということだが)、話を聞いてもらえるような方というのは、たいへん貴重な存在である。もちろん、理想的な定常型という人間などは現実にはこの世に居ないのだが、それでもそのようなイメージを持った方は得難い。

どっかと場所を占めていて、すべての話がそこに集まっていくような存在が、言葉を商売とする世界には必要で、M先生はそのような位置を確実に占めている存在だったと思う。わたしのような浮遊型の人間が増えれば増えるほど必要で、貴重な存在だった。

Yamada 研究の違いも、このような生活態度を反映していたのではないかとも思われるが、ご本人がどのように考えるかは、またあの世へ行ってから議論することにしたい。

2009/02/14

サポーターの発表報告会

14日から2日間かけて、サポーターの発表報告会が行われた。1年半まえに、特別の予算がついて神奈川学習センターの新しい試みとして発足して、実質的には昨年の1月19日の湘南国際村での総会で大方の参加者を求めることができた。

この昨年の合宿がうまくいったことで、昨年の活動がどんどん進んでいった気がする。最初にこのような合宿をして、サポーター全員の人たちの意見交換のできたことが、その後のコミュニケーションがつながる基礎になったような気がする。

サポーター制がなぜ企画されたのか、ということは、意外に知られていない。学生と放送大学があれば、双方のコミュニケーションはうまく行くだろう、と考えてしまう。ここに間違いが生ずる。とくに、放送大学の場合には、遠隔教育を行っているために、さらに双方の間に距離が生じし易い。この間を埋めるためにさまざまな方法があることは確かだが、もっとも効果的なのは、中間に双方を媒介する人を配置して、つねにコミュニケーション不足を補うことが必要である。つまり、サポーターの組織は、学生と放送大学を結ぶ、第三の組織なのだ。

サポーターというのは名目で、実質的にはサポーターを行うということは、コミュニケーション能力の琢磨ということなのだ。この点では、発表会を見ていると、ずいぶんとこの能力が互いに発達したように思える。それぞれの学習相談、学生調査、ウォーキング、バス研修旅行などの活動自体の成果も目覚ましいが、全体を考えた場合、もっとも素晴らしい成果はこのコミュニケーション能力の発達と、コミュニケーションの人脈などを成立できたことをあげることができるだろう。

質問のなかで、とくに議論になったのは、サポーターという組織のあり方だった。この組織はどう考えても中間的なので、学生の団体と考えてしまえば、サークルの一つとして考えても良いだろう。また、大学の学習センター側からみれば、大学の組織という位置づけでも違いはないだろう。サポーターを独自の組織として形成しておく必要は、いったいどこにあるのだろうか。この点が問題になった。実際、学生団体支援のサポーターメンバーは、新たにできたサークルの協議会とほぼ同じメンバーらしいのだ。

この問題は、たいへん興味深い。学生の方々が、サポートということをどのように考えているのか、ということに依存するだろうし、その問題の本質があるように思えた。神奈川学習センターでは、このようなことも学生側に考えてもらうことができるのだ。問題の面白さもさることながら、サポーターの方々の議論のやり方に成熟した話し方をみたような気がする。多くのサポーターの方々は、すでに自己紹介する必要がないほど、もう何年も活動を共にしてきているという経緯があって、この積み重ねが社会資本として、効いている。

「経験」という他の大学にはない、人的資源を放送大学は使うことができるということに気付いたことが、このサポーター制の最大の成果だったのではないかと、わたしは考えているし、このことにサポーターのひとりとして参加できたことに感謝したい。

2009/02/12

M先生の訃報に接して

お茶の水女子大学のM先生が11日に亡くなって、複数の異なる系統から訃報のメールが届いた。M先生が生前から多くのかたとの交際を行っていて、いかに親しまれていたかを示している。

わたしが最初に会ったのは、設立以来ずっとお世話になっていた財団法人の家計経済研究所が公開講演会のために市ヶ谷の私学会館で開いたパーティだったような気がする。ちょうどM先生が共立女子大学からお茶大へ移った頃だった。日頃はパーティにはあまり出席しないのだが、この日だけは何人かのかたと会うことができて、印象に残っている。

すでに少ないながらも互いに家計論分野で論文を書いていたので、顔を会わせるのは初めてであっても、だいたいの見当はついていたと思う。それに、彼女のほうはこのような狭い業界では、かなり有名な存在であった。この分野で新しいことをやり、かつ分野全体を導いていかなければならないことが、若くして背負わされていた。

今から顧みると、方向性はずっと決まっていたような感じがするが、当時は五里霧中、互いに手探りで進んでいた。今日までの動きをみればまとまった動きを相当見せていることはわかっても、だからこそ、そこでは方向性を指示するものが求められたのだと思う。彼女の位置はそのようなところだったと思われた。

なかには、ユニークで素晴らしい論文を書く人が他にいなかったわけではないが、彼女に課せられたものはそれ以上であったことは間違いない。多少落ち着いたものでも、方向性を維持することにタイムキーパーとして動かざるを得なかったこともあったと想像される。

どちらからというわけでなく、財団法人家計経済研究所の部屋を借りて、研究会を持とうということで、かなり息の長い研究会を数年間、気の置けない形で続けることができた。1回ごとの会が終わるたびに、議論の楽しみを実感した覚えがある。途中で人の出入りはあったにしても延べで10名ほどが参加した。ここでいろいろのことがわかった気になった。この職業に就いて良かったと思えた瞬間のひとつであることは間違いなかった。

そのうちに、M先生がお茶大の要職につくようになって、時間がままならなくなってきた。研究会もそのころにほぼ終結へ向かったような気がしている。

この研究会で確認していったのは、互いの共通点と相違点だった。共通点は最初からはっきりしていて、旧来の「賢い」家政論や、「合理主義」的な近経の効用論をそのまま家計論に持ち込んだような、この分野のおかしい議論を一掃したいと互いに思っていた。とくに、彼女は中心的な位置にいたので、社会的にも新しい家計論を切り開く要請が強く求められたと考えている。

そのために共通の戦略を暗黙のうちに採っていたように思われる。それは、家計という単位を分離された独立したものと見なさず、社会のなかで、家計外のものとの相互作用で考えてみようということだった。けれども、ここで攻略上の互いの違いが次第に明らかになったと思っている。

どこが違っていたかといえば、詳細は省くとして、彼女は家計の構造、つまり縦に深く進んでいく議論を展開していった。これに対して、わたしのほうは家計のネットワーク、つまり横に広く結びついていく関係を問題にした。けれども、最終的にはこれらは対立するものではなく、統合できると考えていた。たぶん、彼女のほうも、そう考えていたと思われるが、今となっては推測するほかない。

もう一度、研究会をつくって、ここのところに関して議論してみたかった。突然の訃報に接して思うことである。

2009/02/09

「チェ・ゲバラ」と「連合赤軍」

劇場に入ると、階段状になった席にずらっと客が入っている。この種の硬質な内容の映画にしては、これだけ人が集まるのは珍しい。団塊世代の年配の客が目立つ。そこには、この世代特有のかなり意識的な理由があるのだと思われる。じつは、自分のなかにもそう思えるところがあるのだ。

昨年公開されて、キネマ旬報ベスト5に入った映画「連合赤軍」については、封切りのときに観てはいたのだけれども、どうもいつものようには言葉にならず、わたしのなかで、映画としては言いようのない状況になって困っていた。封切りの映画館では、それこそ立ち見でも溢れてしまうほど、満員だった。それほど、このことは人びとの関心として生き続けていることはたしかだ。それにもかかわらず、まだわたしたちの世代のなかで判然としないことが多く残されているから、言葉にならないのだと思っていた。

今回映画「チェ」が公開されて、ちょっとだけだが、「判然としない」部分がわかった気がした。それは、「連合赤軍」と「ゲバラの革命」とどこが異なるのか、という見方ができることに気付いたからだ。

もちろん、実際のところはどうであったのかはわからない。映画で描かれるものと、現実とは異なる。けれども、そこで底流として支配していたものが何であったかを知ることは、大切な視点であると思われる。

両方ともに、武装闘争ということを掲げて、人民の自由獲得を目指した点では、共通点を持っている。ところが、片や人民の解放どころか、自分たちの自由も失う結果を招来した。片や人民を解放し、自分もその国から自由になった。この違いは、なにに原因があるのだろうか。

印象から求めるならば、まず「暗さと明るさ」、それは開放性(オープンさ)ということだと思われる。ここが違うと思う。脱退したいと申し出ることに対して、閉鎖的か開放的かという点は決定的だ。イヤなことをやっても成功しないという真摯なニヒリズムが必要なのだ。ここで強制したら、お仕舞いだが、現実はかならずしもすべて自発的に活動が行われるわけではないので、この点を強調すると、ゲバラの革命はやはり特殊例だということになってしまうだろう。けれども、なぜ自由に活き活きとした革命ができるのか、という視点は重要だ。

つぎに、無名性ということだ。名誉を求めたり金品を求めたりする動機で、集団を形成すると結局は、権力闘争に陥る。ここにも、かなり難しいものがある。ゲバラがキューバではまず無名兵士として異国のゲリラ戦に臨むことになったこと、キューバ革命が成功した途端キューバを離れたことなど、ゲバラの自ら進んでの選択には、この特性が色濃く残る。

最後に、もっとも現代的な視点を持っていると思われたのは、偶然の産物かもしれないが、「後方支援(logistics)」ということだ。このことは革命に限らず、活動すべてに共通する興味深い視点だと思った。どのような戦争や革命でも、後方支援が乏しい闘いは最終的には敗北するのだ。ゲバラが何回か、カストロに疎んじられる。そのときにつねに、後方支援にまわされて、このことの有効性を悟っていくのだ。

革命では、フロントがすべてを支配するということは、現実には真実だとしても、フロントだけでは何も動かないということも同じく真実なのだ。

2009/02/06

魚市場について、その2

3 第1市場見学の成果が上がったので、その日の講義も進んだ。今日は、最後の日になってしまったので、朝の4時には目が覚めてしまって、せっかくだからというので、ホテルからはかなり離れている、半島の東端に位置している第3市場まで出かける。

3_5 この市場は、魚市場を超えている。水族館が店を開いているような雰囲気だ。魚屋へ行くと、鯛や平目が並んでいて、多様な魚が並んでいるように見えるのだが、ちょっと考えればわかることだが、魚屋の店先より、もっと多種類の魚が市場には水揚げされているのだ。

3_3 ひとつひとつ見ていくと、日が暮れてしまう。それを数時間で取引を済ませるのだ。市場というものの威力は、市場主義者がいう以上に、ここの現場では強力だ。それは毎日の積み重ねのなかで、習慣として行われているからに相違ない。

みんな顔見知りのくせして、知らぬ顔で次から次へ取引を成立させていく。それが市場の醍醐味だ。

Photo_11 それにしても、これはヒラメなのか、カレイなのか。魚類辞典を持ってくれば良かったな。ふぐはすぐわPhoto_12 かったのだが、ものの本では、ふぐ市場は下関に集中していると聞いていたから、こんなにたくさんのふぐの水揚げがこの銚子で行われているとは想像できなかった。街を歩いても、銚子のふぐなんてまったく売られPhoto_13 ていなかったし、ふぐ料理の店も無かった。考えてみれば、先日行った生簀の店でも、ふぐの生簀があるわけは無いのだが。

Photo_14 すずきや鯛が考えていたより少なかった。すらとした体型の魚は、見た目にも綺麗で、紳士然としている。だが、たぶん筋肉質の硬い肉ではないのだろうか。荒波の太平洋をこの硬質の鱗で覆われた身体で、しゅっしゅっと泳いでいたのだろう。

Photo_15 かにやアナゴ、うなぎなど桶ごとに、固められていて、こんなに多種類の小さなロットの商売を市場で行われているとは思わなかった。さらに、圧巻はあんこうだった。それもたった1尾で存在感があった。これだけの多種類の魚がそろえば、やはりそれ相応の仲買人の数が必要だろう。こちらのほうも、その数の多いこと夥しい。

Photo_16 講義が始まる時間が迫ってきてしまったので、早々に退散して、なにか見逃したものがないか、もう一度振り返った。銚子港のはるかかなたの太平洋が迫ってくるのが見えた。これを書いている最中に、港の潮の香が漂ってきていた。ふたたび訪れることは無いかもしれないが、この香りだけは覚えておきたいと思った。

2009/02/05

魚市場について、その1

魚市場について、今年は調べて、積極的に授業に取り入れている。放送の講義へかけるにはまだまだ時間がかかりそうだが、スクーリングのほうではかなり面白くなってきている。

この20年のあいだに、日本人の魚をめぐる生活がかなり変わってきているのだが、それはなぜなのか、たいへん興味があるところだ。

たとえば、魚の生産量はこの20年間に半減している。その影響はわたしたちの食生活にかなりでている。講義のなかで、魚を食する頻度を聞くと、若い学生たちほど魚を食べていないことがわかる。クラスによっては、週に1回も食べない学生が多くを占めるに至っている。食生活の変化がかなり進んでいるのだ。

Market せっかく銚子に来ているのに、これまで魚市場を見学したこともない、ということは不自然であった。思い立ったときに行わないと、あとで悔やむことになる。

銚子には、第1市場から第3市場まであるが、タクシーで駆けつけると、第1市場ではちょうどマグロの水揚げの最中だった。毎日、マグロ船が入るわけではないので、ラッキーだった。この船は、白くかなり新しい船だったが、美しいフォルムを海に写していた。Photo馬が出走を終えたように、水で船員たちが清掃して、はやくも岸から離れようとするところだった。

ちょっと「南」にいったところで、これだけのマグロを取ってきたのだそうだ。このちょっとというのが、鹿児島県あたりなのか、それともフイリピンあたりなのか。自動車に乗らないわたしが、ちょっとそこに、と言われて、歩きつかれたことがあるように、おそらく数千キロを超えるであろう、ちょっとそこの遠洋のことを実感することには無理があろう。

Photo_2 千尾以上のマグロが並ぶと、海を知らないわたしにとっては、壮観と言うしかない。銚子のホテルには、壁画くらいの大きな玄人はだしの高校生が描いた魚市場の絵がかかっていて、そこには数百尾のマグロが描かれているのだが、このような豊漁はめったにないのだと思い込んでいた。

だから、たった1隻で、こんなに大量のマグロPhoto_3が水揚げされていることなど想像もできなかった。学生たちに写真を見せても、自分たち が住んでいる街で、このような光景が展開されていることは、ほとんどの人が知らなかった。日常は、日常を超えて存在するのだ。

9割は鬢長マグロで、美味しいものを紹介することに長けている「魯山人」であっても、このマグロは別で、三流どこの刺身にしかならPhoto_10ず、仕方ないので、米国のツナになるとされている。こうみていると、程よい流線型をしていて、ふつうのマグロよりよっぽど身が引き 締まっていて、見ている分にはたいへん美しいのだが、見た目に美しいものが美味しいとは限らないというのは、陸で取れる野菜と同じだ。

市場では、値段の高いものから低いものに向かって並べられるそうだ。手前のマグロは、よく見ると、穴が開いていたり、傷がついていたりする。事務Photo_5所に近いものほど、引き締まったものなのだそうだ。そして、鬢長マグロ以外のマグロが並べられている。

入札は、経済を学んでいるものにとっては、やはり興味深い出来事だ。仲買人たちはみな免許をもっていて、それぞれ会社の名前入りの入札表に、マグロの番号と価格を書いて、事務所の入札表入れへ投げ込んでいく。あとで集計して、放送で結果が知らされていく。

Photo_6もちろん、入札は緊張するが、そのあとの結果をしっかりメモして、今後の市況に備えることも重要な仕事なのだ。手鍵を駆使して、マグロの本体の内蔵を取り出した切れ目やひれをみたり、尻尾の丸く切り取られたものをひょいっと引っ掛けてみたりする仕草は、かれらにとっては自然な仕草なのだが、わたしたちにとっては崇高な業に見える。

Photo_7数十分ですべての取引が終了する。今日は安いもので、20キロほどのものが1万2千円、もっとも高いもので、80キロほどのものが、30万円ほどだった。同じ魚なのに、この差がどこに由来するものなのか。

仲買人たちは地元の人が多かったが、それをPhoto_8取り巻く人々として、運搬人たちがいる。さらに、黒いスーツに身を包んだ商社の人らしい一群も遠目に取引を眺めていた。卸業者なのか、スーパーマーケットの買い付け人なのか。

わたしたちの食卓や、寿司屋のカウンターに乗るころには、Photo_9これらのマグロの値段は3倍~5倍になって、違う顔をみせることだろう。ごろんと船を出てきた生き物は、最後は食生活の蛋白源として、美食の対象として、この港街から大都市へ向かっていくのだ。

2009/02/04

最後の銚子グルメ

今回の連続集中講義で、4年間にわたるC大学での講師役も終了することになった。この大学が新設されて年次進行の4年間は、文部科学省に届けた科目が継続講義されなければならなかったのだ。

最後の銚子であるから、ご苦労様という気分である。そこで、これまで来て、美味しかったところ、まだ行ってなかったところ、この際まとめて毎日食べ歩こうということになった。

第1日目は、景色の良い「一山いけす」。もちろん、大広間には生簀があって、新鮮な魚が群がっていたのだが、窓のそとは太平洋で、自然の生簀というのも変だが、こちらのほうが見応えがある。ここは、放送大学の本部近くにある、いつもお世話になっているKビジネスの親戚筋に当たるらしい。そこで、銚子に滞在するならば、一度は行ってみたいといつも思っていて、これまで果たすことができずにいた。

まず、お造りを注文したが、新鮮さが格別である。銚子の市街からはすこし離れていたのでタクシーを使ったのだが、運転手が言うには、新鮮な魚というのは、「角が立っているんだよ」、なのだそうだ。その表現がぴったりの刺身だった。

こんなに広い部屋を満員にするほど、観光の季節には人が押し寄せるのであろう。けれども、きょうはほぼ貸し切り状態であって、ゆったりと味を楽しむことができた。

二日目は、銚子に来て、ポワレに目覚めたというフランス料理店「サバラン」を訪れた。以前にも食べたことがある、肉厚の「真鯛ポワレ」を注文した。銚子に来た初めのころは、ご主人が一人で切り盛りしていた。たぶん子どもがすこし大きくなって、奥さんが給仕をするようになり、料理に専念するようになったと思われる。夫婦でやっている田舎の小さな料理店という雰囲気を満喫して、最後のデザートの甘いタルトを味わって帰る。これだけ美味しく栄養をとれば、最後の講義にも力が入るというものだ。

さて、三日目は、心理学や臨床心理の先生方と思い出のある、明治期創業の鮨「大久保」。もちろん、にぎりは美味しいのだが、銚子名物の「伊達巻鮨」なるものをメニューで知ることになり、注文することにする。

見て楽しみ、味わって楽しみ、伊達巻の華やかさとでもいうべきものを楽しんだ。海沿いに伊達藩から、伝わったものだろうか。東京で食べる伊達巻は、ざらざらした食感だが、ここの伊達巻は滑らかで艶やか、かつ大きな感じだ。写真に撮ってこなかったのだが、皿への盛り付けも素晴らしい。上に乗っているのでもなく、間に挟まれているわけでもない。添えられているのだ。それは、鮨の概念を逸脱していると思われるのだが、これでも鮨というところに意味があると思われる。

最後に、東京へ何を持って帰ろうか、と考えたのだが、やはり銚子の魚と醤油で作られた、かつおの佃煮にすることに決めた。これにて、銚子の食べ尽くしも大団円を迎えることになった。

2009/02/03

言葉だけの結びつきとは(読書論)

K先生が現れたのは、言葉と一緒だった。読書について講義する、と聞いて、思わずわたしも最近読書論もどきを書きました、と言ってしまった。

まず、ショウペンハウエルの「読書とは、他人にものを考えてもらうことだ」という有名な言葉から始まって、読書とは文字を読むことに止まらず、認識方法そのものだ、というところまで意見が一致した。こんなことは、滅多に無い。

多くのひとは感じているものの、言葉に出して共感を得たことは初めてだった。そこで講義に使うプリントをみんないただいた。魅力的で読みでのある箇所が満載だった。

たとえば、ドン・キホーテは最後に正気に帰って死んでいくことは有名だが、それじゃ、なぜ狂気に走ったのか、という件は久しぶりに思い出さされてしまった。つまり、読書は人格を二重にする、という逸話が当てはまるのであって、まさにドン・キホーテ以降の現代というのは、二重人格者の世界になったのだと思う。

それから、芥川龍之介のプリントも面白かったな。当分は、「オオル・ライト All right オオル・ライト」「何が一体オオル・ライトなのであろう?」という言葉が耳から離れないだろう。とりあえず、レエン・コオトのことが頭から離れられなくなって、自殺してしまうことだけには注意することにしよう。

そして、究めつけはハムレットのセリフ、何を読んでるんだいと聞かれて、「Words, Words, Words.」と答えるのだ。あえて、言葉だけなんだよ、というからには、やはり他の世界が存在するからなんだよな。徹底して、言葉だけの関係、つまりはもうひとつ、言葉だけではない関係の世界がそこに写されてあるのだ。これだけ読み込まれると、もう参ったというほかない。

K先生と別れて、今日から4日間22時間に及ぶ、言葉だけ言葉だけ言葉だけの講義へと向かった。

2009/02/02

夜の高速バス

このまま走れば、地が果てる
このまま行けば、海を突き抜ける
途中寄り道があるとしても、そのまま道をたどって行こう
屏風のように崖が切り立ち、行方を遮ろうとも

夜の東京駅はいままでにない賑わいを見せていて
高速バスが地の果てまで通じているとは誰も気付いていない

夜の高速バスは人声に満ち溢れていて
こんな人里はなれた土地を目指しているとは誰も思わない

オアシスのように、闇の中に浮かび来る
コンビニには光が充満していて
かえって、人気の無さを描き出している

かつて、グレイハウンドがカウボーイたちを都市に運んで
ナイトホークに孤独なシルエットを描かせたのと反対に
いまでは、地の果てへ目的なしに向かわせる
ポストモダンの折れ線グラフが錯綜している

夜の高速バスは、今では企業戦士たちを女性化させ
化粧を窓に向かって行わせ、毛羽立った髪の毛を手で透かせて運んでいる

誰がコンビニを利用するのだろうか
キツネやタヌキはとうに追い払われ
江戸のやくざたちも今も田んぼを駆け巡り
現代での出番は回ってこない

外国から来た踊り子たちは、つかの間の休日を東京で過ごし
地の果てへ帰っていく
疲れた顔して、荷物を落とし
内の心に鍵をかけて、バスを降りていく

銛をもった漁師たちが、地の果てでどこが悪いのか、と問うている
風車がエコに貢献する時代になっていても
ドン・キホーテはそれでも風車に向かっている

明日もまた屏風へ向かって風が吹くだろう
地の果てへ向かって、それでも高速バスは走っていくだろう
海の底から地響きたてて、波が押し寄せ
風が吹いてきても、このまま走っていくだろう

                              銚子にて

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。