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2008/10/09

駄作の予感

映画の駄作か、駄作でないかの違いは、紙一重のところにある。制作者の立場に立ってみていると、ほぼ駄作といえるものは存在しない。よほど嫌々ながら作ったのであれば、駄作はありうるかもしれないが、それでも全員が嫌々ながら、ということもありえないから、完全に駄作というものは、制作者の考え方には存在しないだろう。

結局、駄作という考え方は確実に、観るほう、批評するほうの勝手な概念なのだと思われる。何かが観るほうに、駄作と呼べるようなものを用意するのだと思われる。その駄作と思わせる何か、とはいったい何なのだろうか。

映画だから、虚構を描くことは当然許されているのだが、やはりやってはいけないタブーの虚構というものが、暗黙のうちに存在しているのだ。虚構のなかでも、いったい何がタブーとされているのだろうか。

それは、いわば「見え透いた嘘」ということだと思われる。これに出会うと、拒否反応と言うほどのことではないが、映画を観ている気分から、現実に引き戻されてしまう。足で映画館の床を「どんどん」とやってしまいたくなってしまう。

じつは、今日の映画に対して、前の席の人がじっさいにそれをやっていた。「どんどん」とするから、映画から覚醒したのか、それとも映画自体が面白くなかったからなのかは、よくわからないところがあるが。

たとえば、「見え透いた嘘」、その1。作者が「このことはありえない」と前もって観客を誘導しておいて、じつは「このことがありえた」という落ちにしてあると、覚めてしまう。

「見え透いた嘘」その2。作者の思想信条で、映画を製作していて、このことは別に良いのだが、その思想信条を破綻させておいて、じつは破綻していなかった、と最後に居直ってしまう。これも、ちゃんと説明が必要なのではないだろうか。

081009_180501 「見え透いた嘘」その3。俳優のキャスティングを間違えたために、その俳優が自分の演技を抑えてしまっている。このため、せりふを言っていても、まるで個性が発揮されないために、発言全体が「見え透いた」演技になってしまっている。

などなど、駄作を予感される題材が、このように具体的に採取される映画を今日は見てしまった。けれども、いつも観るすべての映画、評判を取っているNO1の映画が、必ずしもわたしにとって、「良い映画」ではないのだ、という当たり前のことを確認できたことでも、この駄作映画の感謝しなければならないだろう。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。