« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月に作成された投稿

2008/10/28

木漏れ日のなかの訃報

大学からの帰り道に木々が被さっていて、ちょっと木漏れ日が揺れると、青空が見える。きれいだ。もうすこし待てば、色づいた枯葉が緑を凌駕するはずだ。

このように青空がきれいなときには、何かが起こる。大学から帰ってメールを開くと、今日の午後、同僚のK先生(音楽学)が亡くなったことを知った。闘病生活の間、生きることにもの凄い意欲を前よりもいっそう示していた。筆談というものの威力も、見せていただいた。

このような生き方もあるのだという、むしろこちらが元気付けられる場面もあるような最近だったので、たいへん残念な思いである。

思えば、かれが神奈川学習センターに登場したのは、当時音楽学の故柴田南雄先生がセンターの協力教員として来たときに、たいへん有望な若手の先生が見つかりました、と喜んで話されたときだった。それ以来、神奈川学習センターで、一緒に仕事をしてきた。

とくに、かれが神奈川にいて強烈な印象を与えた研究活動は、ペリーの黒船での音楽会や、横浜元町での米軍の音楽マーチなどの「発掘」調査だった。当時、どのような西洋音楽を横浜市民たちが聴いたのか、明確になったのだ。これは、研究分野の異なるわたしが聴いても、たいへん興味深いものだった。

わたしも幕末から明治にかけての情報産業論を研究していく中で、彼から教えられたペリーの天皇への奉納品(楽器と電信機)などは、たいへん参考になった。それから、かれが言い出して、A先生を通じて、わたしへ受け継がれた、地域文化施設との連携面接授業の試みは、だんだんネットワークの輪を広げつつある。

このように、神奈川、横浜と強く結びついた研究(ほかの研究は印刷教材や放送でも見ることができる)が、ペリーが横浜で日米修好条約を結んだ年から、150年目を前にして、結実しつつあるなかで、突然逝去されてしまったことは、たいへん残念なことである。神奈川学習センターなどの公開講演会などで、これらの内容をもっと披露していただきたかったところだ。

いずれ時がきたら、雲の上でまた聴かせていただくこともあるかもしれない。それまでの間、ひとまずのご冥福をお祈りいたしたい。

2008/10/22

異なる分野の先生方との対話

放送大学で仕事することができてよかったと思える場面はたくさんあるが、そのなかでも他の大学ではほとんど味わうことのできないのは、専門領域の異なる先生方と討論する機会がたびたびある点である。雑談をさせていただくのと違って、これはこれでたいへん刺激的な体験で、その刺激の程度も基盤の違いを克服しなければならないので、はなはだしいこと限りがないのだ。

今日は、ちょうど福祉専門のM先生と、わたしとがそれぞれ1時間ぐらいずつ話題提供して、他の先生方の意見を受ける当番に当たっていた。話し終えてから、質問や意見がたくさん押し寄せてくるのだが、その中で、やはり後にまで気になるような、前以て想定していた以上の質問が出て、ちょっと面食らう場面もあった。このほんのすこしの違和感がじつはたいへん楽しいところでもある。

今回、わたしは、放送大学の提供している生涯学習の特徴はなにか、という趣旨で問題提起した。簡単に要約すると、経験を持つ学生や社会文化的な知識の蓄積されている社会と、大学との間で、これらの知識が循環するような、いわば開かれた大学としての、放送大学像を提示し、問題提起と事例紹介を行った。

これに対して、わたしが述べた事例以外にも、「知識循環」に関して、たくさんの事例がすでに放送大学のなかには存在するという指摘がいくつかあって、それはたいへん参考になったし、発表した甲斐があったと感じることができた。意を強くしたしだいなのだ。

もちろん、反論もあって、「知識循環」という生涯学習の方法が当てはまらない分野も存在するのではないか、というK先生の指摘があり、ちょっと虚を衝かれた感じだった。とくに、物理や生物などの「理学」からの視点では、社会人の「経験」との知識循環などはあまり期待できないのではないかと指摘されてしまった。

もちろん、社会人の方々のなかにも、相当な学識の方がいらっしゃって、理学的な経験を十分に持っている方も確かにいる。また、放送大学生は他大学に比べれば、かなりの理学的な知識を溜めている方がいらっしゃることは確かだ。でもやはり第1線級の研究を学生が行うことは、今日の世の中ではおよそ想像できないということらしい。

他の理系の先生の言い方では次のようなこともおっしゃっていた。つまり、「知識循環」という社会的な現象はどうでも良くて、個人が「知識」ではなくむしろ「知恵」を働かせる結果として、循環が生ずるのだとおっしゃっていた。例として、寺子屋を挙げていた。

簡単にいえば、理学系の分野では、「知識循環」としての生涯学習を行うことには少なからず困難があり、むしろ教養教育の方向性を生涯学習にもっと盛り込むべきである、ということを示唆なさったのだろうと解釈した。この点は、たいへん刺激的な意見なので、理学系ではどのような「知識循環」が可能なのか、もうすこし考えてみたいと感じたしだいである。

あれやこれやで、論争の種は尽きない。いずれは、今日発表した意見に対して、先生方の反応という形で回帰してきたものを、さらにもう一度こちらが考え直さなければならないだろう。ということは、今日の発表と先生方との討論も、じつは「知識循環」の一環であり、1事例なのだと考えることができる、と牽強付会して、今日の締めくくりとした。

2008/10/19

「20世紀末バブルはなぜ起こったか」

Furuno 放送大学の大学院を出た後、東京経済大学の博士課程に進んだFさんが、久しぶりに神奈川学習センターの研究室へいらっしゃった。

著書の『20世紀末バブルはなぜ起こったか』桜井書店刊を持ってきてくださったのだ。米国の金融危機が起こって、そのタイミングを測ったかのような出版であり、時宜を得るという言葉通りの本だと思う。Fさんは大手の銀行に長くお勤めになって、ちょうど1980年代から1990年代にかけてのバブル経済とその崩壊に立ち会ったのだ。

今回の著書は、その体験をうちに秘めつつ、むしろきわめて理論的にバブル現象を解明したものになっている。日本のバブルの説明では、資本蓄積説、長期波動説、心理要因説、制度要因説の4説を検討していて、それぞれに理由を認めているが、全体としては「資本蓄積説」に傾いている印象を持った。

経済成長の目覚しい時期のあとには、必然的に過剰な金融資産が生まれ、その調整過程でバブルが崩壊する、と考える説である。問題は、必然的に生ずる過剰な金融資産をコントロールすることは不可能なのか、という点にあると思われる。

今回の米国金融危機でも、サブプライム・ローンとその証券化商品に過剰な資金が世界中からあつまったところに問題が発生したのだ。この過剰な資金を監視し、どうにかする方法というのは、存在しないのだろうか。1国ならば、金融当局に責任があるのだろうが、国際的に行うことに昔から難があった。

今回の金融危機騒ぎのなかで、とくに興味深かったのは、英国とアイルランドの摩擦であった。アイルランドの銀行が危機に陥り、公的なコントロールの元で、資金凍結が行われた。ここに投資していた英国銀行や投資家たちが騒ぎ、英国政府が凍結を非難し、逆に今度は、アイルランドの資金を英国で凍結したために、両国が喧嘩状態に陥ったのである。

ここには、金融危機というものの危機の様相がよく現れていると思う。つまり、金融というのは、すべてが連鎖的な状態にあり、ひとつの危機をブロックしたり凍結したりすると、周りのみんなが迷惑をこうむる可能性があるということである。したがって、今回の米国金融危機では、英国とアイルランド以外では、ほとんどブロック、バリアー、凍結などの連鎖を阻むような、昔ながらの政策はほとんど表に現われなかったのだ。

公的資本注入という、「罰」よりは「慈善」を選択し、どちらかといえば積極的な総量政策に終始したのが、今回の特徴である。他に手段がないわけでもないのに、やはり「貸し渋り」などの実体経済への波及効果を恐れて、ひとまずは資本注入で様子をみているように傍からはみえる。総量的政策がうまくいかなくなった時点で、連鎖反応を起こさせないような政策が取られることになるのかもしれない。

などという、雑談をして、しばし本の内容について、お話を伺い、議論を重ねることができた。話していて、この本の特色がわかってきた。理論的なところもたいへん興味深いが、それと同時に、銀行経営との関係で、バブルを論じている部分にとくに説得力があるように感じた。著者の「暗黙の思い入れ」とでも言うべきものが効いているのだ、と解釈したしだいである。

この本には、バブル期の年表も付いており、またクロニクル史としても利用可能なので、ぜひ一度、お手に取って、自分のバブル期のことを思い返していただきたいと宣伝したい。

2008/10/12

横浜で、しゃべって聴いて

これでまた、横浜を離れられなくなってしまった。と言っても、横浜を離れなければならないという話は、別にないのだけれども。

朝、仕事を行って、午後から、30分の距離にある横浜野毛山の図書館ホールで2時間しゃべらせてもらい、そのあと、坂を下って、野毛の街でJazzのライブを2時間弱聴いて、家にかえってまだまだ、夜に仕事をする時間がある。わたしにとってこんなに都合の良い都市は、横浜だけだ。

昨日今日は横浜にとっては、特別の日々で、一日中、街のジャズ喫茶、ライブハウス、あらゆるホールがジャズで埋め尽くされる。ヨコハマ・ジャズ・プロムナードの日である。約50会場で、327ステージが二日間で催されるそうだ。

この日に限って、どういう理由か、わたしの講義がいつも重なってしまう。昨年までは、この時期にちょうど学部・大学院ゼミナールが最終をむかえるために、なかなか街へ繰り出すことは難しかった。それに今回は、まともに野毛の図書館ホールで講演会なので、となりの街はジャズだらけなのに、このジャズとまともに競合することになった。

ジャズ・プロムナードと一緒の時間に、講演会というのも、たいへん光栄なことである。昨年とあわせて、この図書館ので講演会は2回目に当たる。昨年は「横浜とコーヒー」について、話をした。今年は、「横浜はいかに『情報』を受け入れてきたか?」と題して、明治期から昭和にかけての電信電話産業についてしゃべらせていただいた。

ペリーが和親条約のときに、最新の「電信機」を持ち込んで、通信実験を行ったのが横浜で、それ以来、日本で初めての電信所が置かれたのも横浜で、さらに電話の交換所が初めて置かれたのも横浜なのだ。

もちろん、今日は「始まり物語」を話すつもりは無かった。要点は、「ホットメディア」である電信と、「クールメディア」である電話の、産業としての特徴と、産業社会論での電信電話産業の位置づけを行ったということになった、と本人は勝手に考えているが、さてどのように聴いていただけただろうか。

野毛山の坂道を垂直に降りていくと、野毛の飲み屋街があり、その中にいつも行くジャズ喫茶の「ダウンビート」がある。駆けつけてみると、なんといつもの様子とは違って、階段まで人があふれている。満員だそうだ。ちょうどライブの休憩時間だったが、始まったら入るどころではないだろう。

ジャズ・プロムナードの良いところは、ボランティアが出て、入り口のところで整理して、混み具合の情報を与えてくださる点にある。お聞きすると、次の次の回に早めに来れば、大丈夫だという。それとも、近くの「にぎわい座」のホールでのコンサートならば、座れるのではないかという。関内や本牧などの有名店はまったく入れないと教えてくださった。

そうなると、あと2時間はどこかで時間をつぶさなければならない。仕方が無いので、桜木町から関内方面へ向かって、ぶらりぶらりと散歩することにする。途中にも、2,3軒のジャズ喫茶があるのだ。

野毛のはずれにある「Five Stars Records」を窓越しにみると、教えられたように、ドアまでぎっしりだ。でも、ミュージッシャンたちは外に出ていて、休憩時間らしい。プロムナードの係りの方に聞くと、もう2,3人の立ち見は可能だという。実際入ってみると、入り口ドア横の寄りかかれる場所が空いている。これ幸いと、スコッチの水割りをもらって、そこに陣取ることにする。ラッキーだった。

谷口英治(cl)岡田嘉満(ts) 袴塚淳(p)ジャンボ小野(b)のカルテットで、わたしも知っているような、「ブルーモンク」や「Aトレイン」などをテーマにした、インプロビゼイションを展開した。素人のわたしが聴いても、熟練しているなという方々で、楽しい演奏だった。とくに、ダイアローグの演奏部分は、互いの試みを読みながらの展開だったので、スリルがあって面白かった。

その店は、20人ほどしか入らないところだったので、親密な雰囲気に恵まれて、ノリの程度は良いし、しゃべった後の喉の渇きに、ウィスキーがちょうどあっていたらしく、たいへん心地よい時間を過ごすことができた。仕事の帰りに、ほんの1時間ほど、カルテットを聴いて帰れるなんて、思ってもみなかった。

このように小さな店で、同じ音楽を聴くことには、おそらく何らかの集団効果が作用しているように考えられる。店全体の客が、同じゆれを感じ、頭の中も同じメロディーやリズムが吹き抜けている。

家に帰ってから、今日最後のコーヒー。先日甲府のロッシュから豆で購入してきたマイルド・ブレンド。二杯目には、娘がスターバックスから買ってきたバニラ・シロップを入れて飲む。

2008/10/11

論文提出最後の1ヶ月

半分のゼミ生は、これから論文作成の個別指導に切り替わるために、集団ゼミナールは、ほぼ今日で終了する。そこで、いつも行く東京文京学習センター近くの「播磨坂」のイタリアン料理の店で、卒論生とランチを食べる。

野菜サラダ、魚のスパゲッティ、生ハムと卵のピザ、トマトソースとバジリコのピザなどを取るが、盛りだくさんで、さらにデザートに桃のババロアなども出て、ボリュームあるランチとなった。

話題になったのは、趣味の問題で、卒論生のHさんは、かなり余裕があるらしく、明日には信州黒姫にあるMさんという童話作家の朗読会に参加するのだそうだ。ご自身でも、童話をお造りになっているのではないかと想像される。放送大学生の趣味は、聴いていくと留まるところをしらないところがある。そして、おしゃべりをしていると、時間の経つのを忘れてしまう。あわてて、午後のゼミナールへ駆けつける。

自分の論文を書いているときには、あまり意識したことがなかったけれども、学部の卒業論文や大学院の修士論文の研究指導を行っていると、自分では気がつかない注意点が意外に忘れ去られていていることがわかる。それは、周りの人から見ると、ほんのケアレスと写るようなことなのだが、本人はそのことに気がつかないのである。

たとえば、ひとつの文脈があり、もうひとつの文脈が別にある。このとき、論文を書いていると、自分のなかでは、それらは当然結び付けられて、書かれているものと思い込んでいるのだが、周りから見ると、必ずしもそれは自明の結びつきではない場合があるのだ。それは、単に接続詞で結合してしまえば良い、ということでもない。

文脈と文脈の繋ぎ方には、相当の工夫が必要だ、ということを自覚するようになったのは、何時からなのだろうか。たぶん、読み手を意識するようになったときだから、すくなくともわたしの文章が読んでもらえるようになったころだと思われる。

今日は、学部の卒論にとっては、最後のゼミナールに当たる。また、修士過程2年めの方々も、2ヶ月前ということになるから、そろそろ読み手を意識した原稿を仕上げなければならない段階に入ってきていると思われる。

最後の仕上げ段階で、急速に良い論文に磨き上げられていくプロセスに入るのだ。やっぱり、この職業をやっていて良かったな、と思えるのは、このプロセスが一番だと思われる。課題を持ち、題材を集め、メモを作成してきて、これらが最終段階に入って、熟成していくところが、論文作成の醍醐味ではないかと思われる。

今年は、この仕込からどのような論文が立ち上がってくるのか、この1,2ヶ月のやり取りが楽しみである。

2008/10/09

駄作の予感

映画の駄作か、駄作でないかの違いは、紙一重のところにある。制作者の立場に立ってみていると、ほぼ駄作といえるものは存在しない。よほど嫌々ながら作ったのであれば、駄作はありうるかもしれないが、それでも全員が嫌々ながら、ということもありえないから、完全に駄作というものは、制作者の考え方には存在しないだろう。

結局、駄作という考え方は確実に、観るほう、批評するほうの勝手な概念なのだと思われる。何かが観るほうに、駄作と呼べるようなものを用意するのだと思われる。その駄作と思わせる何か、とはいったい何なのだろうか。

映画だから、虚構を描くことは当然許されているのだが、やはりやってはいけないタブーの虚構というものが、暗黙のうちに存在しているのだ。虚構のなかでも、いったい何がタブーとされているのだろうか。

それは、いわば「見え透いた嘘」ということだと思われる。これに出会うと、拒否反応と言うほどのことではないが、映画を観ている気分から、現実に引き戻されてしまう。足で映画館の床を「どんどん」とやってしまいたくなってしまう。

じつは、今日の映画に対して、前の席の人がじっさいにそれをやっていた。「どんどん」とするから、映画から覚醒したのか、それとも映画自体が面白くなかったからなのかは、よくわからないところがあるが。

たとえば、「見え透いた嘘」、その1。作者が「このことはありえない」と前もって観客を誘導しておいて、じつは「このことがありえた」という落ちにしてあると、覚めてしまう。

「見え透いた嘘」その2。作者の思想信条で、映画を製作していて、このことは別に良いのだが、その思想信条を破綻させておいて、じつは破綻していなかった、と最後に居直ってしまう。これも、ちゃんと説明が必要なのではないだろうか。

081009_180501 「見え透いた嘘」その3。俳優のキャスティングを間違えたために、その俳優が自分の演技を抑えてしまっている。このため、せりふを言っていても、まるで個性が発揮されないために、発言全体が「見え透いた」演技になってしまっている。

などなど、駄作を予感される題材が、このように具体的に採取される映画を今日は見てしまった。けれども、いつも観るすべての映画、評判を取っているNO1の映画が、必ずしもわたしにとって、「良い映画」ではないのだ、という当たり前のことを確認できたことでも、この駄作映画の感謝しなければならないだろう。

2008/10/07

縄文文化の「見せびらかし」

ふつう、縄文文化は質実剛健で、繊細華美な弥生文化と好対照を見せているという印象が強い。けれども、かならずしもそのとおりではない事態が現れていて、興味深い。

今日は、神奈川学習センターのFさんと、学生のサポーター制を手伝っていただいているKさんと一緒に、「横浜開港150周年」記念講座を開設してくださった、「横浜市歴史博物館」を訪れて、25日から始まる講義の打ち合わせを行った。ちょうど特別展「縄文文化円熟」が開催されていて、観覧する機会を得た。今回の講義に関係するということで、特別に券をいただいたのだ。

http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/special/special100.html

そのなかで、ちょっと表現がきついかもしれないが、「目を見張るような」展示があった。案内してくださった学芸員のIさんが、このなかで一番見せたいものがあります、といって連れて行ってくださったのが、「耳飾」の展示のところだった。はじめは、なんの変哲のない装飾品の展示のようにみえた。そして、何も展示には説明されていなかったので、もしIさんの説明を受けなければ当然見過ごしてしまっていたに違いない。

耳飾が小さなものから、次第に大きなものへ並べてあるのだ。これだけならば、小さな耳飾と大きな耳飾があるますね、で終わってしまうだろう。けれども、改めてみてみると、その大きな耳飾は、拳大の大きな耳飾で、もしそれを普通の人がもらっても、到底耳に飾ることなどできない代物なのだ。

そこで、説明によると、この小さな耳飾を子どものときに小さな穴を耳に開け、入れるのだそうだ。そして、身体が大きくなるにしたがって、穴に嵌めていく耳飾を次第に大きくしていくのだそうだ。この風習は、世界中に残っていて、現代ではアフリカにあるそうだ。

つまり、陶器でできた大きな耳飾を両耳からぶらんと下げて、毎日生活しているのだ。これは想像するに、おそらく歩くたびに顔にぶつかるので、たぶんこれを身につけた人は、ほとんど動くことはできないと考えられる。

これは、社会経済学者ヴェブレン言うところの「見せびらかし」の余暇である。ある高貴な身の上を、この耳飾で表示しているのである。この耳飾を身につけているのでは、到底労働できないので、労働免除の階層に属していることを表示できるのだ。

久しく「見せびらかし」の用具を見ることが無かったので、題材として価値ある、ほんとうに良いものを見せていただくことになったと思う。実際に、こんなに大きな耳飾をつけている人間を見てみたいものだ。おそらく、女性とは限らないのではないだろうか。

2008/10/05

センターの日々で、一番長い日

今日は、神奈川学習センターの一年間のなかでも、もっとも長い日である。入学式と卒業式と、懇親会それに歓送迎会まで、朝8時から夜の9時ごろまで続くのだ。でも、儀式というのは、やはり地域でこじんまりと行う親密さというものが必要で、その意味ではセンターの職員総出で、また学生団体の方々も、合唱団をはじめとして同好会総出での、手作りの儀式というのは雰囲気があって、たいへん好ましい。

昨日の面接授業講師会に引き続いて、今日もわたしは当番になっており、それぞれ「挨拶」や「学習指導」などが組まれていて、4つほどのスピーチを行わなければならない、ということでも、たいへん長い一日だ。幸い、テキストの執筆を終えたところなので、宣伝を兼ねてしゃべることの題材には事欠かない。

この一日に消費されたスピーチは、夥しい数に上る。所長のH先生をはじめとして、同僚のK先生、H先生、さらに同窓会の方々や、同好会さらに卒業生の方々の印象的なスピーチがぞくぞくと続いた。

特別の準備が必要なスピーチだとなかなかそうは行かないのだが、これほど多くのスピーチが続くと、傾向として出てくるのは、流れを作り出そうという、暗黙の了解である。たとえば、前の方のスピーチの一部を受ける形で、自分のスピーチを展開するように心がけるのだ。これによって、連鎖が連鎖を生むような効果が表れてくる。

また、このことは確実に、聞くほうにとっても、良い効果がある。その流れを読み取るために、スピーチが理解されやすくなる。たとえば、卒業という題材は、流れを作りやすい。単に「おめでとうというのではなく、むしろ卒業してからどのようなことことが始まるのか、ということに焦点を当てる人が出ると、それに続いて、話がどんどん発展していくという具合だ。

スピーチの連鎖、というのは、スピーチする側にとっても、活力を与える好材料になる。連歌と同じように、制限があるほうが、スピーチはやりやすいのかもしれない。それがまた、しめし合わせたのではないところが、偶然の産物であるというところが、楽しいところでもある。

今日最後の歓送迎会は、弘明寺商店街では、ちょっと洒落たフランス料理のル・メッサージュで行われた。オードブルに出た、クリーム状の料理が美味しかった。それと、ちょっと酸味の効いた食用の「ホウヅキ」の味が新鮮だった。本日最後のコーヒーもこのレストランで。学生の方々も、同窓会の方々も、職員の方々も、長い一日ご苦労様でした。

2008/10/04

バウハウスの系譜

20081004 家を9時10分に出て、浦賀の横須賀美術館まで、電車とバスを乗り継いでぴったり1時間。10時10分に窓口でチケットを購入できた。空の青さといい、海の広さといい、浦賀ののんびりさといい、申し分ない土曜日の朝だ。

早稲田大学のO先生がすでに数週間まえに、ここを訪れていて、ブログに書かれていたので、「ライオネル・ファイニンガー」展が開かれていたことは知っていた。けれども、1時間で来ることができることは知りつつも、なかなか時間が取れなかった。それで明日までだ、ということになり、ようやく他のものを犠牲にしてまでも、という気分になったのだ。

バウハウスを知ったのは、やはりカンディンスキーからで、社会科学者出身というので、興味を持って、絵に接近していった。そして、ご多分に漏れず、なぜ「抽象絵画」という手法が形成されたのか、ということが不思議に思われたから、深みに嵌っていったのである。

抽象絵画成立のころを追って、ミュンヘンのレンバッハ美術館や、ワイマールのバウハウス博物館、ベルリンのバウハウス博物館なども回って確かめてきた。(肝心のデッサウへ行っていないというのは、ちょっと間が抜けているが、その辺は素人のなせる業なのだ。)

その過程でクレーなどのほかのバウハウスの関係者のものもかなり見てきたはずである。ところが、同じ「青の4人」に属するファイニンガーについては、有名な「ヴァイマール国立バウハウス設立要綱」の表紙を飾った「大聖堂」しか知らなかった。この印象が強かったので、これほど多才な作家だということをまったく理解していなかった。今回、このように全貌を明らかにするような展覧会にめぐりあえて、ほんとうに良かったと思う。

当然、このバウハウスの動きは大正期の日本に大きな影響となって出てくるのである。この辺について「バウハウスの日本への影響」展も、一度どこかで企画して欲しい。個別の日本の画家の影響は伝えられるものの、全体的に、日本はどのようなところをバウハウスから受け入れたのだろうか。

この「大聖堂」のイメージで、彼をみると、ちょっと全体からずれてしまうことが、初めてわかった。まず、ドラマ性、社会性、風刺性の作家として世に出た。このことはたいへん大きいと思う。初期の作品「緑の橋」には、それからずっと続くファイニンガーの基本的モチーフがある。

まずこの絵では、観るものと観られるもの、という分裂が新鮮で、後半の抽象画への道筋がここでもすでに準備されている。シカゴ・サンデー・トリビューン紙連載の「ジムジャムおばさん」は、頭でっかちの発想が時代を反映して分裂しているのだが、現代のドンキホーテ的な面白さがあった。初期のころの人物像は、手前に必ず道化が二重写しのごとくにそえられていて、人物の分裂が風刺されている。

このような多重的・多面的な世界観は、当然のように、キュビズムからの一連の抽象画運動へ連動していく宿命を持っていたと思われる。「自画像」、それから版画の「パリの通り」などにそれが表れていた。抽象化への理論は数多くあるものの、キュビズムの洗礼を受けないで、この時代を超えることは誰もできなかったのかもしれない。

後期の作品のなかでは、写真から水彩画、そして油彩へとプロセスのわかる「村」が印象に残った。レイヤーの重なりが、最終的なものには決定的な作用を与えている。水彩画までの平面性が、油彩では、一気に多面的なものへ変貌を遂げている。

これでも2時間たっぷりかかってしまった。もっとじっくりと時間をかけたかったのだが、仕事が待っている。途中、弘明寺の「Makoto」レストランで、手作りハンバーグランチ、コーヒー付きを食べる。午後からは、神奈川学習センターで、新たに講義を開設なさった先生方と打ち合わせ会を開催した。今年度は、わたしの当番に当たっているので、パスするわけにはいかない。

2008/10/03

アジアの交響楽団

午前中に、締め切りの仕事を2つこなして、午後には学習センターで、所長のH先生と、同僚のH先生と雑談。さらに、これまで読みためてきた本の内容整理を行う。原稿用紙に書き出し始めると、意外に分量が多いことに気づき、はじめからパソコンに打ち込むべきだったと後悔する。

最近の情報論では、情報はあまり生産的ではなかった、ということが常識になりつつある。それは、上記のことを言っている。つまり、本の内容を読み取るのは、飽くまで手作業で手間ひまかかることで、生産的ではない。それどころか、むしろこの過程は生産的にしないほうが、のちのち良い結果を生む場合が多い。

それで何が生産的なのかといえば、それはメモを「手書きで残すか」、それとも「パソコンで残すか」というところの、文字化した後のいわば流通段階での生産性を問題にしているのだ。ここは、かつての分業論の論理とまったく同じで、途中を省くことができれば、生産性が上がると考えられるのだ。

ここのところを間違えてしまうと、とんだことになる。けれども、マクルーハンのように、むしろ思考段階でも機械との結びつきで、意味のまったく異なる次元、つまりは内破的な世界がたち現れるとするという議論もあるので、この辺は「微妙」だ。

さて、今日の仕事もこれまでとして、東京初台にある東京オペラシティコンサートホールへ駆けつける。妻の誘いで、チャン・ヴォン・タック指揮、「ホーチミン市交響楽団」 ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番、ブラームス・交響曲第2番などを聴いた。

たぶんホールのせいも相当あるのだろうが、音が柔らかく、ほわーんとした感じの特色をもつ楽団だった。アジア的な音を特色としているということなのだろうか。けれども、ブラームスの3楽章目の静かな繰り返しのところは、なぜか聴き慣れた感じがしてたいへん良かった。柔らかな音の特色がちょうどこの曲にあっていたと思う。それから、アンコール曲の「Return to the mother land」も、やはり柔らかな、懐かしい感じをもつ曲だった。

そこで思い出したのは、いつものように聴きながらつい考えてしまったことなのだが、「繰り返しのパターン」ということについてだ。ちょうど原稿を書いていて、その議論のパターンが音楽のパターンに重なってイメージされたのだと思われる。

これには二つのパターンがあり、ひとつは直線的な増加のパターン、もうひとつは、累積的な増加のパターンだ。これらのパターンが同時に現れる場合もあるが、それらが別々に顔を見せるところもあり、その入れ替わりを楽しんだ。

パンフレットによれば、フランスとの結びつきが強いらしい。やはり、植民地時代の影響だろうか。そこで活躍して、本国に帰って活動を続けている人が含まれているということだ。ならば、フランス人的なブラームス解釈という伝統を引き継いでいるのかもしれない。

帰りに、どこかでラーメンでも食べよう、と言っていたが、結局家で食べたほうがよいということになり、帰路を急いだ。というわけで、コンサートの前に、オペラシティの喫茶店で飲んだ、カフェラテが今日最後のコーヒーとなった。

2008/10/02

中華街から元町へ

9月末には、K大での後期講義も始まり、さらに原稿3本、試験問題作成(2科目)、審査体制の返答、シラバス作成(2科目)、講演会資料作成、人事資料作成などなど併せて、10くらいの締め切りが一斉にやってきた。現在も、徹夜を2回ほどして、ひとつひとつ片付けている最中である。

今日もメールを見ていたら、これら以外の締め切りがあったらしく、もうひとつの催促が付け加わった。ぎりぎりになってからでないと、仕事が終わらないという悪い癖がある。

わたしのこんな苦しい状況が伝わったのかどうかわからないが、卒業生のTeさんから、「忙中閑」を見つけて出てきませんか、と誘いのメールが届いた。KさんとOさんも一緒にいらっしゃるとのことで、わざわざ千葉や埼玉から横浜まで出ていらっしゃるのに、ひさしぶりのご挨拶をしないわけにはいかないだろう、と待ち合わせの桜木町へ出かけた。もっとも、1昨日も昨日も、締め切りのものを出し続けていて、そろそろ限界に達していて、身体自身が会話を求めていたのだと思われる。

Teさんたちは、じつは横浜美術館の「源氏物語展」をみたいということで、いらっしゃったらしいのだが、木曜日の定休日に当たってしまったらしい。待ち合わせ場所へ行ってみると、さすがに横浜まで来て半日が無駄になったので、何となくがっくりしているようにみえた。

そこで元気付けのために、Oさんは初めてだという、中華街へ繰り出そうということになった。平日だというのに、相変わらずこの街はにぎやかだ。初めてのOさんに敬意を表して、中華街の中核に位置する広東料理老舗の「聘珍樓」へ上がることにする。

わたし以外は、みなさん大台を超えた人生の練達なので、すでにたくさんの食材を食べ飽きている。そこで、ほんのちょっとづつ、綺麗に取り分けてくださるような、サービスの行き届いた、このような店はたいへん好ましい。とくに蝦シュウマイは美味しかった。

最近の横浜では、ホテルのランチに人気が集まっていて、予約をしないと入れない状況らしい。それならば、絶対に中華街のランチのほうが良いと思っている。とくに、今日のような平日ならば、二時間以上話しこんでも、お茶など、ゆったりとサービスしてくれる。

081002_1412011_2ランチの話題は、米国の金融破綻と日本の対応に集中した。ブログも開いているOさんが、政治家としての見解を述べたのに対して、異論・反論をみんなで言 い合った。やはり、過剰な金融資産や流動性をどのように制御できるか、という点が焦点だと思われるが、今回のように、多重に債務が絡む場合には、制御のためのバリアーをどこに設けるのか、かなり難しい、ということになった。これまでのバブル現象よりも複雑な分だけ、対策も複雑にならざるをえないであろう。

今日の天気予報では、台風の接近が伝えられていたので、すっかり雨だと思っていたのだが、昨日から情勢が変わって、一転して秋晴れの清々しい一日となった。写真に写っているのは、関帝廟のまえの各氏であるが、日差しが強くて、すっかり顔が黒くなってしまって、失礼。

081002_144101_4 そのまま、掘割川の橋を渡って、元町へ出て、甘いものを求めて、地元で永く続いているケーキ屋さんの「喜久家」へ入る。甘いものは、いつでも入るらしく、みなさんショートケーキなどを頼んでいらっしゃった。わたしは、アップルパイ。

ここでの話題は、Teさんが60歳代になってはじめられた「洋服リフォーム」業をめぐって、興味深い話が続いた。内容は、企業秘密に属することが多かったので、ここには到底書くことができないが、いくつかの視点はそのうちオブラートに包んで、組織論の論文のなかに反映させたいと思ったほど、興味深かった。

奥床しいTeさんのことなので、最初はなかなか内容を明らかにしてくださらなかったが、聞き上手のKさんが呼び水を注いで、面白い話を引き出してくださった。事例研究として、ラジオ番組にお呼びしたいほどだった。

そのひとつに、「営業人」と「職人」のバランスを組織のなかで、いかに保つか、という話は面白かった。今日のように大企業体制になってくると、部門が完全に081002_144201_2 分離してしまうので、このバランスを見える形で考えることは難しい。それに対して、少人数の経営の場合には、日々変動する互いの仕事のやり繰りのなかで、互いの特性を考慮しながら決めていくことができるらしい。

今日最後のコーヒーは、結局アップルパイと一緒にいただいた「喜久家」のコーヒーだった。器は、Noritakeの上品な刺繍模様のカップだった。

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。