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2008/09/18

クール・メディアとしての「石文」

甲府に来ている以上、もうすこし山梨におけるワインとは何かを極めたいと思って、先日話題にした、うわさの「キザン」や「キャネー」を探したが、まったく姿すらみることができなかった。

そこで昨日になって、和風スパゲッティの「楽」という店が街中にあり、、そのときの甲州ワインをグラスで分けて飲ませてくれるらしいということを聞きつけた。講義のあと、さっそく訪れるが、まだ5時で、しかも今日の夜はパーティ予約で一杯だという。けれども、すぐ退散するからといって、上がりこんでしまった。

さっそく、薀蓄を開陳していただく。白ワインの甲州種が山梨では、基本的なテイストを形成していて、赤については、どうも基本はないらしい。むしろ、長野や外国から持ち込んだ赤が流行っているとのことだ。

そうはいっても、どのような赤があるか、と突っ込むと、今年ワインコンクールで賞をとったマルスワインの「穂坂・収穫07」赤の栓を抜いて、グラスに注いでくれた。なるほど、という味だった。カベルネ・ソーヴィニヨン種&マスカット・ベリーA種で、透き通ったルビー色が綺麗で、若々しい感じのワインだ。

この店は、たらこイカのスパゲッティのバラエティがたくさんあるので、一つ作ってもらって、つまみながらお話を聞く。甲州は白だ、というのは、ご主人の話を聞いていると常識らしいのだ。ほんとうに知らないということは、恐ろしい。そこで、白の系統を聴いていくことにする。

白の辛口についての多様さが、山梨の特色らしい。同じ辛口でも、すっきりしたタイプから、ちょっとコクのあるタイプまで、この辺のところの、テイストの範囲がわかれば、甲州ワインの中核をつかんだことになるのでは、と感じた。もちろん、価格帯が異なれば、そして上を見れば限りがないので、そのことは留保しておきたいが、毎日飲むようなレベルでは、ここのところを一度は突き抜けたい。

と思っていたら、すっきりタイプの辛口で、家庭でもいつも飲めるタイプのものを、またもや特別に、栓を開けてくださった。旭洋酒の「ソレイユ クラシック」で、この透明感は比類がない。比較できるほど経験が無いのだが、なんとなくコツがわかってきたような気になる。酩酊文化のなせる業だと思われる。

白ワインはそれぞれあまり高価なものではないのだが、十分楽しめる。自転車で来ていたので、ほどほどにして、店から坂をすこしくだって、岡島百貨店を過ぎたところにある、映画館へいく。すこし酔っていたらしく、入り口がわからないのには参った。

今日は、滝田洋二郎監督「おくりびと」を観る。主演者本木雅弘をはじめ、山崎務や笹野高史などすべての俳優がしっかりした演技を見せていて、近年珍しい本格派の映画である。とくに、納棺師の行う、棺に遺体を収める儀式は、それ自体で様式美を持っていて、観ていて、いろんな情感を昇華させられる。じつに、感動的な動作なのだ。感動的と言うのは、観ている遺体の家族たちの感情が、納棺によって、区切りがつけられると同時に、おくられるのだ。この不連続の連続性が、儀式というものの本質だと思われる。

死者はそのままにしておいたら、自然のままでは、生者から分離してしまう。ところが、納棺師が遺体をきれいにして、きちんと送り出せば、それで死者は生者のなかに転移を遂げ、再び結び付けられたかのような関係になるのだと思われる。ここで、生者と生者との関係が断ち切られて、再び生者と死者の関係へ生まれ変わるのだ。

チェロ奏者が故郷に帰る、というモチーフも秀逸だ。このドラマは、山形だったが、試練を経て、チェロを山河のなかで弾き続ける姿は、どこか岩手の『セロ弾きのゴーシュ』を思い出させて、このようなチェロ奏者が、ふるさとの身の回りにいてくれたら素晴らしいな、と思った。

このアイディアは、田舎に帰ったチェロ奏者が、都市と農村の循環のなかで成長し、腕を上げていくというものだが、それだけでも面白いテーマなのだ。いずれこのような主人公も描いて欲しい。

脚本家小山薫堂氏が採用したアイディアで、向田邦子も書いているという「石文」は、たいへん興味深い。石文とは、そのときの思いを表した石を選んで、相手に渡してその思いを伝え、つぎに相手は自分の思いの石を選んで、返答するものだそうだ。

子どもは、白く丸いきれいな石を父にプレゼントする。お返しに、父は子どもにガツンと、黒く大きなごつごつした石を渡す。互いに、数十年もその石を持ち続ける。離れていった父は、死ぬときに、その石を握って離さなかった。この石は、納棺師と同様に、生者と死者を結びつけたのだ。

メディアとしての「石文」は、マクルーハン流にいうならば、きわめて「クール」なメディアだと考えられる。つまり、伝わる部分がきわめて、粗であるため、そのスカスカな隙間を、互いの想像力が補う必要があるからだ。だからこそ、通常伝わらないことも、かえって伝わるのだ。伝わる部分が少ないだけ、双方向性が密になる必然性が生まれるのだ。

あまりに盛りだくさんなので、観る人によって、おそらく切り取ってくるところは異なるだろう。名画というものは、このように多義的なものだ。石文か、チェロにもっと集中させて、死者から生者へのメッセージを明確にすればよかったかもしれない。けれども、そうすると、映画『西の魔女』のアイディアに限りなく近づいてしまうかもしれない。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。