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2008年9月に作成された投稿

2008/09/27

アイス・モナカ

先日観た映画「おくりびと」のなかで、俳優の笹野高史演じる銭湯の客が、風呂から出た後、美味しそうに壜牛乳を飲むシーンがあって、銭湯の着替え場のコミュニティの雰囲気を出すのに、一役買っている。これは銭湯に通った人でないとわからない美味しさだろう。

今は冷蔵庫がふつうだが、やはり凝るならば、井戸の冷たい水のかけ流しで冷やした牛乳にしたもらいたかった。

銭湯の牛乳と並んで、夏のアイス・モナカも格別な味だと思う。これは都会に来てから知った味だ。やはり、すこし成人になってから、冷凍技術の発達がこのアイス・モナカを流行らせたのだと思われる。あのパリっとしたウェハースの歯ざわりは、相当高級な冷凍施設と、製造したその日に食べられる、という条件が無ければ、不可能だ。

ときどき2日たったものが売られているが、ウェハースに湿気がかぶってしまい、今日の冷凍技術を以ってしても、限界のあることが知らされる。クネっとしたまとわりつくウェハースは、すでにアイスクリームに取り込まれてしまっている。

アイス・モナカの開いた味の世界は、なんといっても、二つの異なる世界を同時に合わせたところにある。パリとした世界と、マッタリしたクリームの世界が相乗効果を及ぼすところがよいと思われる。

なぜアイス・モナカなのかといえば、現在8月から10月まで、神奈川学習センターでは、トイレの改装工事を行っていて、全トイレが使用不可の状態であって、このため、もちろん構内には簡易トイレが設置されてはいるものの、向かいにある「大岡健康プラザ」のご厄介になっていて、そのホールに、じつはアイス・モナカの自動販売機が設置されている、というしだいなのだ。この自動販売機には、温度表示が設置されていて、常時マイナス24度が保たれている。

この誘惑には、強いものがある。他の人びとはどうか知らないが、ちょうどトイレに行く時間が、15時くらいに重なってきて、甘いものが欲しくなる時間に当たっている。

原稿を書いていて、リラックスする飲食物は、なんといっても酒だが、勤務中に飲むわけに行かない。けれども、頭ががちがちになり、肩が凝ってくると、当然コーヒーということになるが、近くにはあまり良い喫茶店がないのだ。ちょっと休憩に関内、桜木町へ行ってくるということも考えられるが、それは気分が乗ったときに限られる。

そして、現在は断然、アイス・モナカということになったのだ。親戚の系統をみると、代々甘党と辛党の両刀使いだったらしい。隣のジムや体育館では、みんな汗を流して、ダイエットに励んでいるが、こちらはすっかり脱ダイエット路線を歩んでいるしだいである。

2008/09/26

警察官に呼び止められる

夕方、闇が早く降りるようになってきた。今日は、看護関連夏季集中の試験日に当たっていて、試験監督を命ぜられていた。

帰りに、愛車の自転車に乗って、通りに走り出ると、「大岡健康プラザ」のまえになにやら仰々しい、交通規制をするときに着るような、ちかちかしたランプの付いた、チョッキをつけた人びとがいる。

なにか事故でもあったのかな、と思って急いで通り過ぎようとすると、ちょっと済みません、自転車のランプが点いてませんよ、という。よく観ると、警察官であった。考えてみれば、警察官に呼び止められるという名誉に浴したことは、これまでほとんど経験がなかった。全神経を集中して、対応を考えた。

無灯火での自転車運転は、どのような罰に相当するのだろうか。それにしても、自動車の交通規制でもないのに、大袈裟な取り締まりだなと、考えていると、どうも目的は違うことにあるらしいことがわかって、胸を撫で下ろした。

ちょっとご協力願いないでしょうか、と言う。アンケートでも取るのかと思いきや、自転車の盗難車番号をチェックしたいのだとおっしゃる。いつも、自転車を購入するときに、こんな登録をして、ほんとうに警察署で番号を管理しているのだろうかとちょっと疑っていた。けれども、無線を通じて、番号をいうと、わたしの情報がちゃんと入っているのだ。

情報検索がこのようなところでも、使われていて、瞬時にわかるようになっているのだ。つまり、自転車のデータベースを通じて、誰がどのような自転車を持っているのかが、警察へ行けば、ほとんど把握できるのだ。これは面白いと思う。

ブログで、自転車の好きな大学の先生がいて、いつもサイクリングの記事を載せている。そのような人が過去どのような自転車に乗っていたのかが、実際にはわかるのだ。個人情報保護のために、警察はそれを明らかにしないが、何年かして請求すれば、情報公開してもらえるのだろうか。

夏目漱石が、どのような自転車に乗っていたのか、知りたくはありませんか。逆に、ビアンキに乗っている人には、どんな人がいるのか、なんていうことも、警察ではわかるのか。先日、図書館で明治時代の「警察統計書」を見る機会があったが、いずれ電子版の「警察統計書」が発行されれば、上記のようなことも公開されるようになるのだろうか。でも、誰が利用するのだろうか、きっとわたしみたいなモノ好きが、ちょっと調べたいんです、といって利用するだけだろうな。

2008/09/25

テレビと現実

昨日、A先生が宿題を送ってきた。それを片付けねば寝ることができず、結局あまり出来のよくない答案を、朝がた送って、眠り込んでしまったのだ。

起きて居間へいくと、妻がNHKテレビで、甲州ワインを取材していた、と言う。さっそくビデオを見ると、なんと1週間前に訪れ、二日間相談に乗ってくださった酒屋さんがご夫婦で出ているではないか。わたしの取材が先行したのは、わたしの勘が良かったのか、それとも、わたしの取材がNHK的であったのか。どちらでも良いことだが。

そうそうその棚の、あのワイン。やはり、テレビ取材には、ワイシャツにネクタイをして応ずるのか。説明は、わたしへ行ったものとほぼ同じだったと思うが、どういうわけか、NHKのスタジオへ持って帰ってきたものは、もっと一般的なものが多かった。たとえば、1升壜のワインなどは、テレビ映りが良いらしい。

甲州種の白ワインの系列を中心として、わたしにも勧めた「アルガーノ」の白、たぶん樽仕込の白ワイン、それから賞を得た「グレイス甲州」などが、ならべてあった。もっとも、NHKなので、ラベルが見えないようにだったが。

やはり、テレビ的だと思って感心したのは、必ずローカルにしかわからないような話題性を盛り込んでいるところだ。甲府名物の「ほうとう」の味噌煮と、白ワインが合うらしい。これは、この次の冬の期間に似つかわしい。年末の楽しみが、ひとつ増えた。そうとでも考えなければ、あの風の冷たさに耐えることはできないだろう。

2008/09/23

「一枚の絵」のこちら側

展覧会の第3会場に入って、左側をみると、インドの少年の絵がかかっていて、その奥に「村落(カジュラホ)」という題の付いた一枚の絵があった。最初見たときには、それほどの印象はなかったのだけれど、見ているうちに、なぜかものすごい絵のように感じてきた。

真ん中から右側にずれて全体の3分の1ほどを占める路地が右から左へゆったりとカーブしている。見ている側にせり出してきている。

人間が生活しているところであれば、世界中どこにでも見られる路地で、そこは石畳で作られていて、数百年間にもわたって、人が踏みならしてきたせいか、その石畳の中心線へ向かって、なだらかに凹んでいる。

見ている人は、斜めに家に沿って、路地を歩き、その村落の雰囲気を楽しめるかのようだ。たぶん、路地で隔てられた左の家が、自分の家で、大きな曲線の壁が現実をどっかりと受け止めている。壁はこの画家特有の黄色を駆使していて、壁の上部には品のいい朧な影が刻まれている。

路地を挟んで右の家が、小さいころからいつも遊びにあがりこんでいた隣の家だと思われる。三つの扉が未来の想いへ開かれているが、決して楽観できない狭さだ。やはり、現実に押されてしまっていて、細やかな将来が悲観的に描かれている。

村落には、このような基本的な2つの家と、もうひとつ奥のほうに、外界というものを象徴的に描いた、色が華やかなもう1軒がたたっている。その前には家畜がいても、何の不思議はない。家畜は、村落の重要で、基本的な構成要素である。

きわめてシンプルな3軒の家だけで、「村落」というものの基本的な姿を描写するのに十分な構成を保っている。いつかずっと昔から、どんな街へいっても、ほぼ同じ基本的な構図をみることができたような気がする。

つまりは、現実、想像、象徴の三つの世界が、黄色の世界として、しっかりと描かれている絵となっているのだ。

もちろん、他の作品も素晴らしい。壮大な「渡河」や5人の少女が違った方向へ視線を放っている「紅裳」などは、この画家の代表作だと思われるが、けれどもやはりそれにもまして、家シリーズは、他のものを圧倒していると思う。チラシにも載っていた「裏町(カルカッタ)」は、家が5,6軒描かれているのだが、水辺に建ち、黄色な壁と橙色の屋根、ドアがあって窓もある。すべて同じ色、同じ構成なのだが、全部が全部違っているのだ。家族的類似の典型例である。

また、家シリーズのなかでは、先ほどの「村落」を除けば、「民家(ブバネシュワールオールドタウン)」が良かった。ばんと、壁の黒い家が建っていて、黒い扉が存在している。明るい屋根と白い路地、奥の赤レンガ積みと石垣の落ち着きが5メートルほどある絵全体である。ほんとうに落ち着く絵である。

家というものは、人が住むものである、という当たり前のことを思い出させてくれるのだ。みんな違っていて、みんな同じなのだ。神奈川県立近代美術館葉山館にて、「秋野不矩展」。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2008/akino_fuku/index.html

P.S.秋野不矩の言葉として、作品の間の壁に、次の文章が掲げられていた。

「私は日頃思う。
頭で考えるより
体で行う中で識ろう。

インド人がはだしで
土を踏むような心で
絵を描こう。」

ということは、上で書いた「村落」の解釈は違っていたことになるかもしれない。家畜ではないのだ。その黒い牛の存在と位置がどうもおかしいと感じていた。インドでは、物語の始まりは、どうも黒い牛が動き出すところかららしい。

ということは、この絵についても、黒牛が見える「路地」こそが、この絵の中の「象徴」である可能性がある。三軒の家々は、この路地で結び付けられており、はだしで土を踏むような関係が、ここをめぐって育っているのだ。

2008/09/19

さらに欲望は高まる

止まるところを知らないのが、欲望だ。ワインも、白を頼めば、外れることはないことがわかったので、安心して、ワインを出してくれる、料理屋を探すことにする。

学生に聞いても、よくわからない、と皆が言うので、参考にならない。まだ未成年者が多いので、仕方ないだろう。そこで、駅のそばの有名酒店の二階にある「葡萄屋」に行くことにする。ここならば、1階の酒店の恩恵が外部効果として働くかもしれないと考えた

さすがに、テーブルワインでも良いものを置いてある。甲府に本拠地がある「Sadoya」の白ワイン、シャトーブリヤン・ミュールという、一般向けのものを開けてもらい、つまみとして、「海の幸のマリネ」「オムレツ」、そしてカリカリのパンを頼む。

Sadoyaのシャトーブリヤンには、年号入りの高いものもあるが、ミュールのほうはそれほど高いわけではない。甲府産セミヨン種が使われている。甲州種とは少し違った感じだ。すっきりしているのだが、香りが良く、熟成している感じが強い。

まだ、時間が早かったこともあり、広い店なのに、ほぼ独占状態だった。落ち着ける雰囲気で、カジュアルな感じで利用されているようだ。ひとりでワインを傾けるのは、すこしもったいない。

080917_174901 いよいよ、甲府の楽しい日々も最後だ。今回、時間が無くて、いつものフォーハーツ・カフェと、六曜館とは、残念ながら立ち寄ることができなかった。そのかわり、三日間一日も欠かさずに、ロッシュにだけは精勤した。相変わらない空間と落ち着きさを提供してくれていて、一日の終わりに立ち寄るには、ほんとうに最適の喫茶店だ。

080918_195801 夜、ロッシュに立ち寄ると、必ずいらっしゃる方がいて、半ズボンでちょっと発音がうまくいかない症状を持っている、近くの店主という感じの人だった。長いベンチをいつも占めて、メニューを見るなり、「ブルマン」と発声する。それが、ブルとしか聞こえないのだが、いかにも、労働のあとの楽しそうな「コーヒーの嗜み」という雰囲気で、こんなに毎日通ってくれたら、店にとってかなりありがたいところだろう。

080917_211001_2 気になったのは、このような良い喫茶店の価値がわかるのは、近くの日本人ではなく、外国から来た人びとだ。おそらく、客の半分以上を占めていると思われる。逆に考えれば、ウィンブルドン効果ではないけれども、この方がたが毎日コーヒーを飲むから、このような辺境?のところでも、このような中核的な喫茶店が育つのだろう。

半年後まで、またロッシュのコーヒーもお預けだが、この雰囲気の定常性だけは見習おうと思う。静かに、変わらず、そして強い珈琲を!

2008/09/18

クール・メディアとしての「石文」

甲府に来ている以上、もうすこし山梨におけるワインとは何かを極めたいと思って、先日話題にした、うわさの「キザン」や「キャネー」を探したが、まったく姿すらみることができなかった。

そこで昨日になって、和風スパゲッティの「楽」という店が街中にあり、、そのときの甲州ワインをグラスで分けて飲ませてくれるらしいということを聞きつけた。講義のあと、さっそく訪れるが、まだ5時で、しかも今日の夜はパーティ予約で一杯だという。けれども、すぐ退散するからといって、上がりこんでしまった。

さっそく、薀蓄を開陳していただく。白ワインの甲州種が山梨では、基本的なテイストを形成していて、赤については、どうも基本はないらしい。むしろ、長野や外国から持ち込んだ赤が流行っているとのことだ。

そうはいっても、どのような赤があるか、と突っ込むと、今年ワインコンクールで賞をとったマルスワインの「穂坂・収穫07」赤の栓を抜いて、グラスに注いでくれた。なるほど、という味だった。カベルネ・ソーヴィニヨン種&マスカット・ベリーA種で、透き通ったルビー色が綺麗で、若々しい感じのワインだ。

この店は、たらこイカのスパゲッティのバラエティがたくさんあるので、一つ作ってもらって、つまみながらお話を聞く。甲州は白だ、というのは、ご主人の話を聞いていると常識らしいのだ。ほんとうに知らないということは、恐ろしい。そこで、白の系統を聴いていくことにする。

白の辛口についての多様さが、山梨の特色らしい。同じ辛口でも、すっきりしたタイプから、ちょっとコクのあるタイプまで、この辺のところの、テイストの範囲がわかれば、甲州ワインの中核をつかんだことになるのでは、と感じた。もちろん、価格帯が異なれば、そして上を見れば限りがないので、そのことは留保しておきたいが、毎日飲むようなレベルでは、ここのところを一度は突き抜けたい。

と思っていたら、すっきりタイプの辛口で、家庭でもいつも飲めるタイプのものを、またもや特別に、栓を開けてくださった。旭洋酒の「ソレイユ クラシック」で、この透明感は比類がない。比較できるほど経験が無いのだが、なんとなくコツがわかってきたような気になる。酩酊文化のなせる業だと思われる。

白ワインはそれぞれあまり高価なものではないのだが、十分楽しめる。自転車で来ていたので、ほどほどにして、店から坂をすこしくだって、岡島百貨店を過ぎたところにある、映画館へいく。すこし酔っていたらしく、入り口がわからないのには参った。

今日は、滝田洋二郎監督「おくりびと」を観る。主演者本木雅弘をはじめ、山崎務や笹野高史などすべての俳優がしっかりした演技を見せていて、近年珍しい本格派の映画である。とくに、納棺師の行う、棺に遺体を収める儀式は、それ自体で様式美を持っていて、観ていて、いろんな情感を昇華させられる。じつに、感動的な動作なのだ。感動的と言うのは、観ている遺体の家族たちの感情が、納棺によって、区切りがつけられると同時に、おくられるのだ。この不連続の連続性が、儀式というものの本質だと思われる。

死者はそのままにしておいたら、自然のままでは、生者から分離してしまう。ところが、納棺師が遺体をきれいにして、きちんと送り出せば、それで死者は生者のなかに転移を遂げ、再び結び付けられたかのような関係になるのだと思われる。ここで、生者と生者との関係が断ち切られて、再び生者と死者の関係へ生まれ変わるのだ。

チェロ奏者が故郷に帰る、というモチーフも秀逸だ。このドラマは、山形だったが、試練を経て、チェロを山河のなかで弾き続ける姿は、どこか岩手の『セロ弾きのゴーシュ』を思い出させて、このようなチェロ奏者が、ふるさとの身の回りにいてくれたら素晴らしいな、と思った。

このアイディアは、田舎に帰ったチェロ奏者が、都市と農村の循環のなかで成長し、腕を上げていくというものだが、それだけでも面白いテーマなのだ。いずれこのような主人公も描いて欲しい。

脚本家小山薫堂氏が採用したアイディアで、向田邦子も書いているという「石文」は、たいへん興味深い。石文とは、そのときの思いを表した石を選んで、相手に渡してその思いを伝え、つぎに相手は自分の思いの石を選んで、返答するものだそうだ。

子どもは、白く丸いきれいな石を父にプレゼントする。お返しに、父は子どもにガツンと、黒く大きなごつごつした石を渡す。互いに、数十年もその石を持ち続ける。離れていった父は、死ぬときに、その石を握って離さなかった。この石は、納棺師と同様に、生者と死者を結びつけたのだ。

メディアとしての「石文」は、マクルーハン流にいうならば、きわめて「クール」なメディアだと考えられる。つまり、伝わる部分がきわめて、粗であるため、そのスカスカな隙間を、互いの想像力が補う必要があるからだ。だからこそ、通常伝わらないことも、かえって伝わるのだ。伝わる部分が少ないだけ、双方向性が密になる必然性が生まれるのだ。

あまりに盛りだくさんなので、観る人によって、おそらく切り取ってくるところは異なるだろう。名画というものは、このように多義的なものだ。石文か、チェロにもっと集中させて、死者から生者へのメッセージを明確にすればよかったかもしれない。けれども、そうすると、映画『西の魔女』のアイディアに限りなく近づいてしまうかもしれない。

2008/09/17

ワインの地域的価値

味わうということには、かなりのタフさが必要だと気づいたのは、歯の治療中だからというわけでもないし、仕事のし過ぎで胃が痛いからというわけでもない。やはり、むしろ精神的なものからくるものだった。

美味しさを味わうということは、あれかこれか、と外側からたんに比較してみせるだけでは駄目だ、という当たり前のことさえ、これまでわたしはわからなかった。美味しいのか、美味しくないのか、という二者択一で物事が判断できれば、世の中は単純だが、それはたんに、そのように考えた人の脳の回路が単純すぎるからに過ぎない。

甲府に着いた昨日、講義を終え、まず駆けつけたのは、かねてより目星をつけていた、ある酒屋さんだ。もちろんワイン専門の。というと、有名店は限られてくるのだが、駅に近い超有名店は避けて、折角自転車を借りているので、ちょっと遠出して行ってみる。

ワインについては、誇るわけではないが、ほぼ素人だ。もっとも、幕張生活の3年間で、放送大学本部の隣にある、フランス資本だった「カルフール」のワインをたくさん飲んでいたので、基本的な重さ(ボディ)や、渋み(タンニン)、甘口・辛口、香りなどの味覚は、すこし身についていたとは思われる。

けれども、甲州での経験は、ここへ来るたびに少しずつ飲んだ経験の蓄積しかない。今回のように、ヒアリングを行ってみたいとは、これまで考えも及ばなかった。

酒屋さんには、ちょうどご主人と奥さんがいらっしゃって、いくつかの銘柄を薦められる。1000円から2000円くらいが、この出張でのホテルで飲むには十分だと思ったので、それを選考基準にした。

ワインの話をするためには、ワインの味の共通感覚が存在しなければ、話が通じない。重いほうが良いのか、辛口がよいのか、系統だって、検討してくださる。つまりは、わたしの経験不足をさらけ出すことになるのだが、そこは客であることの特権を利用して、ワインの比喩的な言葉を引き出させて、理解しようと努める。

興味深かったのは、その銘柄を飲んだことのない人に対して、このワインがどのようなテイストを持ったものかを、いかに説明するのか、ということである。それは、情報を伝えるときと同じなのだ。ほかのもっと一般的なものと対比させて説明するか、それとも、類似のものへずらせて説明するか、さらには、ぜんぜん異なる味の存在を明確に示すか、ということに尽きる。

このとき、カントがいうように、共通感覚が互いに育っていれば、かなり通じやすい状態を確保できるのだ。話しているうちに、結局は言葉が尽きてしまった。となれば、あとは実際に飲んでみる段階になった。

勝沼醸造というところの「アルガーノ」シリーズの白と赤を購入して、ホテルへ戻る。白は期待していた以上の味だった。酸味がとくに利いていて、喉の奥のほうのリンパがきりきりと軋むのを感じた。この味ならば、日本酒に負けないと思われる。他方、赤のほうは、偉そうなことを言わしてもらえるならば、思っていたほどではなかった。このような言い方は決して、甲府では誰を言わなかったのでたいへん不思議だったが、この味ならば、外国のワインのほうがもっと安く手に入る。

なぜ甲府では、外国のワインと比較するというのが、禁句となっているのだろうか。それは、「美味しさ」ということの認識の違いがあるということだと思われる。単純に美味しいか、それとも不味いか、というワインへの関心の持ち方というのは、関心の範囲が大きなグローバルな判断を表しているということだと思われる。それに対して、小さな範囲でも「美味しさ」というものの判断が有り得て、その基準はかなり地域に「限定した」美味しさという考えが成り立ちうるのだ。

A銘柄の2000何年ものが、その銘柄では基準になっていて、その基準ボトルと比べると、今年のものはどのような特色があるのか、というテイストのあり方があり得るのだ。地域的なテイストは、このような「反省的な」基準の存在に敏感であることがわかった。

酒屋のご主人と奥さんの推薦には、微妙な違いがあって、共通なところからのずれがなぜお二人に起こるのかをしばし考えてしまった。それは、本人のずれではなく、わたしからの情報を得て、顧客であるわたしがどのようなテイストを持っているのかを推測するときのずれではないか、とも思われた。

2008/09/16

中間地域について

甲府に来ている。今年の夏で、早くも大学での集中講義も三年目である。1年目では見聞きしても、わからないことが多かった。2年目になって、意外にも地元のひとでも知らないことが、地域に多いことに気づいた。

たとえば、大学の職員の方に、すぐ裏にあるコーヒー屋さんについて聞いてみても、行ったことがないという、それどころか、学生さえも近くのコーヒー屋に入った人が50人ほどのクラスで、ひとりもいないとのことなのだ。

職員の方の言い方が面白かった。「通勤で家と大学との間を行ったり来たりしているだけで、途中で寄り道はしないんです」とのことである。つまり、車社会なのだ。

2年目の後期あたりから、「そんな筈はない」と思うようになった。けれども、やはり1,2年の間は、「そんな」のその内容がはっきりとはわからなかったのだ。

甲府の駅から繁華街を歩いてみればわかるように、櫛の歯が抜けるように、街のなかの専門店が少しずつ無くなりつつあり、寂れてきている。けれども、このことは地方都市であれば、どんなところでも起こっていることであり、珍しいことではない。だから、このことが「そんな」の内容ではない。

もちろん、寂れた商店街の跡地には、東横インやドーミーインが新たに進出してきていて、その周りでは、すこし活気があるようだが、ほとんどはビジネス客を集めているに過ぎず、本格的な活性化からは程遠いと思われる。

かと言って、車社会の浸透で、大型ショッピングセンターやモールやアウトレットが郊外にでき、そこでは大型のスーパーがあって、シネコンやSHINSEIDO、トイザラスが入っている。車を持っている人であれば、(持っていないのはわたしだけで、どんな人でも甲府では持っている。)郊外型の買い物行動を行っており、これも類似した都市はたくさんあり、容易に変化を想像できるだろう。だから、「そんな」筈はない、という内容は、このことでもないだろう。

じゃー何なのか、と言われても、あまり自信があるわけではないが、ほんのちょっとだけ言えることは、高齢化が地域に相当浸透していることということだ。つまり、高齢になった人びとが、市街地に戻ってくるとは思えないし、さらに大型ショッピングセンターやモールに繰り出すほど、腰の軽いはずがないということだ。

それで、たぶんという、かなり留保条件を加えたうえでの仮説なのだが、市街地と郊外の間に、中間地域が存在するのではないか、というだ。そして、不思議なことに、その中間地域というのは、さまざまなところに散在していて、まとまっているわけではない、というものだ。

昼食の時間になって、いつもはお弁当を頼むのだが、地図でみると、ちょっと変わったところに何軒か店屋があるのだ。大学の表のほうは幹線から外れて寂れてきているのだが、すぐ裏のほうは幹線でもないにもかかわらず、甲府の荒川沿いに車の通りが良いのだ。それで、住宅地でも市街地でもなく、また郊外でもなく農村でもなく、ちょうど中間に、店屋が存在する。

説明書によると、石臼を早くまわすと熱が発生するので、人手と同じスピードでまわすことのできる機械で製粉しているらしいのだが、石臼自家製粉の手打ちそば「一草庵」がある。

これぐらいオリジナリティを強調しなければならないところをみると、やはり市街地のように自然に客が集まるわけでないことを物語っている。けれども、大型ショッピングのように、規模の経済を追及するわけではないことも理解できる。ほどほどの集客力があれば、良いのだ。

それは、採算性の面から考えても、中規模を狙うのであれば合理的である。大きな資本投下も必要ないし、郊外型や市街地型よりも有利な面が数多くあるだろうと思われる。

何よりも、地域にとってメリットがあるのが、市街地と郊外とに二極化していたという断絶状態が、中間での結節点が育つことで、地域の結合ができる可能性をもっているということだ。

それには、もっと地元の人びととのつながりをつけなければならないだろう。わたしは、今年も自転車で宿舎から通勤しているが、この中間地域ならば、自動車を持っていなくとも、十分対応できる。わたしの場合は、観光客と同じ立場だが、店に入って、客たちの話を聞いていると、やはり高齢者が多いような気がする。ある程度、お金を持っていて、なおかつ暇があることが、市街地からすこし広がった地域に活力を与えると思われる。

2,3年後に、これらの中間地域がどのようになっているのか、また訪れてみたいと思った次第である。

2008/09/14

不味さの感覚

これまでに「不味い」と思った料理を思い出すのは、美味しかった料理を思い出すよりも難しいだろう。おそらく、美味しいと思った料理については、もう一度食べてみたいという継続性が生まれるのだと思われる。だから、「不味い」という記憶は、早く失われるように思える。

しかし、すべての記憶を消去しているわけではないことが、今回わかった。昨日、茗荷谷のパスタ屋さんへ入った。いつものすこし離れたパスタ屋さんではなく、駅のそばのふつうのパスタ屋さんだ。そこで、たまたま頼んだランチのパスタが、昔の記憶を思い出させた。

たぶん、ハーブ系の緑のもので味付けられた伝統的なパスタなのだ。それは、おそらくパスタの多様性を保つために、1年に1回程度メニューに上がるような珍しい種類の料理なのだが、人生で2回もめぐってきてしまったのだ。

これが、ほんとうに「不味い」のだ。今回のものには、和風の工夫を加えてあったが、このグリーン色で、口の中での「えぐい」感じの味は、なんといったらよいだろうか。世の中は広いから、この味が好きだ、と言う人も、1万人に1人くらいはいるかもしれないが、味の基本形からするとかなり端に存在する味だと思われる。

最近、にがうりが流行してきていて、この種の味覚が習慣のなかに入ってきているから、健康食ブームのなかで、この味も正統のなかに入ってこないとはいえないが、それでもたぶん、多様性の確保と相関関係にあると思われる。

思い出したのは、ロンドンのパスタ屋さんだ。10数年ほど前に、ブルームズベリー地区のB&Bに1週間ほど宿を取っていて、近くのラッセルスクエアにかつては、セイフウェイ・スーパーがあり、その並びにパスタ屋さんがあった。

ここで、いつもは名前のわかるパスタを食べていたが、そのときは魔がさしたというか、まわりにまだ客も居なかったので、メニューの端っこに並んでいたパスタを頼んでみたのだ。

このとき、ウェイターが顔をしかめたのを見逃さなければ、こんな悪い経験もしなかったのだろう。ほんとうに、身振りというのは、コミュニケーションにとって重要だと、あとで思ったが、それはたいへん遅い判断だったのだ。

やはり、出てきたのは、真グリーン色の抹茶パスタ顔負けの、草臭いパスタだった。ウェーターは、配膳するときにも、わたしの顔を覗き込んでいたが、頼んだ以上観念した。これを食べるのは、心底苦痛であった。

人生というのは、こういうものだ。むしろ、嘆くどころか、味覚のバリエーションが広がったことに感謝しなければならないだろう。これらにも、おそらく共通する「美味しさ」の要素がふくまれていて、それで「不味い」ということがわかるのだから。

2008/09/13

夏風邪

このところ、夏風邪特有の変調が出て、悩まされている。肩こり、頭痛、腰痛という三点セットで現れる。だいたいは、目のこわばりから始まるので、眼精疲労程度だと思っていると、肩こりとして貯まってくるのだ。

かつて、ドライアイという言葉が流行っていたが、最近あまりその言葉を聞かなくなった。けれども、ホームページのドライアイ関連のところを探すと、まさにドライアイが肩こりを引き起こし、さらに頭痛に通ずるのだとある。

http://www.help-dryeye.com/

このようなドライアイが原因の頭痛を、「緊張性頭痛」と呼ぶそうである。緊張性頭痛と聞くと立派な病名のようで、病気になった気になるが、まったくその通りの意味で、緊張することで頭痛が生ずる症状だとのことだ。パソコンを使うので、眼精疲労が生じ、ストレスが起こるのだそうだ。

ところが、このように原因がほぼ確定しているにもかかわらず、わたしの場合、しばしば途中で、急にこの肩こり、頭痛、腰痛が消えてしまうことがあるのだ。そこで、夏風邪説も、ドライアイ説も、ちょっと言い出すのを控えている。もしかしたら、ほんの疲労だけなのかもしれないのだ。

どういうときに、これらの症状がなくなるのかといえば、第1に、なんと映画を観ているとき、なのだ。これだけでも、目からくる頭痛説は疑わしい。第2に、人と会って話しに夢中になっているとき。とくに、集中してちょっと疲労を感じてもよさそうな緊張感ある研究会や、学生とのゼミナールになると、症状は引っ込むのだ。第3に、家族と美味しい食事をするとき。口を動かして、緊張感がほぐれるからだろうか。

というわけで、このところ原稿書きのため、すっかり禁欲していた映画を観ることにする。東京文京学習センターでの卒業研究ゼミナールを終えて、映画館へ駆けつける。やはり、頭痛を治さねば、書ける原稿も書けなくなるのではないだろうか。ちょっと弁解めいてはいるものの、きわめてもっともな理由だと思われる。

肩こり、頭痛、腰痛からの脱却ができるという小さなことではないが、映画のテーマも「蘇生」ということだった。もし自分が生き返ることができるならば、どのような可能性があるのか、ということだ。ふつうの人生では、反省作用を発揮してやり直すときに、一度しかチャンスはないような気がする。けれども、何度も反省が許されて、そのたびに新たな才能が得られるならば、人生は痛快になるだろう、という映画「ウォンテット」なのだ。

生まれ変わるごとに成長していくという教養小説の焼き直しなのだが、通常人生は不可逆的なので、決定的な傷を負ってしまうと、ふつうは反省作用が逆効果になって落下するはずなのだが、そこは映画効果によって免除されている。エンタテインメント性の十分な映画だった。この種類の映画では、以前にも指摘したシャワー効果が発揮され、肩こり、頭痛、腰痛に効けば、それで良いのだ。

この映画のなかで、生まれ変わりの秘密兵器として登場するのが、藍の温床のごとく床に掘られた風呂である。そこに蝋付けになって、静養すると、どんな致命傷級の傷でもたちどころに直ってしまう。こんな風呂があれば、肩こり、頭痛、腰痛などは、ものともしないことだろう。家にも、一すえ欲しいものだ。

結論からすれば、今回の症状は、夏風邪説でも、ドライアイ説でもなく、単なる原稿書きのストレス説が濃厚になってきた次第である。来週は、いよいよ温泉地へ行き、そこで原稿を書き、講義でたっぷりしゃべるので、この症状からは脱却したいと思っている。

2008/09/05

内部的な「似たもの」

東京目黒の庭園美術館で開催されている「舟越桂」展へ行く。すぐ前に切符を購入した、外国から来たらしい3人の高校生が、木のブローチを提示して、ドレスコード割引を請求していた。

http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/funakosi/index.html

この美術館では、陶磁器展のときにはフルーツ模様の着物、などのドレスコードを設定していて、それを示せば、料金の割引を行っているのだ。今回は、「木」で出来たものを身に着けていればよいということであったが、仕事の帰りに寄ったので、準備していなかった。

けれども、ドレスコードによる割引制度というのは、考えてみてれば、圧倒的に女性有利の制度じゃないかと思われる。明らかに、これは作為的にそうしているような気がする。今日、美術館への需要層の8割は、女性層だと思われる。女性層は価格に敏感であるから、ちょっとした工夫で、需要がぐんと伸びる可能性があるのだ。

別に、女性有利だからといって、非難しているわけではない。ただちょっと、不公平なような気がするだけだ。要するに、男性も木のブローチをつけて、美術館へ押し寄せれば良いのだが。

http://www.show-p.com/funakoshi/list/

今日の注目した点は、「似たもの」という関係性である。ふつう、似たものというのは、異なるもの同士の間での「似たもの」を意味する。たとえば、上記の舟越桂ホームページにある、作品リストで2003年「水に映る月蝕(A Lunar Eclipse on the Water)」の女性と、2004年「言葉をつかむ手(Catching Words with Hands)」の女性は、細身の体形、頭の小ささ、髪の毛の形、さらに目つき、いずれもほのかな美しさを醸し出していて、似ている人物だ、と思われる。けれども、異なる彫刻なのだ。二つの別のものが比べられて、「似ている」ということがいえる。

ところが、2002年「雪の上の影(The Shadow on Snow)」では、一つの身体から二つの頭が出ていて、これらの二つの顔はやはり似ている。同じ身体を持っていて、二つの顔があって、これらは「似ている」と言ってよいのだろうか。

さらにいえば、同じ顔のなかで、左右で「似ている」ということはある。このことは、当たり前のことなので、見過ごしてしまうのだが、たしかに鼻の中心線にしたがって、縦に分けてみると、その左右の半分ずつはかなり「似ている」。

けれども、眉毛を比べてみると、微妙に違っている。右は勇ましく跳ね上がっているが、左は自信無さ気に下がっている。右目はらんらんと戦争を闘うぞ、と言っているが、左目は平和な様相を湛えていて、闘っている人間を見下している。玄関を入って、すぐ左に展示されている2005年「戦争をみるスフィンクス(The Sphinx Sees War)」では、同じ顔のなかで、一つ一つの目や耳などの造作は異なるが、全体としては左右が似ている顔が造られている。

「似ている」ということは、比較することの無い一つのもののなかでも、つまり内部的に「似ている」ということが成り立ちうるのだ。昔、老練だと評判の雑誌編集者と会ったときに、右目で笑って、左目で相手を品定めしている顔に出会ったことがある。これほど、人間の身体は、分裂していると同時に、同一のものであるのだ。

作品の中では、2003年「夜は夜に(A Night Will Stay)」に、このことがはっきり出ていた。わかりやすくするためだったのだろうか。頭に角が二本生えていて、右の角と、左の角が、異なるのだ。片方は鋭いが、他方は欠けてしまっている。それでも、左右の顔は、異なっているにもかかわらず、「似ている」のだった。

自分の身体(あるいは、自分自身)に関する認識が、舟越作品を見ることで、より深まった気がする。自分のなかに、もうひとりの「似たもの」が存在することがようやくわかった気がする。

それから、今回の彫刻では、量感ということが大事だと思った。人物の横に回ってみると、人間の顔というのは、意外に厚いものなのだ。「似ている」と言ったときに、厚み、深み、高さ、そして重さというものが、この似ていることの重要な要素になりうるのだが、ちょっと一つぐらいならば、異なっていても「似ている」ということが成り立ってしまうことがわかる。

このほんのちょっとした微妙な違い、つまり「異なる」のか「似ている」のか、というバランスを、作家は描き分けることができるのだ。この微妙な画定線については、すべての人のなかにあるのだが、共通の認識のものとして、彫刻家は線引きができるのだと思われる。この共通の画定線が、美しさということの一つの要素なのかもしれない。

2008/09/02

対話の基本形

Sさんが学習センターの研究室を訪ねてきた。学習センターの機関紙について、ちょっと話し合いたいと申し入れがあったのだ。話は有益なことで、互いにたいへん楽しく話すことができたと思う。

ここで書いてみたいのは、じつは話の内容ではなく、Sさんとの話の作法についてである。これまで何回か描いてきた「放送大学らしさ」ということである。今回もそれを感じた。「放送大学らしさ」というのは、どういうところで出てくるのだろうか。

ひとつは、このような話し合いの場面で表れる。ひとつの側面から見ると、明確に合理的だとも思われるが、他の側面からみると、いわば納得づくの非合理性が表れているのではないかとも思われることが起こるのだ。

ポイントを明確にして、話し合いに臨んで来る人が多い。もちろん、個人差があるのだが。それと同時に、こちらの反応を見ながら、出方をはかりながら、ときにはすこし大げさに賛成したり時には大いに反対したりというやり方で、話を進めるのだ。

社会では常識的だと思われるこのような話し方は、一般の大学ではあまり見られない。この差は歴然としていて、何かを頼みに来たり交渉したりするときの身構えが異なるのだ。つまり、社会における話し合いには、常識的な基本形があるのだが、一般の大学では、まだ社会に出たことのない学生に対して、このコード規則を適用することはあまりしない。大目に見ているような気がする。

これに対して、放送大学の学生の場合には、(1)最初にテーマを決め、(2)意見を互いに出し合い、さらに(3)最終的な合意点を必ず探ろうとする。この三点は最小限はずさない。Sさんの対話の仕方を見ていると、その形式に則っている。もちろん、この基本形をはずす学生も多いが、そこが違うな、と思われるのは、はずしていることを知っているのか、知っていないのかという自覚が、放送大学生にはあるのだと思われる。

そのことは、最後のところへ到達できるかどうか、というときに決定的に表れる。基本形をはずしていても、そのことを知っているのであれば、ほぼ最終点まで到達できる。けれども、闇雲に基本形をはずしている場合には、到達点を探ることはほぼ絶望で、話し合っていて、無力感を感じることになる。

ましてや、対話では、基本形をわざとはずしてくることは、日常茶飯事である。けれども、だからこそ、基本形の存在が貴重になるのだ。どの程度はずしているのかを比較推量しながら、話し合いや対話は進むものだからだ。

Sさんのあと、Kさんが見えて、いつものように夏の期間に収穫した論文の題材やら、展覧会や音楽会の情報やら、雑談をして帰っていった。雑談だから、筋が無いようにも思えるが、あとで考えてみると、やはり文脈を通じさせようとしていたらしいことがわかる。この辺の感覚には、社会人特有の鋭いものがあると思う。この感覚に鈍感だと、放送大学の特性を見逃してしまうのではないかと思われる。

さて、Sさんとの間で確認したことが、周りめぐって、(おそらくその多くは潜在的に表れるのだろうが、)どのような形でセンターだよりに反映されるのか、楽しみに見守りたいと考えた次第である。

2008/09/01

ワインを夢見て

再来週は、いよいよワインの国へ出発だ。すこし気が早いとは思ったが、旅行会社へ行って、切符を買ってきた。とはいっても、集中講義なので、遊び心は失わずにしっかりと持ちたいが、やはり中心は講義なので、行動には制約はある。

9月のJR正規料金で、行きと帰りの特急料金が異なることのあるのをご存知でしょうか。ちょうど夏休みの閑散期から、その滞在期間の間に抜けるために、その差額が出るのだそうだ。

ということで、気持ちは早くも甲斐の国へ向かいつつある。これまで何回か甲府には滞在しているが、あまりにも素晴らしい喫茶店があるので、コーヒーのほうへばかり目が行ってしまい、なかなかワインにまでは気が回らなかった。

けれども、お土産として買って飲んでいたワインが、横浜で一般的に売られているワインとは、何処となく違うのだ。嗜好品文化を勉強するものにとって、今回はすこしワインにも目を向けようと考えたしだいである。

調べてみると、甲州をめぐるワイン文化には、現場だけあって、濃密なネットワークが築かれ、面白い構成を見せていることがわかった。嗜好品が結ぶ人と人の関係は、ワインでも典型的な盛り上がりを見せている。

第一に、季節性が重要だ。人間関係の結びつきについて、一年のうち濃淡があるのが面白い。第二に、中小のワイナリーに勢いがある。キザン、キャネー、イケダなどなど。第三に、自動車の発達が、ワイン消費者をかなり普及させたらしい。直接ワイナリーを訪れて、ケースで購入していく顧客がかなりあり、需要層が都会以上に育っているらしい。

季節になると、「完売」という文字が、酒屋さんの店先に並ぶのだそうだ。ということで、現地を訪れるからといって、必ずしもすぐに美味しいワインにありつけるわけではないのは残念だ。ともかく、山国では、自動車に乗れないということは、基本的な生活ができないことを意味している。それは、先日の大町でも、痛感したところだ。ワイナリーを訪れるには、自動車は必需品らしい。この点でも、わたしは美味しいワインには到達できないだろう。

だから、結局はいつものことだが、想像のワインを飲むよりないだろう。ところで、さきほど記者会見があって、福田首相が辞任した。首相夫人は、ワイン通で鳴らした人だと聞いている。先日の洞爺湖サミットでも、甲州ワインが出されたらしい。ところで、要らぬ節介かもしれないが、今晩はどのようなワインを飲むのだろうか。

ひと言付け加えるならば、総辞職というよりは、もうすこし我慢して、解散・総選挙を行って欲しかった。(現在の支持率低下と景気下降のもとでは、難しいが)推測であるが、むしろそうすることを近い将来に予想しての辞任なのかもしれない。自民党という組織温存のための辞任劇という感じが否めない。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。