« 旧盛岡高等農林学校の建物 | トップページ | 夏祭り »

2008/08/22

夏の終わりに

今日は日中から涼しくて、いよいよ夏の終わりが近づいたのではないかと思われるくらいだ。機が熟したように、我が家では、恒例のトランプ大会が開かれた。いつ行われるのかは決まっていないのだが、おおよそ夏が終わりになる頃、誰ともなく言い出して、開かれるのが定例となっている。

子どものころの田舎生活では、トランプを行うのは、暮れと正月の時期と決まっていたが、結婚してからは田舎の風習は踏襲さえず、むしろ夏にトランプ大会が開かれるようになった。たぶん子どもたちの受験との関連もあったためだと思われるが、そのような時期も過ぎ去って、自由に開催できるようになっているのだが、やはり習慣というのは不思議なもので、毎年の収穫祭みたいに、この時期に開かれているのだ。

トランプを家族で行う習慣がわたしの身についたのは、考えてみれば、1歳以前からだった。信州の大町に祖父が住んでいて、夏季と冬季にはかならず、彼の娘たちに連れられて、わたしたち孫たちが勢ぞろいした。

大人たちが料理を作ったり、仕事で忙しがったりすると、子どもたちの相手を祖父がしてくれて、仕事では結構厳しかったのではないかと思うが、このときばかりは顔が緩んで、笑みで満面になるのが楽しかった。このような大家族制のシンボル的な団欒がトランプ大会の思い出だった。

家族員が少なくなっても、結婚して核家族になってからも、トランプを行えば、家族が一堂に会して、会話を楽しみながら、ゲームを行うことができた。ときどきは勝敗に一喜一憂することもあったが、多くは団欒を楽しむための時間であった。

米国の政治学者パットナムによれば、米国では、友人たちとカードゲームを行って、インフォーマルなコミュニケーションを保持しようとしたらしい。トランプゲームには、会話をするにもあまり緊張感はなく、手軽に楽しむことができた。

けれども、1960年代までは、友人とトランプをすることに重要な意義があったが、70年代以降、にわかにこのような傾向が低下してきたことが、指摘されている。ちょうど、欧米では転換点にあり、リストラ旋風が吹き荒れて、フレキシブルな労働形態が広がり、非正規労働が増大していたころだろう。仕事も忙しくなり、近代社会の浸透は米国に、友人関係の深刻な衰退をもたらし始めていた。

やはり、トランプゲームの良いところは、友人や家族が「一堂に会する」(一堂といえるほどの部屋が我が家にはないのが残念だが)ところにあるだろう。会話を楽しみながら、みんなの様子をそれとなく窺い知ることができるところだ。それでどうにかなるわけではないのだが、元気さとか、調子の良さとか悪さとか、何か遭ったのか無かったのかとか、という無言の「こわばり」を感ずることができる点だと思う。

「こわばり」をほぐすところは、すこし「バカ」のできるようなところしかないのではないかと思う。チェスタートンが「この世でもっとも狂えるところ」と敬意を表してよんだようなところが、夏の終わりになるころには、無性に必要となってくるような気がする。

« 旧盛岡高等農林学校の建物 | トップページ | 夏祭り »

家族関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/173786/42242852

この記事へのトラックバック一覧です: 夏の終わりに:

« 旧盛岡高等農林学校の建物 | トップページ | 夏祭り »

『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

  • “「貨幣・勤労・代理人」"

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。