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2008/08/31

8月の終わり

ついに、8月も終わりだ。神奈川学習センターでも、この時期には、試験も終わり、面接授業も終わり、さらにみんなの顔が揃うフェスタ・ヨコハマも終わってしまう。授業はもちろん行事も、何もないので、学生の姿もちらほらという状態だ。

とくに、今年はトイレの改装工事のために、昨日までは掘削機の音がかなり激しかった。工事の方々も身体へのたいへんな負担があるようで、夕方になると疲れた様子を見せているくらいだ。今日の日曜日は、さすがに工事もお休みということで、久しぶりにここ数ヶ月無かった静寂を取り戻して、ほんとにうら寂しいほどのセンターだった。

ということは、勉強にとっては、今日は穴場的な一日だったと言えよう。今日一日中、「実践(practice)」という言葉を追いかけて遠い旅を始めてみた。

最初は、哲学の道に従って、アリストテレスの「実践・制作・観照」から始まったのだが、やはりプラトンにも帰ってみなければならなかったりして、なかなかカント、ヘーゲル、マルクス、というようには、とんとんと進まない。原典の場所を見つけ出すのだが、このようにたいへん有名な語句であっても、そううまくはぴったりとそのページが見つかるわけではない。

すべての実践論が毛沢東のようにわかりやすく書いてあれば、すぐ理解できるのだが、そう都合よくはなっていない。現代的で、すっと入ってくるのは、やはりハイディガーだろうか。でも、実践以外のところに進むと、壁に当たったように、まるで無味乾燥に思えてくるから、不思議である。

あーでもない、こーでもないと一応全部を読んでわかったかのような錯覚に陥ったので、これ幸いとばかりに、もうすこし幅を広げていく。実践するためには、目的と技術が必要で、議論は当然のように、知識あるいは理論と、実践との関係に入っていくことになる。保守主義の陣営からは、ハイエクやオークショットが参加してくるし、革新主義からはケインズやハバーマスも加えなければならないだろう。折衷的なところでは、マンハイムが位置を占めている。プラグマティズムもはずすわけにはいかない。ブルデューも参加させなければ、と書棚を探したが、他の本はでてきたが、実践についての本は生憎持っていなかった。

さらに読んでいて気づいたのだが、H.アレントは、「実践・制作・観照」ではなく、「活動・労働・観照」としている。なぜなのだろうか。このずれは、なにに由来するのだろうか。こうなってくると、以前わかったと思い込んでいたことが、にわかに疑わしくもなってくるから面白い。

実際、本を読むときに、その背景となる文脈というのは、ほんとうに大切なことなんだと思う。文脈がちょっと異なるだけで、言葉の意味さえも違ってくるのだ。逆に言うならば、同じところをまた読んでみると、また違って読めるという、よく経験することを再認識したまでのことなのかもしれない。

神様が与えてくれた静かな今日を、きわめて衒学的な自己満足の一日として過ごさせていただけたことには感謝しなければならない。さらには、単なる衒学ではなく、印刷教材の原稿に結びつくことを願うばかりである。このような精神の小旅行は、夏の終わりの人気のない学習センターでの出来事としては、たいへん似合っていたと思われる。

それはそれとしても、そもそも「観照」に浸る一日になるはずであった今日なのだが、どういうわけか「実践」を追う一日になったのは、なんとも皮肉な結果なのかもしれない。

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