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2008/07/11

「西の魔女」の魔法とは何か

映画「西の魔女が死んだ」を2週間ほど前に観てきた。けれども、本を読んで確かめたかったことがあった。

それで、娘が本を持っているというので、貸してもらおうと待っていたのだが、結局友人に貸してしまったところ、戻ってこないということがわかり、最後には、自分で購入することになった。

どこを確かめたかったかといえば、この映画のリアリティがもっとも現れていたところである。それは、主人公まいが、不信を募らせすぎて、英国から帰化したおばあさんがまいの頬を打つ場面である。これは、てっきり映画的現実なのではないかと思っていた。つまり、本には書かれていないのではないかとわたしは直感的に考えたのだ。

ここで「頬を打って」いれば、普通の成長的教養物語であれば、感情的に直接分かり合ってしまって、それで物語が終わってしまうからである。ところが、これは間違っていた。この小説は違った筋を見せてくれるのである。そこが極めて感動的なのだ。

本のなかでも、まいは隣人のゲンジの挙動を疑い、人物を邪推し、果てに「妄想」に至ることになって、ついにおばあさんは対抗して、感情的な対処を行っているのだが、その辺の微妙な感情のやり取りが興味深い。

この感情的な妄想合戦の果てに、こだわりを残したまま、二人は別れてしまう。そして、最後に、これらを劇的に解決する、有名な場面が用意されることになるのだ。

終わってみれば、不確実で、真相のわからない「現実」(まいにとっては、学校に行きたくないという現実、ゲンジとの葛藤という現実など)と、膨らんでどうしようも無くなる「妄想」(他者への妄想が進みすぎる想像)と、さらにそれらを解決に導く、状況から脱却することのできる、奇跡的な「象徴」とが描かれ、いつものように、三つの世界が成立することになっている。

死を乗り越える方法が、こんなに身近なところにあるとは知らなかった。これが映画を観終わっての感想であった。このことを考えることができるのは、やはり「魔女」だけであろう。ところで、日本語にはなぜ「魔女」はあるのに、「魔男」はないのだろうか。語感があまりに現実的すぎるからなのだろうか。

たしかに、魔女になるための修行というのは、現代的で豊かな感じがするが、魔男になるための修行は、なんとなくおどろおどろしくて、ストイックで貧しい状況で行われる感じがする。魔男の物語でなく、「ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ へ」の物語でほんとうに良かったと思う。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。