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2008/07/19

透明な「ポニョ」の話

またまた、「透明」の話で恐縮するが、現代の主たる活動が透明にできているのであれば、そうなるのも仕方がない。

映画「崖の上のポニョ」がついに公開された。かつて、ポニョのような女の子を育てた父親経験を思い起こすべく、卒業研究のゼミを終え、同僚のY先生との興味深い雑談も十分に堪能した後、映画館へ駆けつける。

隣の席に、3歳くらいのかわいい女の子を抱っこしたお父さんが座っていて、あんな時代もあったと思った。でも、うちの子はあんなに静かに座ってはいなかったけれど・・・。抱っこされてはいるものの、空気のように黙って、向こうとなりの席とお父さんの膝とを無限振り子のように行ったり来たりしていた。

なぜポニョの物語は希薄さが占めているのか、といえば、それは明らかに透明性の物語を描いているからである。宮崎監督が、海の水の圧倒的な絵を描く、といったときに、それは必然的に透明な世界の物語になるだろう、という予感があった。

だから、いつものように、何か劇的な冒険や、勧善懲悪の世界がそこに現れることはおよそあり得ないのはわかっていた。海の水に没した世界は、透明性が支配する世界なのだ。

だから、アンデルセンの「人魚姫」のように、ポニョが人間になりたい、と言って失敗したからといって、泡になってしまうことはない。まだ5歳の子どもの世界では、泣き出したくなるほどの恋愛劇も存在しないのだ。

あるいは、モーツアルトの「魔笛」のような、女王親子の葛藤も、存在しても描いて見せることはないのも、不思議の世界だからだ。親からの自立劇のなかでは親は「悪者」として現れるかもしれないが、ほんとうの悪者は存在しない世界なのだ。ポニョが赤ん坊から5歳の女の子に発達するのは、ポニョ自身の欲望がなせる業にしてしまっている。

これじゃ、希薄にならざるを得ない。斉藤環氏が「女性は存在しない」というラカン-ジジェク仮説で、女性の本質は存在しないけれども、表層にある、肉体から解放された身体としての女性は存在するのだ、と言っていることと、ポニョの現実は相応している。

ポニョは、金魚になったり、鳥になったり、人間になったり、変幻自在である。唯一ポニョの同一性を明らかにしているのは、着ている赤い服だけだ。これは、水にも濡れないし、身体に合わせて伸縮自由だし、水の透明性のなかで、これだけが確実に反抗し、水の世界と、水のない世界とを媒介している。

女の子としてのポニョが大人になれば、きっと現実的な象徴である「リサ」のような女性になってしまうのだろう。ポニョの物語は、やはり儚い女の子の、泡のように透明な、それだからして、きわめて現代的な物語なのだといえる。

映画にはその意図がうまく現れていなくても、その本質を描こうとした心意気だけは良し、としたい。それにしても、いつもながら、住んでみたいなという家を綺麗に描いているなー。

(映画の公式サイトに、今回コメントした画像がたくさん載っているので、どの場面かを想像しながらもう一度観ることができて楽しい。http://www.ghibli.jp/ponyo/

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。