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2008/07/03

映画「ぼくの大切なともだち」

ルコント監督の映画「ぼくの大切なともだち」を観てきた。幕張からもっと早く出られると思っていたが、仕事が次から次に生まれてきて、それは見事に連鎖を繰り返して収拾がつかなくなってきた。ほんとうは、前の回を観るつもりでいたのだが、結局最終回へ駆け込むことになった。

幕張から渋谷へ出なければならなかったが、いろいろの道筋が考えられることがわかった。結局は、新木場から有楽町線に乗って、永田町から半蔵門線で到達するのが、もっとも速くかつ安く出ることがわかった。ちょうど1時間であるが、予告編の時間へもぐりこめれば良いな、という心積もりだった。

ルコント監督のものは、かなり彼の「作為」ということがあって、おそらくその人為性についていくことができる人は、かなり変わった人だけかもしれない。最初の状況から、かなり無理をして、周りを作っている。

今回も、最後までどうしても馴染めなかったのが、なぜ誕生日会にまで出席する人たちが、こんなにも彼に対して冷たいのだろうかということであった。こんなに淡白な付き合いならば、ふつう誕生会には呼ばないだろう。ましてや、1年後に何もなかったかのように、集まるという状況は、ほんとうに最初はわからなかったのだ。

骨董屋のフランソワが友人のあまり居ない顧客の葬式に出るシーンから、物語は始まる。その話を誕生日会でして、仲間たちから「お前の葬式には誰もでない」と言われてしまう。意固地になって、親友を仲間のみんなに会わせるというゲームの賭けを行うことになる。たまたま知り合ったタクシー運転手のブリュノとの、親友探しの10日間が進行していく。

問題の核心は、やはり仲間である友人と、「親友」との違い、ということではないだろうか。誕生会での仲間が冷たい態度を表すのも、親友ということを際立たせるためにそうしたとしか、解釈できないだろう。

それじゃ、ルコント監督にとって、親友とは何かといえば、映画のなかで使われていたサン=テグジュベリの言葉「僕は君のたった1匹のキツネ」ということだと思う。キツネはたくさんいても、そのなかでどうしても馴染みのただひとりの存在ということがあり得るということだ。馴染みになる方法、過程はそれぞれ異なっているのだが。

友人だけだったら、起こり得ないことが、親友だったら、それが起こってしまうという不思議な存在なのだ。新しい世界が見えてきたり、古いものを再認識したりということが生ずる。この映画では、その本質的なところにだけ、神経を注ぎすぎたために、周りのことを描くのがすこし疎かになってしまっていたのは残念だった。女友達との関係は、もっと微妙なことが起こるに違いないのだが、特殊な関係で隠蔽してしまったので、物足りなかった。友人と、恋人とのちょうど中間に位置しているのが、「親友」という関係だと思われる。

この関係は、ふつう友人関係を支えたり、家族の関係を保持したりするのに役立つものなのだが、ちょっと間違えると、この両方の関係と敵対関係に陥ってしまうこともありうる。この意味では、親友というのは、諸刃の剣であり、危険な関係であり、なかなか手放してしまうわけにもいかない関係である。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。