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2008/04/22

バーボン・ストリート・ブルース

高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』がちくま文庫から、4月中旬に発売されたので、さっそく大学生協から買ってきて読んでいる。6,7年まえに単行本で売られていたのだが、買いそびれてしまっていたものだ。

それで、3年前に彼が亡くなったときに本屋を探したが、見つからなかった。彼の歌を聴いたことのない人が読んでも、たぶん面白いところがあるし、また、他の詩人の書いた詩の解釈が独特なので、歌ごころのある人ならば、興味を持って読める本だと思う。

買ってきて、その日にテレビのチャンネルを変えていたら、契約していないのでほんとうは映らないはずのチャンネルが入ってきて、ちょうど高田渡が歌っていた。37年前のフォークジャンボリーを思い返す番組だそうだ。

最近の映像では、かならず彼の酔った姿を映すことで面白がらせていたのだが、そのライブでは珍しく酔っておらず、眼が輝いていた。マンドリンなどの伴奏を努めるのは、「バーボン・ストリート・ブルース」というアルバムを1977年に出したときの仲間であったと記憶しているが、佐久間順平(?)だ。

高田渡は、歌を唄って、しかも生きるという姿勢が鮮明な歌い手だと思う。この本のなかで、一番好きな言葉は、「歌というのは古い家だ」というピート・シーガーの言葉だ。

住めば住むほど愛着が出てくる古い家のように、唄えば唄いこむほどに味が出てくるのが歌である。誰が住んでもよいが、受け継がれていく中で価値が出てくるのが家であるように、同じ歌であっても、時間が経ったり歌い手が異なったりすれば、別の歌に変わっていく。そのくらい、歌い継がれた古い歌には、なにか普遍的なものがある。

「その歌はみんなが知っている。誰でも知っている。だけど誰がその歌を作ったのか、最初に誰が歌ったのかは、誰も知る人はいない。ただ歌だけが今も流れている。」というシャンソンがあるそうだ。

人がおとなになるときに、何によって大人になるのか、というのは、その人の一生を左右する問題だ。彼の場合には、明らかに歌を唄って大人になったのだ。唄うことで自分を見つけたのだ、ということを率直に伝えようとしているのだと思われる。

だから、他の歌い手と明らかに違う点は、唄うことが生活の重要な部分になっているということにある。

この本には、彼の最初の仕事が文選工であったと書いてある。印刷の活字を拾う文選工の仕事自体は、面白く、仲間との協働もうまくいったらしいが、それでも彼が自分を見つけたのは、歌を唄ってからであると思われる。

生活とはなにか、ということをよく考えさせられるが、わたしの場合、高田渡的な解釈が最も合っているように思われる。彼が山之口獏の「生活の柄」に曲をつけたものだが、口をついてつい出てしまうほどの、厳しいがしかしロマンチックな特徴を持った生活というものの「描写」だと思う。

歩き疲れては 夜空と陸との
隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
所かまわず寝たのです
歩き疲れては 草に埋もれては寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです

近ごろは眠れない 陸をひいては眠れない
夜空の下では 眠れない
ゆり起こされては 眠れない
歩き疲れては 草に埋もれては寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです

(後略)

歩き疲れること、そして、夜空と陸との隙間にあって、寝たり眠れなかったりすること。これが生活だ。この夜空というのが、とてもいいんだな。夜空だから、陸との隙間ということに、意味があるんだな。

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