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2008/04/15

「無」という現代

最近、酒の席で、団塊世代の方が、最近の若者は・・・とやりだして、この世代に近い世代としてはそういう年代になってきたことを自覚した。

とは言っても、これまで何回となく、言われる側であったものが、いざ言う側になっても、繰り返すことだけでは説得力もないし、意匠の問題としても芸がない。

文芸批判家と本の前書きにあるのでそれを踏襲するが、その文芸批判家Y氏が『日本語のゆくえ』光文社刊という東工大での講義録を出版した。その最後のほうで、現代若者論を書いている。

かれらの特徴は「無」という傾向を見せるところにある、と論じている。30冊くらいの詩集を材料として取り上げ、その共通する傾向が「無」だというのだ。

ちょっと孫引きさせていただくが、Yは水無田気流の「非-対称」という詩を取り上げている。

(前略)
ココニアルモノハココニアルハズガナク
ここにあるものをここにながめながら
延々とエオスの登場を待つ

たとえば
立ち並ぶ
看板のネオンサインのように

たとえば
孤立する
駐車禁止標識のように

たとえば
組み替えられる遺伝子情報のように

たとえば
移植される
人体臓器のように

たとえば
タトエラレナイケレドモ
この先の地軸を支え
夜更けの路上に立ちのぼる
君の
長い長い蒸気のように

このように、分離されたものの不在、孤立したものの不在、流れ去ってしまいそうなものを詠むなかで、その奥底には「無」という共通テーマを持っていて、それが表出されてきている。

現代若者を取り上げることには、一度は言われる側であった者にとっては、その取り上げ方が問題になると思われる。Yの論じ方に新鮮さを感ずるのは、否定的な「無」を指摘していく中で、「否定の否定」は「肯定」である、というような、たとえばであるが、そのような論じ方ができることが示唆されているからである。

「無」ということは、やはり何もないということだから、特徴付けて「無」の存在を表現する場合の、その論じ方が問題になるのだと思われる。「無」というのは、変な「在る」よりはいいよね、けれども、それが全体を覆うようになって、すべてが「無」になってしまうのは、やはりおかしいよね、という論法である。

大学で講義をやっていて、ひとりふたりが眠っているのは静かにしている限りむしろいいことじゃないか、でも、全員が眠ってしまうのはおかしいよね。

ちょっと演習問題として、この論法を応用してみたのだが、どうも瑣末な結果になってしまった。やはり、二番煎じは詰まらない。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。