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2008/04/12

「氷山の一角」としての自分

きょうは、大学院のオリエンテーションが幕張の附属図書館3階で行われた。

今年はめぐり合わせで、研究情報を説明する当番に当たっていた。コーディネーターのF先生が挨拶を行って、研究指導について説明した後に、20分間の時間が与えられた。

そこで、文献の探し方を中心にして、おおよそ次のようなことを喋った。論文を書くといういうことは、「氷山の一角」を形成するようなものだ。所詮、書くことには限りがあるのだから、氷山全体をあらわにすることはできない。けれども、たとえ氷山の一角であっても、隠れている全体の潜在性を示唆する文章や文体を著すことはできる可能性があるだろう。

先日も、ある学生の方で、修士論文提出の1ヶ月前までは、冴えない文章を書いていた人がいて、明らかに他の人と比べて評価できない仕上がり具合だった。ところが、その後は書き直すたびに、ぐんぐんと文体が磨かれだして、ついには他の人よりはるかに仕上がりの良い論文を作成してしまったのだ。良い論文かどうかは、本人の目よりも、傍目に分かるものなのだ。

なぜそうなったのか、考えてみたが、いくつかの原因があったと思われる。最後の1ヶ月というのは、将棋の棋士にとってみれば、勝負の「持ち時間なし」状態なのだと思う。

それまで眠っていたものが、突如として起き上がってきたのだと思われる。眠っていたものが、その人本来の才能なのか、それともそれまで蓄積されてきた他者の議論なのか、それはわからないが、それらが総合されて、あるいは結合されて一気に出てきたことだけは間違いないだろう。

とするならば、「持ち時間なし」状態でも、力を出せることが、論文を書く場合には必要であるということになる。つまり、通常の自分というものは、本来の、あるいは蓄積して膨れ上がった「氷山」の一角にすぎない、ということではないか。火事場のバカ力のような、氷山全体の力の出せるような状態に持っていくことが、研究ということの共通の使命ではないか、と思う。

とにかく、これから約2年間のお付き合いになるのだから、なんとか良い関係を築き、参加者の方々の「氷山」を発掘調査してみたいと考えている。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。