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2008年3月に作成された投稿

2008/03/31

終わり名古屋

ついに出張も最終日となってしまった。昨日降っていた雨も上がって、すこし寒いくらいの良い天気だ。昨夜からメールが頻繁に入るようになって、年度末の忙しさがこんな出張の身にも降りかかってくる。

080330_124402 朝の早い時間に締め切りの仕事を済ませて、早々に名古屋大学へ向かう。やはり、土日の大学とは違っていて、月曜日になると、人も多い。お昼になると、生協の学食もいっぱいのようだ。

旅行者の勘を働かせて、近くにある喫茶店を探ることにする。地下鉄で1回乗り換えはあるものの三つ目の「いりなか(杁中)」には、コメダ喫茶店発祥の店がある。道からすこし引いたところに、ひっそりと新しい店があり、こじんまりと営まれていた。

けれども、きょうは上記とは反対側の本山駅へ歩いていくことにする。名古屋には、戦災で街が焼けたせいか、古い寺が少ないが、この道すじには大きな寺があったり、緑の多い並木道があったりする。

今風のしゃれた店が並んでいて、十分な散歩道である。しばらくして、下り坂になるころには、本山の町並みに、建物たちも吸収されていく。坂道の最後のころに、目的の「西原珈琲店」がある。

080331_113901看板には、神戸の豆を使っているとある。また、名をつけたブレンドが数多くありそうなので、期待できるだろう、と店に入ることにした。なかは、木肌を焦がした板で、真っ黒に統一された落ち着いた雰囲気の店だった。

それぞれの席がブースのように、ゆったりと設けられていて、長居しても大丈夫なつくりになっている。昔ならば、学生街にかならず1軒はあったような店だが、いまでは、チェーン店にやられてしまって、なかなか存在しないタイプの店だ。

ここで、マネコという人のブレンドした珈琲をいただく。昼食はベーコンとトマトのサンドウィッチだ。昼近くになると、なにやらノートを取り出して、仕事や勉強を始めそうな人びとがつぎつぎに入ってきた。

080331_115201喫茶店は、むかしは場所そのものであり、長居してそこで何かを行う場所であったが、その雰囲気を受け継いでいる。珈琲の値段はちょっと高めだったが、場所代だと思えば、仕方ないだろう。なによりも素敵だったのは、写真にも写っている使い込まれた黒いテーブルだ。このしっかりしたテーブルこそ、喫茶店を特徴付けるものだと思われる。

昔、通ったブラック・ホークの厚板のテーブルを思い出してしまった。珈琲が人びとを集めるのか、みんなが集まるから珈琲が流行るのか、それは相互関係にあるのだ。

グールドのバッハがかかっていて、お昼だけではもったいない気がした。このような店があり、図書館にふんだんに通えるのなら、名古屋にもう1週間は居たかった。

図書館へ戻って、肩こりが激しくなったころ、そろそろ横浜に帰る時間を自覚した。やり残した資料収集は、またの機会を作って行うことにしよう。明日からは、新学期が始まる。頭の中を切り替えて、日常へ戻ることにした。

2008/03/30

アール・デコ

アール・デコ様式が、日本ではあまり定着しなかったことは、大正文化のひとつの特徴であったと思われる。もちろん、日本で作られていなかったわけではなく、輸出用にはかなり発達していたらしい。商品文化として取り入れられていたにもかかわらず、日本では短期間しか定着しなかったというところが、大正期の特性であると思われる。

080330_165401 今回の名古屋出張での、最後の目的は、明治・大正期の「NORITAKE」、オールド・ノリタケを観ることにあった。名古屋大学での資料収集を3時に切り上げて、名古屋駅から地下鉄で一つ目の「ノリタケの森」を訪れる。

ここにノリタケのミュージアムがある。製造過程を見せるクラフトセンターの3階と4階が展示場になっていて、明治期から大正、昭和の典型的な磁器が集められている。

明治期のオールド・ノリタケは、原色を使い、さらに金を多用したもので、すこし毒々しい。当時の海外の上流階級の趣味を反映していると思われる。けれども、明治期の終わりころから、日本で独自に試みられたと見られるデザインがぞくぞくと現れてくる。

それらと並んで、アール・ヌーボーや、アール・デコのデザインが展示されていた。近代的なシンプルなデザインのものもある。きれいなブルーに梅のピンクがあしらわれたディナー・セットは、なかでもとりわけ素敵だった。

080330_214501 ちょうどアール・デコの棚に、お目当てのデザインのカップ&ソーサーと大小のお皿が展示されていた。先日、芦屋で建築を拝見してきた、フランク・ロイド・ライトが原画を描いたものだ。当時、同じくライトの設計になる帝国ホテルのシアター・レストランで使われていたものだと、ホテルのかつての料理長村上信夫が雑誌「食卓読本」で紹介している。

つまり、生産のほうは、海外の求めに応じて、盛んに行われたのだが、それが日本に帰ってこなかったということだと思われる。文化として、反省作用が生じなかった。ここが致命的だったのではないだろうか。

展示物は撮影禁止だったので、すこし色は違うが、雑誌写真を引用させてもらった。博物館で写真禁止なのは、なぜだろうか。海外では、プロが撮るのは禁止だが、一般の人はそうではないと思われるが。

2008/03/29

ひまつぶし!

ときどき、なんて視覚人間なんだろう、とあきれてしまうことがある。たとえば、「ひつまぶし」という文字をみて、「ひまつぶし」と頭のなかでは認識している。

これまでの人生のなかで、ひつまぶしという単語にはお目にかかったことがなかったので、つい脳のなかで省略が起こっていて、条件反射的に、ひまつぶしと思い込んでしまう。

と言えば、名古屋地方に行ったことのある方であれば、察しがつくことである。これまで名古屋に来て、どうも味覚が合わなかった。味噌にしても、たれにしても、すべて濃い。けれども、ついにこの濃い味を克服できる料理にであった。

Aさんが名古屋在住のO先生から、うなぎの美味しい店を聞いておいてくださった。Aさんもご主人の名古屋出張で、知る必要があったらしいのだが。ついでに、お教えくださった。それでご丁寧にカラー印刷の地図をいただいたのだが、雨に濡れてしまって、どうも肝心なところが見えにくくなっていた。それに、「うなぎやさん」としか書いてなくてわからない。

080329_182901 地図とはちょっとちがうが、絶対にここに違いないと思われる店が、大須観音のすぐ隣にあった。「宮田楼」という店だった。のれんをくぐると、なかは小さな店であったが、黒光りしていて、客によって磨かれた木のテーブルが、床が傾いているせいか、こちらの姿勢と一緒に傾いている。それほど、古めかしくて、懐かしい店構えだ。なんと大正元年創業で、大正文化探しのたびに似つかわしいこと、夥しいのだ。

ところが、このみせで、「ひまつぶし、ください」とやってしまった。一見さん丸出しで、店のひともジョークだと思ったせいか、あるいは、間違える人が多いのか(そんなこともないと思うが)、何気なく応対してくださった。 いまでも、思い出し笑いをするくらい、冷や汗ものである。

080329_181101さて、「ひつまぶし」だが、味が濃い分だけ、4っつの味が楽しめるのだという。そのときはわからなかったが、茶碗も出てきたので、最初はそのまま食べて、次に薬味を加えてみて、最後はお茶漬けにしてたべた。やわらかく焼けていて、細かく切られたうなぎを、十分にご馳走になった。だいたい、食べ方はあっていたようだった。

中央のテーブルでは、信州の山から降りてきたようなリュックを背負った若い女性がひとりでビールを飲みながら、新聞を読んでいた。ゆったりしたのか、可愛いしゃっくりが聞こえてきた。週末に、ちょっとした贅沢をひとりで楽しみたい、という人には最適な店だと思う。このような店が、街に一軒あるだけで、街の雰囲気が違ってくるに違いない。

ひつまぶしの濃い味は、十分理由のある美味しい濃さであり、ほんとうに名古屋へ来て良かったなと感じたしだいである。

2008/03/28

ノーカントリー

朝、コメダ珈琲店でモーニングを頼む。名古屋へ来たら、まずコメダへ入ってみようと思っていた。なぜ、コメダ・チェーンが東京にまで進出するくらいに人気があるのだろうか。駅前でも、場末でも、なぜかすべての店で満員なのだ。すべての客層で、まんべんなく満足を与える秘密があるらしい。

080328_092101 地下鉄で30分ほどの名古屋大学の図書館へ行く。風は冷たいが、天気は良い。午前中の頭が爽やかなときに、肝心なところを読んでおきたい。パソコンの使える、落ち着いた場所を確保し、さっそく20冊くらいをテーブルに並べて、端から拾い読みをはじめる。

080328_154701 マクルーハンによれば、人間が黙読を始めたのは中世であり、それまでは音読が中心であった。印刷術の発達が読書の方法まで変えてしまったらしい。音読が中心ならば、図書館も個室中心になっていただろうから、図書館の意味も違っていただろう。

080329_153702_2夕方には、大正文化をめぐるために、川上貞奴の「二葉御殿」を見学に行く。日本最初の女優と呼ばれ、川上音二郎と一緒に、欧米で興行を張って評判をとった。後年になって、電力王と呼ばれた福沢桃介と一緒に暮らしたのだが、その家を復元したものである。左半分が移築で、右半分が復元だそうだ。近代とロマンが同時存在する大正文化の特色を良く出していると思う。

080329_161201電気をふんだんに使う洋館の隣に、和風の館をくっつける。海外を回り、後年は舞台から引退して、桃介を助ける。大正期のポスター制作で有名な杉浦非水(義弟だというのは初めて知った)原画のステンドグラスと、和風のガラス窓。

帰り道でレトロな喫茶店「グリーン」があったので、マラウィ共和国産の珈琲をいただく。本当に古い喫茶店なのか、それとも、レトロな雰囲気を狙っているのか、判然としなかった。最後のコーヒーになるかと思ったが、どうも今日は長い一日になりそうだ。

080329_165701_2何も、出張に来てまで、映画を見る必要はなかろう、という人もいると思う。けれども、朝から何もしゃべらずにひたすら文献を読み、パソコンに向かってノートをとっていると、夕方ごろには肩こりが激しくなる。

このようなときにどうするのかが、出張の楽しみである。誰か一緒に行っていれば、酩酊文化にお世話になるのも良いし、さらに夜中まで仕事を続けたければ、珈琲を取って覚醒文化に浸るのも良いかもしれない。

でも、やはり眼に栄養を与えて、脳にも良い刺激を施しておかなければ、明日以降に支障がでてしまう。外に出るのを厭わなければ、映画が最適だと思う。もっとも良いプログラムがあればだが・・・。

名古屋駅近辺にピカデリー系の映画館が固まっていて、アカデミー作品賞を取った、コーエン兄弟の作品『ノーカントリー』がかかっていた。3人の物語である。保安官のベルと、溶接工のモス、そして殺し屋シガーが、金と死をめぐって、ドラマを展開する。

モスは、麻薬取引の現場から現金を奪って、シガーに追われることになる。何度か切り抜けるが、最終的にやられてしまう。

なぜまたもや、3なのか。主役の3人、全員の会う場面がない。このことが全体を示している。3人は、ひとりの典型的なテキサス男の3面なのかもしれない。想像界はやはりバルデム演じる殺人者シガーだろう。モスは、つねに映画的現実を刻々と作り出しているから現実界であり、保安官ベルは、こうなるといつも説明を行っているから、当然象徴界ということになるだろう。

2008/03/26

別れの言葉

毎年経験することだが、別れの言葉ほど、別れる前のことを思い起こさせるものはない。きょうは年度末の教授会であり、その後の懇親会には、退任の先生方がそれぞれ別れの言葉を述べるのだが、このときに聴く言葉ほど、先生方を特徴付けるものはない。そして、それは鮮明であればあるほど、最後は自分に帰ってくる言葉となる。別れは普遍的なことであり、いずれは自分のことに関わってくるのだ。

Y先生、H先生、N先生、O先生、N先生それぞれ、個性あふれる挨拶だった。H先生の話のなかで、退任した後、どうするのですか、という質問にいかに答えるか、という話があった。新しい人生に踏み出す、ということにこだわる必要はない、という結論だったが、きわめて示唆的な答えだった。

何かを知ろう、知りたいということで、人生を歩んできたのだから、こんごもそれを続ければよいというものだ。そして、もしそれが出来なくなったら、それはそのとき考えればよい、という楽観主義に、それは聞こえた。自分は何者であり、自分は何者でないのかがわかった方のいえる言葉だ。まだまだ、その境地には立つことができないな、と反省したしだいである。

最後だからというので、N先生は、わたしのラジオ番組を聴いた感想を聞かせてくださった。かなり辛口の批評であったが、得がたい経験だ。放送大学の良いところは、このように異なる分野の先生がいつの日にか、講義を聞いてくださって意見を述べてくださる、という点にある。つまり、誰に対しても開かれているので、率直な意見を思いがけないときに聞くことになるのだ。

まだまだ、原理的な突き詰めが足りない、もっと根本的な思考に到達できるはずだ。簡単に要約すると、このようなことだったが、このような真っ向からの批判は、近い分野の方からは得られないものだ。

職員の方がたとも、別れの季節である。シュアな仕事ぶりで好感の持てるタイプのNさんは、東北地方にある大学の部長さんへ栄転のようだ。ほかにも、多くの世話になった方々と別れねばならない。

先日専攻内でのお別れ会を行ったとはいえ、「社会と経済」専攻のN先生が最後になってお見えにならなかったのは、本当に残念であった。けれども、Y先生の話もそうだったが、間合いや空白の部分で、わたしたちの想像力をかきたてる手法を使った別れの方法ということも許されるのだと思われる。N先生だったら、どのような別れの言葉をおっしゃるのだろうか、と想像しながら、会場を後にした

2008/03/25

教えるという仕事

放送大学の文京にある学習センターへ来ている。来年度に面接授業をお願いする先生方に対して、この学習センターを案内するためである。昨年制作した「消費者と証券投資」に関係して、これのスクーリング版を行っていただこうと企画された面接授業である。

この科目は、「暮らしの中の証券市場」という名称で、すでに定員100名クラスのほぼ9割が登録されて埋まっている人気科目となっている、と学習センターの事務のかたから教わった。大学の先生だけではなく、証券投資の実務に携わった先生方も含んだチームで、この科目に対応するのだ。これまでにない、たいへんユニークで実践的な面接授業となることが期待されている科目である。

説明をしていて、気のついたことがある。先生方の目がきらきらと輝いていて、何か新たなことに対して、これから取り掛かろうとする意欲にあふれている感じである。積極的な姿勢が現れている。感触からして、言葉を使って、人に説明をすることの好きな方々だな、と感じた。講義の場所が、これまでの一般大学や証券市場関連の講座ではなく、放送大学の教養学部の講座である、という点に魅力を感じているらしい。

実践と大学教育とが、どのように融合するのか、教える立場からみると、たいへん刺激的な内容となることが期待される。

文京の学習センターから数百メートル離れたところに、お茶の水女子大学があって、きょうは比較日本学研究の研究会が催されることになっている。お茶大のS先生には、この4年間に渡って、一年に1本ずつのペースで呼ばれて、発表の機会をいただいている。今回はS先生の「働くこと」についての研究発表と、わたしの日本人の「情報」受容に関しての発表を行うことになっていた。

参加者は少なかったが、発表のほうは順調に進んで、参考になるご意見をたくさんいただくことが出来た。じつは、S先生は定年退任ということで、大学での最後の研究会ということだそうだ。研究室の書籍は大方運び出されていたが、行き場のない新しい献本がすこし残されていて、どれでも持っていってよいとのことだった。このような本のやり取りは、明らかに研究者間の互酬システムの原則に則っている。

S先生から、興味深い互酬システムの話を聞いた。お茶大の正門には、大きな牝の三毛猫が住み着いているそうだ。それで当然ながら、避妊しなければならない時期になったのだが、大学には当然そのような「予算」が取られているわけではない。そこで、先生がカンパをしたことを新聞に載せたところ、近所の小学生たちがこの猫のためにということで、小遣いを持ち寄って、あっという間に資金が集まってしまったとのことだ。

猫の恩返しというのは聞いたことがないが、小学生たちへ直接のリターンはないかもしれないが、地域への何らかの恩恵はあるものと思われる。

2008/03/24

映画「ダージリン急行」

ある汽車に乗り込んだら、やはりとことんその旅行を楽しまなければ、救いはないだろう。午前中に、懇談会があり、かなり緊張したやり取りがあったので、それを静めたいと思い、午後は仕事を早めに終わらせて、早々にチネチッタへ行くことにする。

映画「ダージリン急行」の出だしは素敵だった。例の曲者役者のビル・マーレイが登場して、はじめを盛り上げる。E.ブロディ演じる次男がかれを追い抜いて、列車に併走して乗り込むときの自由さと快楽さは、比類ない映像だと思う。このシーンと、最後に同じく、ホイットマン三兄弟が列車に飛び乗るシーンは、秀逸であり、このシーンだけでこの映画をみて良かったといえる。

あとは、ジム・ジャームッシュの世界か、ビル・マーレイの世界、たとえば映画「ブロークン・フラワーズ」の世界を理解できないと、この映画の面白さはわからないだろう。間違いなく、この系譜に属す映画である。

たとえば、花を持って親密な関係にあると思っていた人に、急にバチっと殴られる。本人は、なぜ殴られたのか、わからない。が、理由はあるようだ。(大抵は、大した理由ではないのだが・・・)このような不条理な筋がえんえんと続く。このようなことが面白くなければ、全体としても、面白いとは思わないだろう。

それで、この映画はマザコンの三兄弟が母を求める旅にでるロードムービーだと仮定すると、彼らの欲望の来歴がすっきりとわかるようになるかもしれない。

長男は、相棒に恵まれないで悩んでいる。一緒に働く仲間を欲しがっている。弟たちともうまくやろうと思って、このインド旅行を企画するが、それでも何かがいつも欠落している。

次男は、子供が生まれる寸前なのだが、父性に自信がない。田舎の村で、溺れている子供を命がけで助けようとするが、子供は死んでしまう。けれども、父親の実感を得て、無事子供が生まれることになる。

三男は映画が始まる前の短編から引き続いて、女性への欲望が強い。いずれも、無意識のなかで、マザコンが作用していると思い込んでいる節が見られる。

そして、ようやく母親に会うことになるのだが、ここからは映画を見てのお楽しみとしたい。しかし、結末は自己に目覚め、兄弟の結束を強めて、この映画も大団円をむかえる。このように、筋や理屈は明確なのだが、マーレイ的ユーモアが楽しめるか否かが、この映画の評価を大きく変えることになろう。

きょう最後のコーヒーは、チネチッタのなかにあるイタリアンで、すこし濃い目に焙煎されたものをいただいた。

2008/03/22

ダブル・ブッキング

このところ、きちんと手帳に書いておくことにしたので、約束を忘れてすっぽかすことはほとんどなかった。

けれども、きょうは完全に時間を間違えてしまった。時間をずらして会うべきところ、まったく同じ時間に、ふたつの約束を入れていたのだ。調査の打ち合わせと、大学院ゼミナールとかち合ってしまった。

申し訳ないと思ったが、調査の打ち合わせのほうは、手馴れたSoさんとSiさんにお任せして、大学院ゼミのほうを行うことでなんとか切り抜けた。大学院ゼミは、ちょうど1年が経ち、成長曲線でいうところの踊り場に差し掛かり、停滞気味の時期に当たる。同じことを何回も考えたり、ぐるぐると同じ議論に拘泥したりしている季節だ。

毎年、このころには、新入生が入ってきて、刺激を受けることで、またS字曲線の上のほうへ向かっていくのだ。その意味では、ギアチェンジの季節である。これまで、目標もあいまいで、なるべく手広くメモを作成してきたのを、目的意識を持って、あらかじめ文章を書くつもりでメモを作成するような変化を行う時期に入ってくるのだ。

この辺のギアチェンジが、以前にはよくわからずに、無駄な時間を過ごすことが多かったように思える。周りから見ると、それは今やるべきことだ、ということがわかっても、本人はなかなか自覚できないことが多い。このことが、お恥ずかしいことに、最近になってようやく感覚的にわかってきた。

沖縄野菜の健康調査が明日でようやく終結するので、今晩打ち上げを行うことになった。Mさんのいとこが平沼で開いているイタリアンレストラン「ステッラ・ディ・マーレ」を借り切って、15人ぐらいが結集した。

サラダ、パスタと続く中でも、とくに厚焼きのピザが美味しかった。それから、最後にいただいたケーキも、あまり甘くないので二個ぐらいは簡単に入ってしまう。昨日治療したばかりの歯も、今日ばかりは、アルコール消毒でごまかすことにした。

何人かのかたと、じっくりと話すことが出来た。新聞記者のKさんが参加していて、記事の書き方をいくつか紹介してくださった。とくに、取材の使い方がふたつあり、ひとつは中心となることを確かめるために取材するとおっしゃる。もうひとつは、たくさん取材して、そこから何か新しいことを発見するために取材するのだ、とおっしゃっていた。

それなら、論文を書く場合と同じだとも思った。けれども、おそらくスピードが違うのではないか。ときには、かれは電話口で話して、記事原稿を送ることもあるそうだ。

この会を主催したT先生とO先生は、現在ここにいることの偶然性と、出会いの不思議さとを強調していた。沖縄から来た方々は、みなとみらい方面へ別れて、ホテルへ向かった。東京方面の方々とは、横浜駅で別れて、アルバイトとして参加していた娘と一緒に帰途についた。残念ながら、きょうは最後のコーヒーを飲むことは出来なかった。

2008/03/21

痛さの存在

歯の痛さを経験したのは、かなり小さなときだった。それは乳歯だったので、夜に糸で縛って、朝にはぽろっと取れていた。

当時、歯の状態はかなり悪く、歯医者に通わなければならない状態だったが、それでも通った記憶はあまりない。ほかの医者の記憶は鮮明にあるのだが、歯医者だけは記憶にない。いつも夜になって、後悔するのだが、歯を抜いてしまえばそれでお終いにしていた。

おそらく、歯医者の記憶で、かなり悪い印象を持ってしまったのが、二十代に通った、T大の口腔外科である。ここでどうしようもない痛みを残した治療を受けたのだ。

大学の健康保険でかかった歯医者なので、費用が安いということが取り柄だったが、それでも、歯医者だけは費用に相談すべきでないと今では痛切に考えている。

何が問題なのかといえば、痛みの存在が他者にはわからないという、当たり前の現象に苛立っていたのだ。とくに、歯医者では、口を開けたままの状態で治療が行われる。そこで、痛いということが歯医者に伝わらないのだ。という諦めの状態にあることが、堪らないのだ。

たとえば、痛みを感じると自動的に、赤いランプが点滅し、歯医者に痛みが視覚的にわかる装置などが、なぜ開発されないのだろうか。キューンというお馴染みの音がして、歯を削るときに、同時に神経に障ることがたびたび起こる。患者は顔をしかめることで、痛みを示唆するが、歯医者には伝わらないのだ。

ここ十数年来かかっているY歯科は、歩いて10分ほどの近所にあって、たいへん確実な腕を持っていて、信頼している。義歯についても、これまで何本か入れていただいたが、上下の噛みあわせで満足しなかったことはない。

麻酔の打ち方もうまくて、針でちくりとも感じない。それでも、歯を削るとき、神経に障るとやはり痛い。そこで、最近は考え方を変えることにした。痛みはそもそも他者には伝わらないものであって、だからかえって、伝わらないからこそ伝えようと努力する気分になるのだと・・・。

2008/03/20

三浦半島での緊張と弛緩

Center 三浦半島にある「湘南国際村」で、合宿を行っている。

ここで最も好ましくて、たっぷりとした時間が過ごせるところは、アクアクラブ(水泳プール)とサウナである。勉強して、あるいは議論に疲れたときに、一泳ぎするのは身体にも良いし、精神的にも余裕を与えるように思われる。

Pool 昔見た青春映画で、米国大学を主題にした「ペーパーチェイス」のなかで、大学図書館が24時間開いているのが当たり前で、コーヒーを飲みながら、夜通し論文を書いて、朝帰っていくという場面があって、すごいなと思ったことがある。

その続きで、やはり大学内にプールがあり、勉強のあとに一泳ぎする場面を描いていた。米国であれば、どこの大学でもプールがあるかのように見えるシーンだった。いかにも、豊かだなと思わせるところだ。それには、伏線が張ってあって、主人公はゆうゆうとプールで泳ぎ余裕があるところを見せるのだが、同時進行で、友人が家で神経症で参っている、という文脈なのだ。なるほど、プールは、余裕・優越の象徴なのだ。

日本の大学でも、水泳部でもない普通の学生の泳ぐことが出来る温水プールが備え付けられたら、要注意である。余裕のある学生と、神経症に陥る学生の両方が出現し始め、落差が見られるようになった、という兆候だからである。

夕べの6時に始まり、夜の11時ごろまで行い、さらに今日も9時に始まり、13時ごろまで行った議論も、ようやく収束して、もうこれ以上拘束されるのはいやだと言うところまで、真剣に議論を重ねた。これで、サポーター制もようやくスタートすることになった。

幸いなことに、「神経症」の方は出なかった。最後に、みんなで昼食をとって、雑談をして散会した。皆が帰った後、久しぶりに、古くからのお付き合いのある、HさんとIさんともコーヒーを飲んでゆっくりと話す機会が持てたのも、このような「近いリゾート」でならではのことだと思われた。わたしも最後の一泳ぎをして退散した。

Db ちょうど、いつものように仕事の帰りに県立図書館へ寄る時間に、間に合いそうだったので、来週に予定されている研究会でしゃべらなければならない内容の文献を引き出して、帰途につく。最後のコーヒーは、野毛の「db」にて、すこしどろっとしたいつものを飲む。音楽は、Diana Washingtonの明瞭な歌が流れていた。

2008/03/19

サポーターの合宿

午後から雨になった。きょうは、神奈川学習センターのサポーターたちが一堂に会しての合宿である。いままで、なぜ行われなかったのか、不思議なくらい当たり前に企画されるべき合宿なのである。学生と先生が学習センターについて徹底的に討論する場を作った。

もちろん、放送大学は大学なので、卒論や修論を仕上げるためのゼミナールは行われているし、そしてまた、学生の方々は同好会やサークルなどで、自主的な合宿は行われているのだが、社会人の大学としては、生涯学習特有の合宿があっても良いのではないかと思われる。

約30名の参加者が、神奈川学習センターに関してそれぞれ課題ごとのチームを作り、どのような問題点があるのかを洗い出し、それらについての解決方法があるのかを話し合うのである。言葉でいってしまえば簡単なことのように聞こえてしまうが、じつはそこに至たる道は無限の道筋がある。というより、どの道を通っていくのか、まったくわからない状態で、お互いに確かめながら方向を定めようというのだ。さて、うまくいくのだろうか。

Oさんが「バス研修旅行」について報告し、FさんとTさんそれにわたしが、「地域連携」についてしゃべり、さらにKさんが「同好会」支援について説明を行った。そのご、10時を回り部屋が閉まるというので、1階のロビーに席を替えて、一番問題となっている「学習支援」についてYさんの問題提起の後、話し合いがえんえんと続いた。

問題となる現実があるのだが、けれどもその現実はじっさいには見えない。そのとき、人々は勝手にその現実を想像してみているに過ぎないのだ。ひとりでは見えてこない問題、このような混沌とした状況に、指針となるような言葉を与えてみようというのが、今回の趣旨である。みんなで集まって比較し、つき合わせてみれば、どうにかなるかもしれないという、良い意味で楽観的な人びとが集まったといえる。

問題は、「サポート」ということだと、端からわかっていた。どうしても、サポーターという言葉には当事者というよりは、応援者としての言葉が染み付いてしまっている。けれども、現代ではサポートされるほうがかえってサポートしている場合が多い。つまり、互いの島に、それぞれ乗り入れなければ、真のサポートは存在しないも同然だからである。

たとえば、学習センターが毎年行っている「バス研修旅行」という行事がある。じっさいには、先生方が企画を立て、懇親を主たる目的として、具体的な計画が組まれることになるが、ほんとうのところ学生の欲求に合わせる形態をとって、成立しているのが実情だ。研修という意味ははるかに忘れられていて、学生のニーズが現実をサポートしているのだ。今回、サポーターにその企画をお願いすると、すんなりといくつかの計画が出てきて、テーマは、より学生の側にたった計画が組まれそうだ。学生の希望・欲望のもっとも近くにいるのが、サポーターなのだから。

大きなガラス窓には、嵐のような強い風と雨が吹き付けている。心象風景と、現実の風景は相似形なのかもしれない。あすは晴れることを願っている。

2008/03/16

喜びの法則

NHKホールで、放送大学の卒業式が行われた。

通信制の大学にとっては、目の前に、大勢の同窓生が現れて、話ができる機会はこの卒業式以外ほとんどない。もちろん、今日のNHKのニュースでも流れたそうだから、クールなメディアを通じた形で、全国において経験が共有できる点では、他の大学では決してできないことを実現していることは間違いないのだが

それでも、目の前に実際に喜びを分かち合う人びとがいるということは、テレビとは違った世界があるのではないだろうか。そして、喜びの法則として比類がないのが、この現実の卒業式だと思われる。喜びは、ひとりより、ふたり、ふたりより大勢という指数法則にしたがっている。

他者の喜びは、自分の喜びである、というところまで言えるのかは別にして、そばで喜んでいる人がいて、さらに、同じ喜びを持っている、という体験は、共に身をもって実感した人にしかわからない感情だと思われる。

自分ではそんなつもりではなくとも、他者の喜びを見て、自分の喜びを実感することは、人生にはときどきあるものだ。それが、儀式ということの社会的存在意義だ。

さらに、写真というものは、このことを強化する。ほんの一瞬の出会いを永遠に残したいという欲望は、ありえないとはわかりつつも、喜びの法則からすれば十分理由のあることである。

渋谷から歩いていくと、ちょうど丘の上にNHKホールがある。昔からある宇田川住宅や、山手教会を左に見て、あとから出来たパルコや東武ホテルを過ぎると、視界が開け、NHKとオリンピックプールが見える。歳がわかってしまうが、小さなNHKホールが日比谷にあるころから、N響の無料コンサートに通っていたものにとっては、このような巨大なホールはむしろ馴染みは薄い。けれども、小さな感情をこれほどまでに集合させれば、別の趣向が現れる。

玄関でさっそく修士修了生の方に呼び止められる。神奈川学習センター所属のかたで、着物がたいへん似合っていた。何人かの方が集まってきて、写真に収まる。玄関ホールでは、Hゼミの方々と、Sゼミの方々がやはり集まっていて、ここでもパチリと一枚、他の学生に撮ってもらった。

喜びを共有する方法として、写真は有効なコミュニケーション用具である。写真の技術論は多く存在するが、なぜみんなで写真を撮るのかということについてはもうすこし興味深い視点がありうると思う。

写真とは、人間にとって、「身振りの復活」である、といったのは、有名なマクルーハンである。身振り手振りを通じて、他者の喜びが通じられ、自分の喜びになっていくのだ。

さて、懇親会は席を移して、ニューオータニ「鶴の間」で行われた。同窓会の会長がこの鶴のガラス工芸で、この部屋の製作にかかわっていた、というエピソードを披露なさっていたが、放送大学らしいエピソードだと思った。

第1期生のMさんが初めて卒業なさったと、挨拶に見えられた。ということは、23年かけて卒業なさったことになる。当時、わたしの学習相談を受けられたらしいが、さすがにわたしの記憶にはない。たぶん、姿も相当変わったのだと思われる。でもかすかに、話す口調に記憶が残っていたことには、こちらがびっくりしたくらいだ。10年、20年は、この大学では現在進行形なのだ。つまり、こうなると、努力とは何か、ということを、すごい時間スパンで考えなければならないことを教えている。

同窓会のお手伝いに来ていた、Iさんについては、過去に書いた卒業論文の中身まで覚えている。文脈で覚えているのだが、その後についても話がすっかりつながっていることに気づく。

会場からの別れ際に、小走りに追ってきて、お帰りですか、と声をかけてくださった方もいる。おそらく、じっくり話をするほどではないにしても、授業の印象が残っていて、挨拶に見えたのであろう。

写真に封じ込められ、倍加した喜びは、今後どの方向へ飛んでいくのだろう。当分は、メールに乗って、再生産され、人びとの記憶へ影響を与え、実際の卒業式よりも、写真の卒業式が定着していくことは間違いないだろう。そして、いずれは、個人のなかで、それぞれ異なる方向への作用を与えることになるのだ。つぎに、再会するときに、それを読み取るのを楽しみにしたい。

2008/03/15

資料館の春先展示

昨日も遅かったので、すこし余裕をみて、ホテル近くの、スマートな女の子を意味する言葉の「N」というカフェ・レストランで、早めのランチを食べる。テラスが温室のようになっていて、居心地が良さそうな、郊外型の商業施設である。タコとアスバラガスのパスタを食べ、腹ごしらえを終えて、府立総合資料館へ入る。

大正文化の特色は、「近代」をめぐる象徴的な動きであるが、交通はそのひとつとして見逃す事ができない。折よくちょうど、企画展「地域をむすぶ京都府の交通史」をやっていて、本来の文献収集をそっちのけで、見学してしまった。古代から中世(たとえば、角倉氏などが管理した河川の歴史)にかけて展示されていたが、鉄道に中心が移ってくると、明治期の建設からはじまって、大正期の拡張期に面白い動きがあることが確かめられた。

たとえば、重要文化財に指定されている「京都行政文書」には、交通事情が記載されていて、大正期に人力車や馬車に代わって、乗合自動車が登場し、都市交通が激変したことが記載されていた。このことによって、人力車の車夫は失業をこうむる事になったらしい。当時の幌なしの乗合バスの写真や、転換前の馬車の写真など、普段あまり気をつけてみないようなものが目白押しで面白かった。

問題は、大正期に拡張・変化した近代が、なぜ長続きしなかったのかということだと思われる。このことは、簡単に答えの出るものではないが、いくつかの証拠は集まってきている。この資料館の閉じるのはたいへん早く、4時半には閉館の時間となった。通りの向かいにあるパン・レストラン「進々堂」で、チーズケーキ・セットを頼む。コーヒーのお代わりは自由だということだった。3杯飲んだこれが、今日の最後のコーヒーとなった。

2008/03/14

ドイツ・ポスター展

大正文化の取材についていくつかの候補を考えていたら、娘が京都で「ドイツ・ポスター」展をやっているよ、と教えてくれたのが、今回の出張の主たるテーマとなった。おそらく、バウハウスなどの系譜と、日本への影響が取り上げられているのだろうと推測されたが、それ以外についても、ほかのいくつかの経路可能性も探ってみたかったので、ちょうど良い機会だった。

080314_110201昨日は良く晴れて行楽日和だったが、きょうは一転して寒い雨が降っている。午前中はホテルで資料整理と原稿執筆に当てようと考えていたが、折角来たのだから、見るべきものは先に見てしまおう、ということで、銀閣寺そばにある、「白沙村荘」へ行く。バス停にはたくさん人が並んでいるが、それは銀閣寺見学の人並みで、こちらへの実害は少ない。

080314_110203ここは、大正期に活躍した日本画家「橋本関雪」の邸宅であったところで、現在も親族が建物と庭園を維持しながら、たぶんこの周りの飲食店も経営なさっていると思われる。池を配した茶室があり、家からもアトリエからも池を望める、大きな庭だった。見学の最後にギャラリーがあって、関雪の「玄猿」が展示されていた。動物画は微細な描写で書かれていた。けれども、ここには完成されたものはあまり掲げられておらず、またいくつかの傑作があるのだろうけれども、それがわからず、私自身の不勉強を恥じるばかりだった。

080314_110205_2けれども、たったひとつわかったことは、橋本関雪というひとは最終的に孤独なひとだった、ということだった。ひとつに、動物を描くのが好きだったが、たいていはひとり静かに離れて存在している。ふたつに、中国へ60回以上旅をしている。三つに、画壇から少しずつ遠のいていった。さらに、白沙村荘のようなかなり大掛かりな庭園を自分で設計して、孤独を癒していた。と数え上げていけば、かなりの孤独が付きまとっている。実際には、伝記も読んでいないで、こんな事を言っても良いのかと言われるかもしれないが、この庭園を見るかぎりは間違いないところだと思われてならない。

こんなところにも、大正文化の孤立感というものが、表面的な華やかさと一緒に存在しているように思われる。

昼食は、かねてより目をつけていた銀閣寺道の「S」というパスタ屋さんで、牛筋と春野菜のトマトスープ・パスタ、もちろん、コーヒーとデザート付きのものだった。また、クリームスープもかなり美味しかった。

080314_110204さて、ドイツ・ポスター展は、岡崎公園内の近代美術館で開かれていた。全体のなかではおそらくわずかなものであっただろうが、日本各地から収集されていて、つながりの多彩さに目を奪われるものだった。とくに、杉浦非水などの大正文化への影響には、観るべきものが多い展覧会となった。

080314_143701 ときどき、このようなことが起こるのだけれど、今回カンディンスキーのポスターが一枚だけ含まれていて、彼が本や雑誌の表紙絵を書いていたと同時に、ポスターも物していたことを知って、興味深かった。

おそらく、抽象ということをはじめたころで、絵画よりもポスターのほうが、抽象を描きやすかったのではないかと想像させられる。

注目したのは、20世紀初頭ベルリンで流行った「即物的ポスター(ザッハプラカート)」というもので、ポスターの最小構成要素「テキスト・背景・絵」をいかに組み合わせることができるかで、そのポスターが決定されるとする考え方である。

たとえば、靴屋の名前が目立たない字で大きく入っており、靴が片方だけ横に置かれている、というポスターは、シンプルだけど、ポスターの最小限のことが描かれていて、たいへん現代的な作品になっている。

構成要素のなかでも、背景とテキストはあまり変えることはできないが、絵の部分は、どのような考えを持つかによって決まってくるものと思われる。

ところで、ポスターが近代になって、なぜ勃興したのか、ということは、たいへん興味深い点である。たとえば、有名なポンペイの選挙ポスターは、情報の非対称性を埋めることが原理となって生まれたことになっている。けれども、それ以外にも情報生成の説明はつく。このようなところが、ポスターを観ていて面白いところだ。

つまり、芸術という現実が一方にあり、それに加えて、商業という新たな現実が加わってきた。そこで、ポスターという象徴形式が生まれることで、芸術と商業がくっついたという新たな現実が生まれることになった。

ザッハプラカートは、商品をひとつ描き、商店名をひとつ入れることで、単純に商品と商店の宣伝ができるつくりのポスターだ。芸術と経済の、単純なコミュニケーション的結びつきを実現した、最もシンプルな形式といえよう。相互浸透性の典型的なモデルである。

なかでも、その後のいくつものポスターに採用された模倣物として、メルセデス社のタイプライターのポスターが、シンプルながら人の心をぐっと掴んで離さない。朱色のテキストでMERCEDESと横に大きく描かれており、その下にタイプライターがリアルに置かれ、同じく朱色のワンピースを着た女性がその前に座っていて、消費者を誘っている。著作権の関係で、お目にかけることができないのが残念である。

080314_183801同様の趣向は、当時の展覧会や博覧会に使われて、当時の表現の標準を作り出したといえる。

岡崎から聖護院まで歩いて、JAZZ喫茶の「Y」でポスター展の整理を行う。客がひとりだけだったので、店主の方が、リクエストに答えますよ、というので、久しぶりでダラー・ブランド「アフリカン・ピアノ」をお願いする。「旧いですね」と言われてしまった。夕食は、さらに三条御池の「M」にて、鶏肉料理を食べる。最後のコーヒーは、いつものように、たっぷりタイプのアメリカンであった。

2008/03/13

生活地と観光地

Oohara 先日、京都でK先生と会ったときに、京都の大原がいいですよ、と言われたので、調べてみると、半日の行楽にはもってこいの距離と費用とであることがわかった。そこで、資料収集のための図書館へ向かうまでに、行楽してみることにする。早めに京都へ行き、ホテルへ荷物を置いて、近くのバス停から大原行きのバスに乗り込む。駅から大原までの道筋に、ホテルを取っていたことも時間の節約に役立った。

朝が早かったこともあって、バスで市街を抜けるころには、白川夜船を漕ぐことになった。観光地の成功する要因に、オプションをいくつか用意して、さまざまな欲求に答えられるという要件がある。生活地と観光地とは、つねに一体のもので、そこからどこまでが生活地であり、どこからどこまでが観光地だとは線を引くことはできない。けれども、明らかに旅行者には、観光地というものが欲望のなかに存在していて、その世界は、生活地とは別のものとして存在するかのように思われている。このギャップが激しければ激しいほど観光地の価値は高い。

問題なのは、いかにして現実の生活地を幻想の観光地として見せるのか、そして、そのギャップを最大のものとして、観光客に植え付けられるかがキーポイントになる。大原の場合、そのギャップを構成するのは、「歴史」である。教科書には必ず平家物語は載っているし、このことは繰り返しマスコミも取り上げる。

Jakouin寂光院という場所があるならば、その寺にまつわる歴史がどのように存在するのかが、この場所の情報にとって勝負となる。歴史を媒介として、生活地が観光地へ変換されるのだ。けれども、どのような地域でもそれが可能かといわれれば必ずしもそうではない。然るべき選択が行われて、観光地としての体裁が整えられる必要がある。

したがって、観光地を決定するのは、その観光地にどのような推進力が存在し、観光地と生活地のギャップを広げると同時に、共存できるかにかかっている。観光の資源が、言語化され、ブランドとしての意味がその地域で蓄積され、公式化へ持っていく用意が必要となる。

「コモンズの悲劇」という有名な比喩が存在するが、それにも増して「観光地の悲劇」とでもいいうる現実が存在する。観光客が増えることには、ふつうは全員の利益につながるから、問題なく行われる。けれども、あまりに環境能力を上回る観光開発がおこなわれると悲劇がもたれされることがある。

Sarasouju ところで、大原のバス停を下りると、右に行けば三千院となり、左へ行けば寂光院となる。どちらを選ぶかで、その人の人生の半分くらいがわかるような気がする。昼食は、きのこのうどんを食べ、早々に大原を切り上げて京都へ戻り、図書館へ急行し、仕事に専念する(沙羅双樹を見つける)

2008/03/12

年度末のすき焼きパーティー

「放送大学大事典」のIndex版制作が最終段階を迎えている。放送大学の印刷教材が全文検索できるシステムだが、作業を行っていただいているSさんとKさんへ最後のテキストを渡すために、放送大学の本部を訪れた。

このところ、現代GPの部屋の引越しや整理を行っていて、最後になって作業が終了するのかどうか、不確かになってきていただけに、ここまで到達できたのは、作業を行ってくださってくださる方がたのおかげである。

夜には、湯島にある「E」で、社会と経済の先生方が集まって、「清談会」が催される。Y先生が定年で退任され、N先生が転出なされるので、すき焼きで送りだそうという趣向である。また、最長老のK先生も手術を乗り越え、出席なさって元気な姿をお見せになった。

この「E」という店は、本郷に近いこともあって、明治期からいくつかの小説に描かれてきたそうだ。Y先生は中学生時代から通っているそうだ。いまでこそ、湯島にあるために、すこし公式的な会合に利用されて、敷居が高いように考えられているが、ふつうの庶民が牛肉を食べることができるとして、評判を取った伝統のある店だということである。

また、K先生はご先祖のエピソードを披露なさった。親族にとって大事件が起こり、その当事者をアメリカへ送り出さなければならなくなったときの舞台がこの「E」であったそうだ。大家族が集まるような大広間がいくつもあって、これは都合よかったと思われる。古くから東京に住む人にとって、ひとつのハレの場として機能していた様子が知れる。

最後に、H先生が用意なさった花束とアルバムを贈り、またちょうど誕生日だったK先生へもAさんから花束贈呈が行われて、締めくくられた。それにしても、H先生のアルバムつくりは念が入っていて、先生方全員からのメッセージが挟み込まれ、ほんの数分で1冊の「卒業」記念アルバムが出来上がった。手際のよさに見とれてしまった。おそらく、小学校から高校まで、ずっと学級委員を行ってきていて、毎年このようなアルバムつくりを手がけてきたのだろうなあ、と想像されたのだ。

2008/03/11

南島の文化

1990年代には、南島文化論が盛んに論じられた。沖縄には、「辺境」という言葉よりも、「南島」という言葉のほうが似合うような気がする。どちらも、マージナルなことを表す言葉であることは間違いないが、それでも現実のなかで、「南島」という言葉の響きのほうがすべてを覆い尽くしている感じがある。

たとえば、花粉症という問題がある。T先生は、沖縄には杉の木がないから、花粉症は存在しないよ、という。それはやはり、南島文化の特質だと思われる。単に花粉の問題ではなく、社会のストレスや人間関係のこともあろう。

ということで、この時期に今回の沖縄出張を選んだということもあったのだ。ところが、わたしに限っては残念ながら、沖縄に来てからも、花粉症が強く現れて、鼻水が止まらない。他の花粉に反応しているのだろうか。

080309_150301  朝から雨が降っていて、宿舎の「研究者交流施設」という無機的な名前の施設も濡れて、眼に映える。

ふと窓越しに視線をやり、目を凝らすと、そこには立派な花粉の山が存在するではないか。杉ではないにしても、似た樹木の針葉樹でしかも花が満開なのだ。いずれにしても、これもひとつの原因になっているに違いないだろう。

Kouryuu2けれども、ここで原因究明しても、実際に沖縄の方がたには、あまり花粉症は出ないらしいし、東京で花粉症だったひとも、沖縄に移住してから花粉症は出ないとおっしゃっていた。わたしも明日には、東京に戻るのだから、もし現在原因がわかったとしてもどうしようもないだろう。今回は、どうせ同じことかと諦念する。

Hakubutukan2沖縄来訪の仕事はおおかた済ませることができたので、早めに宿舎を出て、県立博物館見学を予定する。以前の博物館は首里城のちかくにあって、たいへん古きよき伝統を継承していた。ほかの先生もおっしゃっていたが、周りの環境との親和性が良くて、これまでの風土のなかで醸成されたのだろう。

Hakubutukan_3 新しい県立博物館は、美術館と併設されており、ごらんのような砂の要塞という様相を示している。新収集品の展示を行っていたが、まだ本格的な企画に至らずに、見学者にとってはなんとなく欲求不満状態であった。まだ、美術館が開いていないことも、原因かもしれない。僭越ながら、うまく軌道に乗ることをお祈りするのみである。

2008/03/10

「ゆんたく」会

沖縄も3日目になる。昼食に、T先生が来て、西原町にあるYというイタリアンレストランへ連れて行ってくださった。住宅地からちょっと離れているにもかかわらず、すでに満員。

ここでも、女性客が90%を占めている。女性客がどのくらいいるかで、どの程度の美味しさなのかがわかる。ここは、余程評判を取っているらしい。

いかと野菜のトマトソース・パスタのランチを頼んだが、サラダとデザートとコーヒーがつく。それに、とても美味しかったので、お代わりを頼みそうになったパンもついてくる。これならば、車を使ってでも、来てしまう。シェフが帰りに挨拶にできてきたが、意外に若い方だった。

今回の沖縄訪問では、「ゆんたく」会というナイトセミナーを開催することになっていて、何か喋らなければならない。健康消費についての考えを述べることを要請されていたが、それに加えて、沖縄の食についての消費パターンについても報告して欲しい、とT先生から伝えられていた。

ゆんたく、という言葉の意味は、井戸端会議風のおしゃべりのことらしい。報告には、最初のところからコメントが寄せられて、たいへん気の置けない「おしゃべり」ができた。ゆんたくのテーマとしては、ちょっと硬かったかもしれないが、沖縄の食料消費のパターンについては、昨日から一日掛けて苦労したので、かなりクリアに出来たのではないかと思う。

出席者は、医学部から、T先生、O先生、Ta先生、それから、米国のO大学から、D先生、それに厚生労働省のS氏、コープ沖縄のK氏、そして先日コザでお世話になったO氏である。社会科学系の方が少ないので、考え方をあわせるのに苦労したが、多少の齟齬は致し方ないところだろう。むしろ、齟齬を楽しむ余裕があったことを喜びたい。

最後に、医学部近くの居酒屋Iで、泡盛ををいただく。先日から、「菊之露」という銘柄がよく出てくる。

O先生の話が興味深かった。島ということの意味が良くわかるエピソードだ。現代にあっては、沖縄の島を渡ることは造作はないことだと思いがちなのだが、じつはさにあらず、ほかの島へ行ったことのある人はあまりいないのだそうだ。沖縄本島の方だと、東京へはみんな行ったことはあっても、宮古島や石垣島への行ったことのない人が多いのだそうだ。

じつは沖縄の消費パターンを調べていて、この結果は如実に出ていたのだ。沖縄の人の旅行消費は極端に他の地方の比べて低い水準なのだ。これは、比率をとっても、消費のなかに占める旅行費の割合は少ないのだから、やはり低い水準であることは間違いないのだ。

わたしたちも、地元の観光地へはあまり行かないのが常であるが、それでも沖縄ではさらにそれを上回って、移動しないのだ。

お開きの前に、O氏の予告があった。それはみんな健康について考えるのに真面目過ぎるから、今度はコザで、「メタボ・ツアー」を開催しよう、という提案だった。米国式の、メタボたっぷりのステーキ食べ歩きツアーなのだ。タイミングが合えばよいが、ぜひ参加したいものだ。

最後のコーヒーは、宿舎に帰ってから、カセット式のドリップで淹れて飲む。

2008/03/09

沖縄の野菜料理

午前中、放送大学の沖縄学習センターで、来年度に卒業研究を履修する予定のYさんと会って、話をする。テーマは、基地経済についてという、沖縄ではきわめて重要な題材だ。

以前、このゼミの卒業論文では、佐世保の市議の方がやはり基地経済について優秀な論文を仕上げたことがあり、印象に残っている。現在では、情報公開でさまざまなデータが得られるので、おそらく実証的な研究を残してくださるものと期待している。連絡用のメールや検索のためのルールなどを説明し、いくつか出てきた論文をさっそくプリントして持って帰られた。

そのあと、センター所長のH先生と話す機会が持てた。91歳になる学生がいて、孫との手紙のやり取りを英語で行いたいという動機で、学んでいるのだそうだ。放送大学本部のO先生の面接授業を受けたときのエピソードを話してくださった。

お昼には、T先生と沖縄の煮付け料理(定食屋さんのもので)を食べ、ショッピングモールでスターバックスに入り、雑談をする。夜には、T先生のご家族、奥さんのTさん、娘のAさん、息子のKくんと一緒に、那覇の新都心へ繰り出す。沖縄野菜料理を80種類も、バイキングで提供している店があって、サラダから始まって、玄米・五穀米などを主食にして、名前のわからない沖縄野菜をたくさん食べた。最後は、豆乳プリンとコーヒーをいただく。

今回初めて食べた野菜で、ンジャナという葉物の野菜があり、ゴマ味噌につけて食べた。細かく刻んであるので、食べやすくなっていたが、奥さんがいうことが当たっていると思った。ふつうの草を食べているような感触だったという表現があっている。ハンダマは、かすかな香りが味覚を刺激する葉っぱだ。ンスナバーといったと思うが、レタスがしわしわになったような野菜もあった。

あたかも、身体全体が野菜で覆われて、中へ浸透していくかのような感覚を楽しんだ。気がついたら、肉料理も沖縄料理の特色なのだが、今回は煮物のなかにすこし含まれたものを食べただけだった。ラフティなど、隅っこにあったので、気がつかなかったのだろう。

2008/03/08

ディープな沖縄

080308_130801 複数の仕事が重なってきて、それらを早急に済ませなければならなくなってきたので、沖縄へ出張することになった。

先日、神奈川学習センターで行った栄養調査の一次結果が出てきたので、それを検討しようというのが、もっとも大きな出張の理由だ。那覇の首里に到着するとすぐ共同研究者のT先生が、迎えに来てくださった。

080308_130701 ちょうどお昼についたので、首里石嶺にあるそば屋(沖縄では、「すば」というらしい。)へ連れて行ってくださった。ご覧のように、古い民家を改造したもので、沖縄らしさを、味覚と同時に、視覚でも楽しめる店だ。

その後、さっそく琉球大学のO先生のところへ連れて行ってくださって、かなり綿密な議論を行う。内容については、またお話することもあると思われる。研究室を出るころには、すっかり宵闇が迫っていた。沖縄に着いて感じたのは、日差しの強さであったが、ちくちくと刺すような刺激がある。それにやさしい風が似合っているのかもしれない。

夜は、T先生の友人であるO氏が合流して、もっともディープな沖縄を案内してくださるというので、沖縄市(コザ)へ移動する。米国空軍が常駐している街だ。現在、例の問題が起こって、米軍の夜間外出禁止令が出ているため、人影はまばらであったが、店の並びや街の雰囲気からすると、日本的というよりは、インターナショナル的だという形容が合っている。

O氏はここで、出版社とFM放送局を経営なさっていて、コザの街のタウン誌も編集しているため、事情にたいへん詳しい。戦後、沖縄の人たちが各地から一斉にコザへ出稼ぎに来るようになって、それぞれが各地のコミュニティをそのままコザに持ち込んだらしい。そのため、横断的な街組織はできなかったとのことで、昨年はじめて連合会なるものができたという、きわめてホットな地域づくりの場所だ。

080308_224501中心地にあるライブハウスに席を占めることになった。この米国人のライブが、60年代のクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングからはじまって、自分たちのオリジナルまで、えんえんと3時間以上も演奏していた。懐かしかった。

ほんとうは真剣に音楽のほうも聴きたかったのだが、こちらの4人の話も白熱していたので、それができなかったのがすこし悔やまれる。

2008/03/06

陶器の交流史

080306_152301 京都の国立博物館で、「ヨーロッパ陶器展」を行っている。マイセンやセーブル、ミントンなどの、17世紀から19世紀に日本に渡ってきたヨーロッパ陶器を一堂のもとに見られるというので、これを見逃すことはできない。

卒業論文の昨年の履修者で、陶器の東西交流史を書いていらっしゃった方がいて、出来上がればたいへん素晴らしいものになったと思われるが、途中で家庭の事情で書けなくなって、残念に思っていた。彼だったら、どのようにこの展覧会を観るのだろうか、と考えながら、観て来た。

オランダのデルフトで、伊万里焼きを模倣しているのだが、その克明さはかなりの程度を超えていると思われる。また、有名な話として伝わっている、景徳鎮の窯をめぐって、有田焼が西洋でもてはやされるようになった経緯や、マイセンやセーブルの技術隠匿の歴史など、それが具体的な現物の焼きものとしてみることができるのが、たいへん興味深かった。

展示物については、あまり趣味に合うものはなかったにもかかわらず、その背景に興味深いものがたくさんあって、むしろそちらに注意を向けることになった。

たとえば、江戸期の京都茶屋中村楼に伝わっていた、英国、オランダ、フランスの陶器はたいへん面白い。外国人が使うために集めた、と説明文には書かれていたが、それだけでなく、おそらく日本人の「見せびらかしの消費」にも外国産の陶器は最適だったのではないかと推測される。

今回の収穫は、アールヌーボー期にデンマークやハンガリーなどから、革新的なデザインのものが集められたという事実である。このような20世紀のはじめにかなり現代的なデザインがすでに日本に入ってきて、けれども定着しなかったということは、やはりその後の大正文化と同様に、定着しない理由があったのだと思われる。

セーブルの一部のものにしても、ハンガリーのエオシン釉にしても、現代の作品として出品されても決して引けを取らないものだと思われる。

午前中に仕事をしてから、京都へ駆けつけたのだった。予定時間を大幅に超過して、展覧会を見学した。そのため、予約していた帰りの新幹線を見送って、3時間後の電車で家に帰ることになった。それにしても、関西にいるときにかぎって、花粉症が激しく出るのにはほとほと参ってしまった。

(写真を見ていただければわかるように、京都の国立博物館の建物には、ほんわかとしたキッチュさがある。その壁面には、天女の姿などが見られ、和洋折衷である。いかにも博物的な混交した雰囲気が付きまとっている。ワシントンのスミソニアン的な要素と同じような印象を受ける。)

2008/03/05

大正文化の断絶

大正文化については、わからないことが多くて、魅力的だ。日本における「現代的ということ」の模範を作ったことは間違いないが、なぜ途中でうまくいかなくなったのかを考えていくと、たいへん面白い。

Yamamura きょうは大阪へ取材できているが、早めについたので、午前中ちょっと足を伸ばして、「阪神間モダニズム」の建築として真っ先にあがる「旧山邑邸」を芦屋へ観にいくことにした。90年代後半から「阪神間モダニズム」の展覧会を観て以来、ずっと楽しみにしてきたが、大阪からもちょっと距離があり、神戸からもちょっとあるので、二の足を踏んでいたのだ。

Yamamura4 やはり、来てよかった。伝達されながらも、当時の日本には馴染めなかったことがよくわかった。もしこの建築が当時の日本人にすんなりと受け入れられていたならば、おそらく日本文化の相当な部分が変わっていたと思われる。けれども、結局文化というものには、いくら提供する側があっても、受容する側で条件が整わなければ、それは定着しないのだという常識的なことを示しているのだが。ほんとうのところ、これだけ素晴らしい建築が、なぜ受け入れられなかったのだろうか。

Yamamura3 この建物は、帝国ホテルや自由学園などを建てたフランク・ロイド・ライトによるものだ。1918年に設計され、24年に竣工している。ちょうど問題となる大正期の建築である。この建築に何が現れているのか、という点が問題だ。

もちろん、モダニズムが現れているのだが、並大抵のモダニズムではない、と思われる。ちょっと迂遠な言い方をするならば、凸凹が並列しているような、あるいは、四角のデザインのへりを辿っていくと、90度側面の異なる平面へ達してしまうようなモダニズムである。つまり、近代化の二つの要因が織り込まれた建築だ、と言って良い。

Yamamura2 帝国ホテルもそうだったが、大谷石の彫刻の凹凸が複雑で、当時の日本人には、あまり近代的な建築とは思われなかった可能性が高い。当時の日本人には、まだ旧体制が残されていて、それはそれでひとつのバランスを保っていたから、近代的なバランスの取れたものは、むしろ旧体制のバランスのとれたものと見分けがつかなかったのではないだろうか。おそらく、一部の人にしか理解されずに、頭の上を通過していったのではなかろうか。

「有機的建築」とライトは読んでいたそうだが、この有機性は当時の日本にとってはかなり重要であったにもかかわらず、理解されなかったと思われる。けれども、この時代にこのような有機性という考え方が形成され、日本にも影響を与える可能性のあったことを喜んでおきたい。

すこし距離はあったが、芦屋川沿いに下って、谷崎潤一郎記念館まで足を伸ばした。昼食は、芦屋駅ビルのパスタ屋さんで済ませた。菜の花のパスタが鍋のまま出てきて、アサリのだし汁が美味しかった。080306_125301

午後は、本来の資料収集へ向かうことになった。阪大の豊中キャンパスでは、梅が満開で、香りがかなり遠くまで届いていた。

2008/03/03

夜学と試験終了10分前

映画「アメリカン・ギャングスター」をチネチッタで観る。2時間45分もある映画なので、なかなか時間が合わなかったのだ。今回も、駆けつけるとすでに予告編が終わってしまっていた。

「潜水服と蝶」と二回続いて、偶然にも、男の論理で動く映画だった。もちろん、趣向は違うけれど。観客には、女性客もいらっしゃった。ギャングの世界は、女性にも興味はあるのだろうか。

もっとも、デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウという俳優を観たいというのであれば、これこそ演技が光る映画である。ふたりとも、澱みがなく流暢で、なおかつ慎重で微妙な演技が効いている。

この映画のなかで、ふたりの性格付けはたいへん綿密にできていると思う。監督の編集能力の高さを表している。デンゼル演じるフランクの世界と、ラッセル演じるロバーツの世界の織り成す文脈と、事件の現実世界とを、うまく組み合わせている。地味に人脈を作っていくときに見せる笑顔と、真面目な人生の完成を目指す方向性がはっきりしていた。

とても容認できる世界ではないが、現実の世界で、小さな悪を取り除いたとしても、代わりの小さな悪がはびこって、元の木阿弥になってしまうからと主張して、フランクは自分を自己正当化する。たしかに、この映画の中でも、大きな悪であるマフィアは温存される。

妥協として、攻撃の矛先となるのは悪徳警察官で、その摘発が行われて、映画としての昇華が起こる。社会問題としての解決にはなっていないが、映画の結末としては致し方ないところだろう。

さて、注目したのは、ロバーツ刑事が夜学に通っているから、と言って、同僚をせかせて捜査令状を待たずに、自動車を捜査するシーンである。こんなに日々何が起こるかわからない警察の仕事でありながら、夜学に通うという設定が珍しかった。

米国人の特質のひとつに、自分の信条に忠実に生きるということが当たり前である、と踏んでいるところである。わが道を行くという人間像が描かれている。ロバーツ刑事がその典型だと思われる。

夜学があるから速く済ませたいんだ、というのは、ふつうは禁句だろう。とくに、緊急の捜査などを仕事としている警察官にとっては、公務が大事だということになる。けれども、このような仕事だからこそ、夜学が意味を持つのだと思う。

映画のシーンでも、試験にあと10分です、というときに駆けつける。けれども、自信たっぷりの態度で、時計を外し、答案に取り掛かる。あのようなギリギリの勉強をした人でなければ、自信を持ってペーパーに立ち向かうという昂揚した感情は理解できないだろう。

鳥肌が立つシーンというのは、人それぞれ異なるのだが、わが意を得たりという場面はあるものだ。試験に臨んで、あるいは、論文に臨んで、このようなたっぷりとした態度を取りたいと考えたしだいである。

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『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。