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2008/02/19

潜水服と蝶

J.シュナーベル監督の映画「潜水服は蝶の夢を見る」(原題は「潜水服と蝶」)を観る。題名を見たときには、「手術台の上のミシンと蝙蝠傘」というシュルレアリスムを連想させたので、蝶のように飛んでいってしまうのかな、と思った。

それは杞憂だった。主人公のジャン=ドミニク・ボビーは、ドライブの途中で脳梗塞になり、全身が麻痺する「ロックト・イン・シンドローム」に陥る。このため、意識は健在で、聴くことだけはできるが、喋ることも書くこともできない。このため、言語療法士の示すアルファベットに瞬きで反応して、言語化が行われるのだ。

映画のなかでは、「現実」はベッドに拘束されているのだが、「想像力と記憶」は頭のなかで増殖する。すなわち、現実が「潜水服」状態を表し、想像力が「蝶」とともに飛んでいく状態を表しているのだ。

さらに、この映画の仕掛けとして秀逸で、これが真実を表していると思われるのが、「瞬きによる言語活動」が、結局主人公の生きる証であるという点である。言葉という象徴作用が、最後は現実と想像力とを繋いで、接合を果たしているのだ。

最初、シュルレアリスムの映画だと思っていたのだが、明らかに、これはJ.ラカン的世界を表していると、わたしには思われる。もっとも、まだ著書のほうは読んでいないが、おそらく小説のほうがもっとこの傾向が出ているような気がする。

読んでから書くべきかもしれないが、映画だけの知識で言うならば、潜水服状態の「ロックト・イン・シンドローム」が「現実界」であり、そこから広がっていく蝶状態の「夢の世界」が「想像界」であり、さらに目の合図で描く「本を制作する世界」が「象徴界」である。

見事なのは、全部の世界の成立・形成を統御しているのが、文字というシンボルである、という統合的な世界も明らかにしている点である。この主人公が、「エル」の編集長であった、というのも、ラカン的世界にとって幸運であったのかもしれない。

映画「潜水服と蝶」は、ひとつの神話世界を、完璧に描ききっていると思われる。現実界/想像界/象徴界という三位一体のラカン世界が、よどみなく描かれている。わたしたちの世界の当たり前の状況でもあるのだが、欠落したところがあることで、かえって隠れていた世界がくっきりと見えてしまうのだ。

もっとも、こんな論理的な解釈は、むしろこの映画を貶めてしまうかもしれない。映画「魔術師」からずっと観てきた俳優のマックス・フォン・シドーの父親役は良かったし、ユーモアあふれる主人公の自由さは、現実の状080219_164501況をダイナミックに転換してくれる。だから、観終わった昇華の程度はかなり良いと思う。お勧めしたい映画である。

きょう最後のコーヒーは、シネプレックス幕張ビル1Fのタリーズにて。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。