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2008/01/07

チラシ・ビラ・ポスターを配る

先日この欄で宣伝した神奈川学習センターで行う「沖縄料理の栄養調査」に参加するボランティアを募るために、久しぶりにポスター貼りとビラ・チラシ配りを行う。

4年ほど前までは、神奈川学習センターで機関紙を発行していたので、その宣伝活動でたびたびポスターつくりを行ったり、ビラ配りをしたりしていたので、経験がないわけではない。

けれども、このところ数年間は、まったく行っていなかったので、なんとなく勝手がうまくいかない。きょうは、近くの区役所へいって、ポスターを貼らせていただく。内容については、かなり知っているつもりなので、説明を求められればそれにお答えするのだが、なんとなく気が乗らない。

なぜかと言えば、ちょっと勝手過ぎると思われるかもしれないが、自分の作ったポスターを貼るのか、それとも他人の作ったものを貼るのかで、やはり違うことがわかった。ポスターやチラシには、その宣伝する人の個性や特色が如実に現れるのだ。したがって、貼り出すことをお願いするときの押しの強さがそこで出てしまうのだ。

ポスターのデザインが悪いわけではない。むしろユーモアがあって、好ましいポスターである。それにもかかわらず、それを宣伝する上で、気分が出ない。もちろん、わたしの性格がこのような事に向いていないわけではない。区役所の担当者にも宣伝して、興味を持ってもらうことにも成功した。だから、気が乗らないというのは、単にチラシ・ポスターが自前のものでない、ということに起因している。

じつは、わたしの研究室には、ある無名のピアニストのチラシが貼ってある。これが素晴らしいのだ。さぞかしピアノの音も良かったに違いないのだと期待を持たせるようなチラシがありうるのだ。

それから思い出したが、英国のケンブリッジに行ったときに、泊まったB&Bにおいてあったトリニティ・カレッジの聖歌コーラスのチラシ(Fliers)も、シンプルで素敵だった。単に黄色の厚紙に、トリニティのシンボルが掲げられて、その下に日時などの必要事項が記されているだけだったが、きわめて単純に宣伝効果をあげているチラシだったのだ。

もしこのようなチラシ・ポスターだったら、本当に身を入れて宣伝活動を行うところだ。やはり、デザインというのは、大切だと思う。その宣伝にぴったりあうようなチラシやポスターがあれば、自ずと説明にも身が入るのだ。宣伝は、かなりの程度、その本体を反映する、と言ってもいい、と考えている。

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