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2008/01/23

スィーニー・トッドと赤穂浪士

ジョニー・デップの映画「スィーニー・トッド」を観てきた。ウィークディにもかかわらず、女性客を中心にして、かなりの人が入っていた。やはり、ジョニーデップの人気が効いているのだろうか。

今回の映画では、19世紀を舞台にしているが、実際のトッドが生きていたのは、18世紀だったらしい。なぜこのような連続殺人がこれまで頻繁に取り上げられるのだろうか。

観ていて、復讐ということが正当化されるのはどのようなときなのか、ということがしだいに気になってきた。それでちょっと、飛躍しすぎだとは思ったが、そのことから、同時代に日本で起こった赤穂浪士の敵討ちと、(かなり異なる点も多いとはいえ、)共通する部分もかなりあると思うようになった。

今回のバートン監督の解釈は、復讐劇だ、という点にある。これまでの舞台や映画の解釈では、殺人劇として描かれたとしても、必ずしも復讐劇ではなかったということだが、この殺人を、もし少しでも正当化できるとしたら、どのような解釈が成り立ちうるのだろうか。

もちろん、スィーニー・トッドは西欧風リベンジ劇という特色があり、赤穂浪士はきわめて日本人的な復讐劇であると解釈できる。似ている点は、いずれも権力側が悪者となって、その中で善人が犠牲になるという設定である。

異なる点は、やはりスィーニー・トッドでは個人的なリベンジが問題とされているが、赤穂浪士の場合には、集団的なリベンジであり、社会正義が問われている。

この筋書きでもよいのだが、ちょっと違和感があったのが、実際に関係ある復讐の相手を殺すのは正当とみなされても、まったく関係ない人をかなりメンチに掛けてしまっているのだ。18世紀から上演されてきて、この点がどのように正当化されて来ているのかが、気になった。

もっとも、映画の出だしのところで、世に生きるものはすべて同じ穴のムジナだと言い切ってしまっており、たとえ死んでもみな同じだと言っているのだが・・・。

それにしても、ここ当分は、床屋での髭剃りは遠慮することにした。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。