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2008/01/06

「追い抜かれることの長い時間」について語るときに     僕の語ること

スポーツについては、きわめて不調法なので、これまであまりこの欄でも取り上げてこなかった。けれども、1日、2日に行われた箱根駅伝については、話題に事欠かない。

何回か劇的な追い抜きの場面が見られたが、そのなかで娘が応援していた大学の学生がいて、どうやら決定的なところで追い抜かれたらしい。妻も娘もかなり悔しがっていた。

そのときの選手の顔の表情が印象的だった。それまで、ずっと自分のペースを守ってきていて、それだけならば、そのまま自分の走りをして、確実に距離を消化でき、無事たすきをわたす事ができるはずだった。何事も起こらなかったはずであった。表情は、そう語っていた。だから、追い抜かれるという状況が信じられないし、自分のなかの想像の世界では、ありえない事態なのだ。

だから、ここで頭の中を変換して、状況に機敏に対応できていれば、たぶん表情は変わっていたのだと思う。なぜ表情にこだわるのかと言えば、じつはわたしのなかにも、この表情の経験があるのだ。

それは中学校最後の運動会で、リレーに出て、見事に追い抜かれてしまったときだ。リレーに出るくらいだから、今から考えれば、おそらくクラスのなかでも足の速いほうだったに違いないのだ。だから、まさか追い抜かれるとは思わなかったのだろう。

追い抜かれる瞬間の感覚は、交通事故で車に追突されて、時間が止まる感覚に似ている。つまり、その現場だけ、時間が極端になが~く感じるのだ。スローモーションの写真を見ているように自分だけが遅く、周りが速く動く。自分の追い抜かれるという感覚が1秒のなかに1時間分凝縮されて入ってしまい、他のことが考えられなくなってしまうのだ。目のなかには、追い抜かれる場面だけしか入ってこない。

だいたい、時間が長く感じるときは、何か悪いことが起こっている場合が多い。つまり、周りはずっと速く動いているのだ。このとき、周りと同調できれば、おそらく追い抜かれることは回避されるのだが、なかなか口で言うほど、現実は甘くない。

人生のなかで、この感覚については数えるほどしか覚えていないのはなぜだろうか。おそらく、追い抜かれても、それはすぐ終わってしまうか、追いついてカバーするかしてしまうからなのだろう。また、追い抜いたこともたくさんあったのだが、こちらのほうは終わると同時に忘れてしまうのだ。

このつぎからは、すこし追い抜かれることを楽しんでみることも必要ではないかと考えている。折角、他の人よりも、長い時間が与えられるのだから、そこで他の人には考える事のできない時間をたっぷりともらったということではないだろうか。

競走や競争をしていて、その場面で観照に入ってしまうのはまずいが、それが終わって落ち着いたら、楽しんでもよいだろう。O先生ご推奨の村上春樹も言っている。「本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしてしか獲得できないものなのだ。」

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。