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2007/10/02

『石のささやき』

トマス・H・クックを読み出すと、時間が止まってしまう。そうゆう贔屓の作家はそう何人もいるわけではないが、本が出るたびに気になってしまう。

今回も溜まっている仕事があるから、しばらく自制して、本屋へ行っても、文春文庫のコーナーは避けて通っていた。ところが、K大学の授業が始まって、大学生協ならば売り切れてもう書棚にもないだろう、と見ると、クックの新著『石のささやき』がまだ残っている。

「おまえは自分が透明な流れだと思っていた。こどものころから頭に詰めこまれ、のちに記憶の底に埋葬された膨大な事実や引用句、そういう知識の断片はすっかり洗い流されて、いまやただの「映画好き」になったと思っていた。」という書き出しに、ぐっと引き込まれ、一気に読んでしまった。

重苦しさは、いつものとおりだ。それに、低く続いて、卑屈さや屈辱や混濁が伴っている。苦痛と快楽は、紙一重なのだ。

ロビンソン・クルーソーのように、(また引き合いに出して申し訳ないが、)人生の貸し方と借り方の勘定をみると、貸し方に分があるという楽観的で積極的な生き方は、この本のどこにも見つからない。おそらく、クックの場合には、貸し方と借り方では、バランスは借り方にぐぐっと傾くというところだろう。

三つの死がストーリーにかかわっている。一番目と二番目の死が起きたところから、この物語は始まる。そして、三番目の死がいかに起こるかが、この本のサスペンスの中心にある。

伏線は、それこそあちこちに張り巡らされている。その伏線のうち、どれが顕在化してくるのかは、まったく予断を許さない。はらはらする。ちょっと違うかな、いらいらかもしれない。でも、クックの場合は、それに耐えて耐えてようやく結末に到達するのだ。

ときには、あまりに心の奥底に入り込んでしまうために、その登場人物の人格までも同一性を失ってさえしてしまう。と思わせて、読者を戸惑わせ、異化し、別の世界へ誘う。ここまで意図的に筋を運んでいるとしたら、もう脱帽なのだ。

伏線のひとつに統合失調症に対する理解という、重いけれど興味を惹く点がある。題名にもあるように、「石のささやき」のようなことが、世の中で起こったとしたら、もの凄いことになるだろう。

まわりにあるものすべてが、何かをささやき始めたら、そして、自分の行動に対して、物がどんどん情報を運んできたりしたら、どういうことになるだろうか。

じっさいには、統合失調症の人でなくとも、わたしたちは「石のささやき」のような情報をたくさん受けているのだろう。けれども、そこで何が重要なことで、何が重要でないことなのかを選んでいるのだ。これらのほとんどの情報は、消去してしまっていて、潜在的にしか意識されていないのだろう。

けれども、ほんとうに重要な情報、たとえば、殺人の目撃証言のようなことが、「石のささやき」として引き出されることになれば、これは大変なことだ。この本のポイントは、そこにあると思う。このように考えてしまう世界が、現実に存在していて、そのように考える人びとがいて、彼らと、いったいどのように付き合っていったらよいのか、を描いているのだ。

最後はたぶん悲劇になってしまうかもしれないが、それでも最後まで立ち会っていかなければならない状況というものは、現実に存在するのだ。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。