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2007/10/19

バス研修旅行とプリンシプル

Img_0012web6月のこのブログで予告した神奈川学習センターのバス研修旅行が、きょう行われた。JFEの製鉄所見学と、白洲次郎・正子の「武相荘」をまわるという企画だった。宣伝のために、「日本のプリンシプルを探る」という、ちょっと大きな副題を付けた。

天気予報では、午後から雨が降るという、あいにくの天気になりそうであったのだが、参加者の行いが飛びぬけて良かったらしく、雨女・雨男の参加もものともせず、結局午後5時の解散、そしてその後の二次会の前まで、どうやら雨に祟られることから免れた。

写真を見ていただければわかるように、製鉄所の高炉もすっきりとした秋の顔を見せている。今回、原料貯蔵地、転炉、圧延など見所がたくさん存在した中でも、やはり高炉は製鉄所のシンボルだなと改めて思った。

Img_0021web_2  今回説明に当たったJFEの方は、懇切丁寧に質問に答えてくださって、日ごろ疑問に思っていたことが、良くわかった。たとえば、高炉のなかで、どのようなことが起こっているのか、ということは、文科系のわたしにとっては、前から疑問の中心であった。化学式で書けば、鉄鋼石である酸化鉄と、コークスの炭素を反応させて、鉄から酸素を取り除く、という単純なことに相違ない。

けれども、1200度の熱風をしたから送り込んで、高炉の中核でどのような離反と結合が同時に行われるのかは神秘的な過程だと思っていた。炉心と呼ばれるところにはじっさい何があり、その周辺でどのような化学変化が起こっていて、最終的な銑鉄がどのようにして一番下の部分へ降りてくるのか、わからなかったのだ。

Img_0019web_2 もちろん、なかを覗いた人は1人もいないので、ほんとうのところは、つまり鉄と石灰岩と、コークスがどのように渦巻いているのかは、誰も知らない。芸術作品と同様に、中の様子はそれこそ偶然がかなり支配しているものと考えられる。出銑するたびごとに、銑鉄はかなり均質であるとはいえ、おそらくじっさいの品質は毎回微妙に異なるのだと思われる。

けれども、おおよそのところ、現場にいる人は想像しており、じっさいその想像通りの成果物が高炉から流れ出てくるとは思われる。ここで、コンピュータ制御で均等な品質が実現できているかのように喧伝されているのだが、じっさいのところが知りたかった。現場に近づけば近づくほど、良い出来のものと、出来が悪いわけではないが、微妙に違いのあるものが存在することが分かって面白かった。

英国のアイアンブリッジというところに、18世紀の製鉄の町が再現されていて、10年ほど前に、最初にコークスを使った高炉跡などを取材したことがある。圧延作業では、人と人とが、互いに向き合って、鉄の棒をミルに通して圧延していた。この作業よりは、今回の工場が生産する製品の品質は格段によくなっているだろうが、微妙な違いはまだまだ存在するに違いない。

4年前に、八幡製鉄所で銑鋼一貫過程を取材させていただいたが、どうゆうわけか、製造過程をビデオに納めるのはなかなか認めてくれなかった。今回の工場でも、その外見については、ここに掲げた写真のように撮影が許可されているのだが、いざじっさいの製造過程の現場の写真となると、まったく撮らせてもらえなかった。

もっとも、銑鉄が湯口からどっと流れて、戦車を載せたような運搬列車に積まれる場面や、転炉に石灰が入れられ、鋼になるときの炎や、さらに厚板がローラーの上をすべってきて、50メートルほどの薄い板に変化していくときの熱い皮膚感覚は、到底撮影では再現できないから、かえって撮影禁止はこの感覚を研ぎ澄ますにはたいへん良かったと、今になって思う。

中華街へ戻って、ランチを食べた後、白洲邸として名高い「武相荘」を訪れた。わたしが一応今回のバス研修旅行の当番に当たっていたので、型どおりの年表にしたがった説明と若干の印象をしゃべらせていただいた。やはり核心となるのは、第一次世界大戦以降の日本社会のなかで、なぜ日本人のほかの類型と異なる一群の人びとが成立しえたのか、という点にあると思われる。プリンシプルと直感をバランスさせた一群の存在が、日本人の幅を大きくしたと思われる。

その意味でも、製鉄所のシンボルが高炉であるように、白洲家のシンボルとして「武相荘」があると思われる。この家は、農家を移築したものだが、玄関をはいると、かつては土間であったところに、タイルが敷き詰められていて、素敵なリビングが構成されていた。

Img_0031web 茅葺の農家が、伝統を生かしながらも、作り変えられて、独特の感覚の空間を構成しているのだ。それは、かなり仕合せな空間だった。黒く使い込んだ柱と漆喰の白い壁のバランスが、デザインされたものと違う、自然な輝きを見せている。白洲正子の文章では、この家について「自然の野山のように、無駄の多い」家だと著わされていた。

もちろん、家の佇まいは素敵だったが、家の中に掲げられた二つある扁額の言葉もかなり素敵だった。ひとつは福沢諭吉の「束縛化翁是開明」というもので、いかにも福沢らしい意味が込められたものだ。これに対して、もうひとつが、とびっきり良かった。

「何事非娯」という正子の祖父樺山資紀のものだ。「どんな事でも楽しみにならないことはない」という意味だそうだ。この精神があったからこそ、このふたりの生活があったとも言えるような文だと感じた。

きょう最後のコーヒーは、蚕小屋を改造したといわれている、天井が高く、上の壁と下のガラス戸と両方から光が入って、アトリエのごとくの空間を実現している、この「武相荘」のお茶処で一服。

帰りに、人気のなくなった母屋をもう一度拝見して、作り付けの書棚と、やはり家に付いた箪笥の落ち着きを記憶にしまって、集合場所のみんなに合流した。生活のほんとうの豊かさとは何かを考えさせられた、「武相荘」訪問となった。

そして、日ごろご無沙汰している学生の方がたと親交を深めることが出来たことが、本日最良の収穫であったのは、もちろんのことである。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。