« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月に作成された投稿

2007/10/30

肥満度とステーキランチ

Body Mass Index (BMI=体重÷身長÷身長)という、有名な指標があって、この値が25以上で肥満と判断される。わたしたちの世代だと、約30%がそれに該当する現状だそうだ。今日では、ほとんどの人がこのBMIを日常会話で使っているほどだ。

かなり前になるが、卒論のテーマで肥満を書いた人がいて、日本にも本格的な肥満の時代が到来したことを知った。当時は、栄養学的なことでは知られていたが、まだこの事に対する日本人の社会的関心があまりなくて、文献を探すのに苦労なさったようである。

それが今日では、50歳代では、3人にひとりが肥満である。したがって、日本人のその方面の知識のなかには肥満注意という考え方はかなり定着してきている。数年前に、『デブの帝国』という、なぜ米国で肥満が増えたのかを分かりやすく解説した本を読んでから、さらに興味を持つようになった。脂肪ばかりか、炭水化物が肥満の原因で大きいこともこのとき知った。

最近になって、定年を迎えた老年の男性が街に大量に出回るようになって、独特なライフスタイルを見せるようになっている。そのなかで、ホームなどで電車を待つ間に、スナック菓子やアイスクリームなどを頬張る人を見るようになった。

わたしもこの心境をすこし理解できる年代に差し掛かっている。甘いものを食べると、なんとなく落ち着く気がするのだ。それは肥満願望とでも言えるような衝動も含んでいて、社会のなかの肥満文化を底支えしていると思われる。

苦味や、渋味という味覚は、社会のなかで「労働」と結びつく事が知られているが、甘味(や辛味)は、おそらく「快楽」や「解放」というイメージと結びついているような気がする。労働文化から快楽文化へ、定年と同時に転換するのではないか。もっとも、R・バルトのように、極度に肥満を嫌う方もいて、単純な快楽文化とは異なるだろう。そのうち、調べてみたい。

ということで、やはり前書きが長くなってしまったが、最近の食事の免罪をしておこう、という企てである。じつは、3週間連続で、ステーキランチに通い、生クリームが一杯かかったワッフルにかなり満足を覚えている。きょうは、いつも現代GPのホームページ作成でお世話になっているTさんを誘って、また先週行ったばかりの「ステーキ共和国」へはいってしまった。最後のフルーツ食べ放題まで、フルコースをまたまたこなしてしまった。

昼食のあと、生活と福祉のカンファレンス室へ伺うと、F先生、H先生、M先生、N先生が会食なさっていたので、雑談に加わった。そこでも、BMI増大の共犯者を作るべく、ワッフルの宣伝を行ってしまった。もっとも、この専攻には健康科学の専門家たちがいらっしゃるし、そもそもスリムな体型の先生方が多いから、いくら勧めても問題ないと思われる。

さて、現在のところのわたしのBMIはどのくらいなのか。計算によると、25にぎりぎりの23を示している。この調子でステーキランチ(あるいは甘いワッフル)を続ければ、いずれは25を超えることになるだろう。ちょうど限界に差し掛かっている。「デブの帝国」へ入国する、あるいは帰化する転換期を迎えている。

2007/10/28

大学院の筆記試験

10月も終わりに近づいている。窓から紅葉が見えて、昨日の嵐のような雨をまったく想像できない。きょうの青空はまぶしかった。

朝、同僚のH先生と試験室に向かう途中、良い季節になりましたね、と互いに言う。ほんとうに、こんな日に大学院試験とは、受験生もたいへんですね、と暗黙の声が聞こえてくる。

考えてみれば、一般の大学ならば、9月ごろに大学院試験は済ませてしまっているのではないだろうか。けれども、放送大学では、通常のスクーリングは少ないので、それと並行して試験を実施している。

仕事から頭を切り替えた受験生がぞくぞくと集まってきた。記述式の試験だけなので、学部の試験と勝手が違って、ちょっと戸惑ったが、K先生やH先生が冷静だったので、なんとか切り抜けることができた。

自分の大学院入試のことが思い出された。今を去る30年ほど前に、都内の大学院を受験した。筆記試験だけで2日間あり、近くのお茶の水に宿をとって、泊り込み、そこから歩いて通った。

試験はその2日間だったが、準備の試験勉強を友人と行おうということになった。その宿は、キリスト教系の経営するところだったので、宿代がたいへん安かったこともあり、1週間ほど泊まることになった。

いまから思えば、よく資金がつづいたと思う。その宿のビルは、お茶の水の南にあったので、散歩がてら、本屋を見て回った。歳の暮れに近かったせいか、当時最も盛っていた本屋の三省堂の出版部が、そのとき突然倒産したのを覚えている。

夕飯には、神保町界隈の安い食事屋を転々とした。良い喫茶店がたくさんあったのだが、入る余裕がなかったのが、いまから思えば残念であった。

1週間の泊り込みは、幸いなことに功を奏して、かなりの成果を挙げることができた。試験勉強で、こんなに目覚しく成績に反映されたのは、これまでなかった。他の先生から、運も実力だよ、と励まされた(?)。それは、当たっていると思った。

このように筆記試験は、意外に簡単にすり抜けたのだが、そのあとの論文審査が作成・提出を含めて、3ヶ月間に及んだのには、参ってしまった。このことでは、放送大学の学生の方に対して、論文の催促などできる資格がない、というところだ。あるいは、これで苦労したから、学生の方には早く提出したほうが良いよ、と言えるのかもしれないが・・・。

論文審査が厳しかったのだろうか。わたしたちの次の年には、筆記試験が通って、論文審査中の受験生が、ふたりも自殺したことがあった。昔の大学院入試は、生きるか死ぬかの問題だったのだ。それは、精神的には、今でも変わらないだろう。

放送大学の場合には、今後面接審査があるのみだ。論文は入ってから書けばよいから、すこしは気が楽だと思う。また、幕張で受験生とはお会いすることになる。仕事との両立は難しいかもしれないが、気持ちを整えて臨んでいただきたい。

2007/10/27

コーヒーの出前

横浜にかつてあったキイコーヒーの古い写真には、鍵の商標を掲げた窓があり、その前に丁稚の出前用の自転車が写っていた、と記憶している。ちょっと前までは、京都三条のイノダ・コーヒーでも同じ光景があった。

コーヒーについての講演会が1週間後に迫ってきた。せっかく、地元の「横浜」についての講演なので、遊び心あふれた会にしたいと考えた。そこで、出前のコーヒーをとろうということになった。昔のコーヒー気分を復活させて、明治時代へタイムスリップしようという魂胆なのだ。

それに1昨年、アメリカの大学を回ったときに、セミナー室には必ずコーヒーのジャーが置かれていて、いつでも飲める状態にしてあった。どこに行っても、スターバックスか、タリーズが届けられているのだ。それだけでなく、クッキーや、さらにお昼時にかかればサンドウィッチなどがいただけた。

そういえば、シアトルのマイクロソフトのセミナーには、別室が用意され、朝食として日本人用にご飯までが用意されていた。シアトルだから、コーヒーは当然スターバックスかといえば、そうではなく、シアトル系にはたくさんの種類があることを知った。もっとも、シアトル系のカフェラテが、米に合うかどうかは、好みの問題だ。

さて、出前コーヒーについては、ここへきて、難航している。日本のスターバックスには、「ポット・コーヒー」というシステムがあって、15人分ずつポットにいれて売り出すのはやっているらしい。けれども、それを届けてくれるかといえば、それは別で、店によって対応がことなるとのこと。きょう電話した二軒のスターバックスは、取りに来てくれるなら、用意できるが、出前はちょっと・・・と断られてしまった。

それでは、というので、競争相手のタリーズへ電話すると、すんなりと出前いいですよ、といってくれた。ところが、出前は5分以内の地域に限られるらしい。それはそうだ。5分すれば冷めてしまう。その店は、ランドマークビルなのだが、野毛山の中央図書館まで、5分で着くのだろうか。

他の喫茶店に頼むことも考えた。ケイタリングやホテルの出前も聞いてみた。ところが、圧倒的に値段が高いのだ。到底、スターバックスやタリーズと競争できる価格ではない。すこし遊ぼうとすると、やはり日本のサービス業には限界があるのだ。

というわけで、まだ決定にいたっていない。もちろん、自分で淹れたらよいだろう、という究極の選択肢はあった。けれども、当初受講者30名を予定していて、それならばとも思っていたが、途中であまりに申し込みが多いので、50名にということになり、コーヒーを自分で用意するのは諦めた。

麹町の文藝春秋ビル前の喫茶店では、編集会議などから出前の呼び出しがあるとカップをもって直ちに飛んでいくのだ。このようなコーヒーの出前は、大きな会社では、ひところ、当たり前の風景だったと思う。ところが、現代では、数えるほどしかないのではないか。出前という良い習慣は、残したかった。

もうすこし方法を考えて、やっぱり出前コーヒーをなんとか実現させよう、と思う。さて、その成否は、当日図書館で!

2007/10/26

プロポーザルの先

日常生活に言いっぱなしがあるごとく、すこし長期にも、プロポーザルという、先のことはとりあえず考えないで提案だけ行ってみる、という生活習慣がある。

お恥ずかしい限りだが、じつはこのプロポーザルを書くことが好きだ。考えていると限りがなく、空の彼方まで飛んでいけそうになってしまう。けれども、すでに地の果てという空間的な冒険が不可能になってしまった現代人にとっては、プロポーザルは必要不可欠の冒険のひとつになっているのではないかと思う。

夕べも、科学研究費の申請を書いていた。他の人を巻き込んでいるので、そんなに無責任なことはかけないが、それでも飛翔してしまう、悪い癖がある。

そのなかで、通称「エフォート」と呼ばれる欄があって、自分の仕事全体のなかで、今回の研究にどのくらいの比重を持たせるのかを問う欄がある。

客観的にみて、真剣に取り組む人に科学研究費を配ろうということで、エフォートの低い人は排除したいという趣旨だろう。それは競争的な政策ではかなり合理的な考え方だが、みんな正直に答えるかどうかは分からない。

つまり、明らかに、プロポーザル一般について言えることは、提案の時には、とりあえず一生懸命なんだが、いざじっさいに研究を行うのは、成り難し、というところだろう。けれども、どのくらい真剣なのかが、そのときプロポーザル作成に問われるということ自体が、重要なのだと思われる。

昨日も、徹夜した。これほどまでして、研究を増やし、毎日がまたこれで忙しくなるなあ、と考えつつ、またまた没頭してしまった。もちろん、最近はかなり競争率が高くなって、4人か5人にひとりだから、あまり期待しても仕方がないのだが。

さらに、お恥ずかしいことだが、科学研究費ではないけれど、じつは今年になってから、大きなものでもプロポーザルを5つ以上を書いた。それぞれひとつの小さな論文ほどの長さがあり、やはり夕べと同じように、最後は徹夜になってしまう。

この5つのプロポーザルの活動主体は、じっさいには、わたしではない、というところがプロポーザルらしいところだ。まったくわたしと関係ないわけではないが、それでも、ほぼ「言いっぱなし状態」が保証されていたものばかりが、この期間に集中した。

金銭が絡んでくるとたいへんなのだが、プロポーザルを書くほうにとっては、そんな事はお構いなしで、夢みたいだと自分でも思える事を空想してしまえることが恐ろしいところだ。そのなかのひとつは、もし実現していたら、数十億円が必要であったのだが、選んだ人が懸命だったのか、それとも、二の足を踏んだのか分からないが、当然とはいえ採用されなかった。

さて、経済学者のシュムペーターは、ヴィジョンということを重視したことで、有名である。この場合、単なる夢物語ではなく、むしろ活動の前には、このようなイメージによる戦略が必要であることを説いていて、極めて説得的な考えだと思われる。

プロポーザルは、明らかにヴィジョンとは異なっていて、かなりロマン的な雰囲気を持つ言葉だ。それは、結婚の申し出のときに使われる言葉であることからも分かる。けれども、そればかりでなく、やはり将来というものがロマン的な存在であるからだろう。

プロポーザルを専門に書く立場から見ると、このような提案に対して、これを受ける立場の人びとがどのような反応を見せるのか、というのは、たいへん楽しみである。

なかには、感性に鋭い方がたがいて、たいへん勉強させられる。先日起こった事は、おもわず、これはしたり、と膝を打ちたくなってしまったほどだ。

先日、わたしの関係したプロポーザルが、問題になった。わたしはあることを中心にして書き込んでいたのだが、どういうわけか、じっさいの提案ではその中心が抜かれてしまっていた。

ところが、その抜かれたために、論理がおかしくなっていることに、目ざとく反応なさった方がいて、さすがだな、と感じた次第である。その方は、まったく抜かれて出てきたという事実はご存じないはずである。世の中には、思った以上に目利きという方がたが存在するのを、目の当たりにした。

これだから、プロポーザル書きはとうぶん止められそうにない。「プロポーザルの先」については、書く立場のほうがよく見えるのか、それとも、それを受ける立場のほうがよく見えるのか、それはそのときの風だけが知っている。

2007/10/22

夜間大学の非常勤講師

K大学の非常勤講師をはじめてから、25年ほどになる。京都大学へ移ったM先生の紹介で、すでに物故してしまったが、金沢大学へ移ったT先生が特別に世話してくださった。

最初の授業は、やはり印象深くて、今でも覚えている。学生たちは何を間違えたか、教室の前から後ろまで、4人掛けの椅子で一杯に詰めて座っていた。満員の出席状態だった。

今ちょうど、K大学が横浜専門学校と呼ばれていたころの写真や、卒業証書、先生方の紀要などが、附属図書館に展示されていて、当時の熱気が伝わってくる。やはり、ビジネスに関係した人びとから、この大学は支持されたのだろう。それは、夜間の学部が設けられていたことからも、察せられる。展示によると、「勤労青年のために、夜間部を設けた横浜初の高等教育機関であった」とのことであった。

その伝統ある二部夜間の授業も、昼間と一緒に受け持つことになったが、何年目ころからか、途中から夜間の受講生数が大幅に減っていった。ある年には、わずか2名というときもあった。

ついに数年前に、夜間が廃止されることになり、来年度は最後の4年生が残るのみとなる。そこで、夜間の授業科目を整理するらしい。きょうは、経済学部のY先生と話して、来年度は昼間だけに限って開講することにした。

そもそも、経済学を教える先生になりたいと思ったのは、夜学で教えたい、ということがひとつの動機になっていたので、今回の件はたいへん残念である。やはり、夜は勉強に向かないのだろうか。そんなことはないと思うが・・・。夜間学校(イブニング・スクール)という響きはとても素敵だと思う。

今回の件は、K大学の決定なので仕方がないとしても、放送大学でも制度はあるので、なんとか夜間コースを作ってみたいと思った。

来年度は、したがって、K大学へ通うとしても、たっぷりと図書館へ寄る時間的な余裕ができる。夜間講義が廃止されたことは、かえすがえすも無念、というところだが、他方で図書館での勉強がほぼ週一日確保できた、という点では、かなり喜ぶべきことだと思い直したしだいである。

2007/10/20

バーナード・リーチの楽焼

締切というものがあるから、論文を書く気になるのだ。学生の方や、他の人のことをとやかく言うより、自分の締切が気になる今日この頃である。それで、きょうは1ヶ月後に締切が迫った卒業研究のゼミナールがある。

茗荷谷の東京文京学習センターへ出かけた。みんなで集まるのはこれが最後だから、昼食を一緒に食べようということになり、午前中に1人の発表を済まし、ゆっくりと散歩しながら、ゼミ生全員で播磨坂にあるパスタ屋さんTantaRobaへ出かける。

先日は予約が一杯で断られてしまったが、きょうはすんなりと席を占めることが出来た。ランチメニューは、カジキマグロと、カラスミのかかったシンプルなパスタ、それにハムとサラダと温野菜が、大皿に盛り付けられているものだった。評判に違わず、美味しかった。それに、桜並木に向かって開け放たれたベランダ続きの店構えがたいへん良い。

開放感があるから、ゼミの面々とのおしゃべりも十分に楽しむことができた。昨夜ゼミのレジュメを切りながら、このブログを読んだとおっしゃるKさんが、白洲一族の性格のところが気になり、「日本人の類型」ということを話題に取り上げたりして、話が弾んだ。

昨日も気になっていたのだが、やはり白洲一族は金持ちで上流なので、海外留学もでき、日本人のなかでも国際派を形成することができた、ということは認めなければならない。けれども、後世にとってみるならば、上流であれ下流であれ、日本人の可能性には変わりはないだろう。日本人全体にとっての生活・考え方の幅を広げることができたのではないか、ということだと思う。

白洲次郎に典型的に見られるように、人間には「発展のパターン」というものがあると思う。たとえば、すこし強引な話のずらし方であるが、論文の例に換えて考えてみたい。最初はなかなかうまくいかない。資料収集にしても、構想にしても、文章にしても、まったく五里霧中の状態だ。延々と続けても、ずっと低迷が続くのだ。そのようなパターンもある。

きょう、家に帰ったら、ちょうどクリント・イーストウッドの『ミリオン・ダラー・ベイビー』がテレビでかかっていて、ロードショーをみたにもかかわらず、再度観てしまった。そこで、主人公の女性ボクサーがこれまた延々と練習、練習を続けるのだ。32歳になっても、練習を続ける。

基礎練習を続けていると、最初は低迷状態から脱することはできない。ところが、ある時期になると急に累積的な発展が生じ、目に見えて指数的な曲線を描くように急上昇の気流に乗っていくようになる。論文の場合、いつそのようなブレイク状態になるのかは、まったく予測できない。けれども、きっとそのようなときが訪れる。

学習曲線というのがあって、何事を習得するにも、S字を描くのだ、と言われた。このS字曲線だと、途中で中休みというか踊り場があって、一時的に停滞した後、再び急激な発展に転ずる、という発展パターンを示す。

けれども、おそらく、S字理論よりも、むしろ最初も停滞し、途中までも停滞は続くが、そののち指数的な大発展をとげるモデルのほうが、一般的ではないかと思う。なぜそうなるのかについては、諸説があって興味深いが、またの機会に考える事にしよう。

さて、ゼミ発表のほうは、最後なのでたっぷりと時間をかけた。結局終了したのは、午後5時前だった。じつは、きょうはこんなに遅くなるとは思っておらず、展覧会へ寄る事にしていた。もう間に合わないだろうけど行ってみよう、と駆けつけたのだ。

汐留の松下電工ミュージアムで、バーナード・リーチ展が開催されている。6時までだと言われたが、5時半を回っていて、どうしようか迷ったが、無理して入館する。メインのものは、日本民藝館や京都の大山崎美術館で見たことのあるものであったが、それでも見過ごしていたような佳品が数多く展示されていた。

Leach なかでも、兎模様の楽焼は良かった。先日のセントアイブスのアルフレット・ウォリスにも通ずるのだが、部分部分がそれぞれ分離して、勝手に動いているが、全体として調和している。そのような構図が自由さを現しており、それを古い技法で再現しているところがたいへん素晴らしい。

それから、お土産にリーチ特有のデザインが描かれた小皿を購入した。これに何かをいれると、せっかくの模様が隠れてしまうので、何を入れたらよいのか迷っている。

2007/10/19

バス研修旅行とプリンシプル

Img_0012web6月のこのブログで予告した神奈川学習センターのバス研修旅行が、きょう行われた。JFEの製鉄所見学と、白洲次郎・正子の「武相荘」をまわるという企画だった。宣伝のために、「日本のプリンシプルを探る」という、ちょっと大きな副題を付けた。

天気予報では、午後から雨が降るという、あいにくの天気になりそうであったのだが、参加者の行いが飛びぬけて良かったらしく、雨女・雨男の参加もものともせず、結局午後5時の解散、そしてその後の二次会の前まで、どうやら雨に祟られることから免れた。

写真を見ていただければわかるように、製鉄所の高炉もすっきりとした秋の顔を見せている。今回、原料貯蔵地、転炉、圧延など見所がたくさん存在した中でも、やはり高炉は製鉄所のシンボルだなと改めて思った。

Img_0021web_2  今回説明に当たったJFEの方は、懇切丁寧に質問に答えてくださって、日ごろ疑問に思っていたことが、良くわかった。たとえば、高炉のなかで、どのようなことが起こっているのか、ということは、文科系のわたしにとっては、前から疑問の中心であった。化学式で書けば、鉄鋼石である酸化鉄と、コークスの炭素を反応させて、鉄から酸素を取り除く、という単純なことに相違ない。

けれども、1200度の熱風をしたから送り込んで、高炉の中核でどのような離反と結合が同時に行われるのかは神秘的な過程だと思っていた。炉心と呼ばれるところにはじっさい何があり、その周辺でどのような化学変化が起こっていて、最終的な銑鉄がどのようにして一番下の部分へ降りてくるのか、わからなかったのだ。

Img_0019web_2 もちろん、なかを覗いた人は1人もいないので、ほんとうのところは、つまり鉄と石灰岩と、コークスがどのように渦巻いているのかは、誰も知らない。芸術作品と同様に、中の様子はそれこそ偶然がかなり支配しているものと考えられる。出銑するたびごとに、銑鉄はかなり均質であるとはいえ、おそらくじっさいの品質は毎回微妙に異なるのだと思われる。

けれども、おおよそのところ、現場にいる人は想像しており、じっさいその想像通りの成果物が高炉から流れ出てくるとは思われる。ここで、コンピュータ制御で均等な品質が実現できているかのように喧伝されているのだが、じっさいのところが知りたかった。現場に近づけば近づくほど、良い出来のものと、出来が悪いわけではないが、微妙に違いのあるものが存在することが分かって面白かった。

英国のアイアンブリッジというところに、18世紀の製鉄の町が再現されていて、10年ほど前に、最初にコークスを使った高炉跡などを取材したことがある。圧延作業では、人と人とが、互いに向き合って、鉄の棒をミルに通して圧延していた。この作業よりは、今回の工場が生産する製品の品質は格段によくなっているだろうが、微妙な違いはまだまだ存在するに違いない。

4年前に、八幡製鉄所で銑鋼一貫過程を取材させていただいたが、どうゆうわけか、製造過程をビデオに納めるのはなかなか認めてくれなかった。今回の工場でも、その外見については、ここに掲げた写真のように撮影が許可されているのだが、いざじっさいの製造過程の現場の写真となると、まったく撮らせてもらえなかった。

もっとも、銑鉄が湯口からどっと流れて、戦車を載せたような運搬列車に積まれる場面や、転炉に石灰が入れられ、鋼になるときの炎や、さらに厚板がローラーの上をすべってきて、50メートルほどの薄い板に変化していくときの熱い皮膚感覚は、到底撮影では再現できないから、かえって撮影禁止はこの感覚を研ぎ澄ますにはたいへん良かったと、今になって思う。

中華街へ戻って、ランチを食べた後、白洲邸として名高い「武相荘」を訪れた。わたしが一応今回のバス研修旅行の当番に当たっていたので、型どおりの年表にしたがった説明と若干の印象をしゃべらせていただいた。やはり核心となるのは、第一次世界大戦以降の日本社会のなかで、なぜ日本人のほかの類型と異なる一群の人びとが成立しえたのか、という点にあると思われる。プリンシプルと直感をバランスさせた一群の存在が、日本人の幅を大きくしたと思われる。

その意味でも、製鉄所のシンボルが高炉であるように、白洲家のシンボルとして「武相荘」があると思われる。この家は、農家を移築したものだが、玄関をはいると、かつては土間であったところに、タイルが敷き詰められていて、素敵なリビングが構成されていた。

Img_0031web 茅葺の農家が、伝統を生かしながらも、作り変えられて、独特の感覚の空間を構成しているのだ。それは、かなり仕合せな空間だった。黒く使い込んだ柱と漆喰の白い壁のバランスが、デザインされたものと違う、自然な輝きを見せている。白洲正子の文章では、この家について「自然の野山のように、無駄の多い」家だと著わされていた。

もちろん、家の佇まいは素敵だったが、家の中に掲げられた二つある扁額の言葉もかなり素敵だった。ひとつは福沢諭吉の「束縛化翁是開明」というもので、いかにも福沢らしい意味が込められたものだ。これに対して、もうひとつが、とびっきり良かった。

「何事非娯」という正子の祖父樺山資紀のものだ。「どんな事でも楽しみにならないことはない」という意味だそうだ。この精神があったからこそ、このふたりの生活があったとも言えるような文だと感じた。

きょう最後のコーヒーは、蚕小屋を改造したといわれている、天井が高く、上の壁と下のガラス戸と両方から光が入って、アトリエのごとくの空間を実現している、この「武相荘」のお茶処で一服。

帰りに、人気のなくなった母屋をもう一度拝見して、作り付けの書棚と、やはり家に付いた箪笥の落ち着きを記憶にしまって、集合場所のみんなに合流した。生活のほんとうの豊かさとは何かを考えさせられた、「武相荘」訪問となった。

そして、日ごろご無沙汰している学生の方がたと親交を深めることが出来たことが、本日最良の収穫であったのは、もちろんのことである。

2007/10/17

30秒の言葉

今回「インターネット配信」実験ということを隣のNIMEと共同で行っている。それで、30秒の言葉で、実験の意義を言ってください、という放送大学の広報番組「大学の窓」からの依頼があった。

世の中には、10秒であっても、ピリッとした言葉を発して、人のこころをつかんでしまう名人がいる。けれども、どうもわたしは、短い言葉が苦手らしい。

じつは、この30秒というのが、曲者であった。2分ならば、言いたいことに余裕を持たせることができるし、多少間違えたり言葉が足りなかったりしても、言い直しができる。ところが、30秒というのは、せいぜい3センテンスか4センテンス(これを文章といったら、文じゃないですか、とAさんから指摘があったので、今回はセンテンスにしておきたい)しかしゃべることができない。

という言い訳は、いくらでも出来るが、じっさい、附属図書館へ行き、先日も朗読で世話になったFさんから質問を受け、いざしゃべろうとすると、うまくいかない。このような訓練を受けていない、わたしのような者には、30秒でというのはそもそも無理なことなのだ。二、三日で外国語をしゃべりなさい、というのに似ている。

ようやく、自分で書いたものをSディレクターから見せていただいて、最初の状態を思い出したら、うまくいった。けれども、どうみても、5回も失敗しなければ、通常のしゃべりの状態を回復できないことからみると、すくなくともアナウンサーには向いていなのは確かだ。

やはり、Fさんのようなプロを前にしてしゃべろうとして、無理をしたらしい。よく考えてみると、自分のしゃべり方の特徴がここには現れていると思われた。

ストレートで直接的な言葉を好むタイプと、間接的で周り廻った言葉を好むタイプと、ふたつあるとしたら、わたしは明らかに後者だ。

なぜ後者になるのかといえば、それは簡単で、いつも複数の可能性をつねに考えようという性分があるのだということだ。いつも行っていることだが、しゃべりながら、この複数の可能性のなかから、ひとつ選んで、実際に伝える言葉としている。30秒にそれを込めろ、と言われた途端に、この可能性の全部は入らなくなってしまうのだ。

たとえば、30秒の言葉には、日常用語でよく反対の言葉をいれて強調することを行うが、それが出来ない。「~ではなくて、~です」という言い方は、30秒には入らないので、「~は~です」ということになる場合が多い。

このとき、おそらくなのだが、潜在的に言葉の同一性障害を起こしているのだと思われる。瞬間的に、その単一に選ばれた言葉を拒否してしまうのだ。

先日、ベテランのアナウンサーの人が、対談を行っていて、若いときに言葉の最初の音を出すことができなくなる、という障害をもった、という話をしていた。

わたしの場合は、それほど大事ではないとしても、発音を拒否するというほど深刻なものではなく、単に30秒で言葉を収めることができない、ということだけなのだが、深刻に考えれば、いろいろな理由をつけることが出来そうだ。けれども、うまく言えなかったことを、こんなに楽しんでしまい、反省して直そうとしないのは、やはりテレビ向きではないということかもしれない。

帰りの玄関を出たところで、英国の社会史がご専門のK先生と一緒になった。ちょうど帰り道だ、とおっしゃって、幕張から品川まで車に乗せてくださった。

途中、ケンブリッジでの大学生活の話をお聞きすることが出来た。とくに、チュートリアルという一対一方式のカレッジ生活は、複雑な人間というものの教育にはかなり有効であるという印象を覚えた。30秒の言葉も重要だが、一日かけて議論する言葉も、同じく重要だ、と感じた次第である。

2007/10/16

ワッフルとポタージュ

幕張へ向かったが、空が今にも泣き出しそうである。電車に乗っているうちに、急速に気温が下がってきた。ふつう、横浜から千葉へ向かうと、次第に暖かくなるのだが、きょうはどうも逆のようだ。

気温が上がることを期待して、亜麻色の初秋向きのスーツを着てきたのだが、もうすこし厚いものを着てくればよかったと反省しきり。明日テレビの収録があるので、涼しい感じのネクタイをしてきたのだが、それもすこし季節はずれの感じがするくらいだ。ここで風邪をひくわけにはいかない、と思いつつ、電車のなかではたっぷりとうたたねをしてしまった。

このようなときには、栄養とスタミナをつけるに限る。寒さは空腹感を運んでくるのだ。残念ながら、いつもの中華料理の「ホイトウ」はお休みなので、すこし足を伸ばして、久しぶりに「ステーキ共和国」のドアを開ける。

ウィークデイにいくと、サーロイン・ステーキ・ランチには、飲み物はもちろんのこと、サラダとフルーツが食べ放題なのだ。そして、問題のワッフルが付くのだ。数日分のスタミナがこれで十分という気分になる。

じつは、このワッフルで失敗してしまった。きょうまで、ワッフルに気づかずにいた。サラダ・バーの隣には、スープ群が並んでおり、ああ美味しそうなポタージュがあるな、と思い込んでいたのだ。

スープ椀に、ポタージュと思い込んだ、ワッフル生地を盛って、テーブルに戻ってきた。いざ、飲もうとしたら、どうゆうわけか放送大学の職員のかたが、来ていて見ていたらしく、つつっと寄って来て、「これはワッフルなんですが・・・」と言う。

あははっと、大笑いの場面である。危うく、助けていただいた。放送大学には、親切な職員の方がいるのだ。

ステーキも、ここはオーストラリア産で美味しいのだが、このワッフルの味がやはり忘れられない。今晩の夢にまで出てきそうなくらいスイートな美味しさだった。専用の電熱器を使って、約2分ほどで焼きあがるので、ホイップクリームをかけて、好みのジャムを加えて、さっそく頬張る。病みつきになりそうである。

今を遡ること半世紀、各家の台所の隅には、かならずワッフル用の鉄板があって、学校が終わって家に帰ると、おやつにホットケーキかそれともワッフルかという時代を経験してきている。

いつごろから、ワッフルの鉄板が家から消えたのかといえば、やはり中学生になったころだったと思われる。都会に出てきて、こちらも大きくなってきて、甘いものから遠ざかるようになって来たからだったと思う。だから、そのころ経験した甘い味を覚えていても不思議ではない。

ワッフル経験がなかったからといって、人生がすっかり変わるわけではないかもしれないが、ワッフル経験があると、大人になってからも、子ども時代を懐かしみ、さらにワッフルの味を思い出してみたいという気になるのは確かである。

したがって、ステーキ屋さんにワッフルが置いてあるのは、たいへんわかる気がする。アメリカ人は、ステーキを食べに行って、昔懐かしいワッフルの味を楽しみながら、ちょっとしみじみとするに違いない。四角いワッフルも流行ってはいるが、ここはやはり丸いワッフルを半円形に折って、思い出を挟み込んで食べたい。

2007/10/13

ゼミナールとたそがれ

きょうは、修士生のゼミナールのために、東京文京学習センターへ出ている。入学式が終わって、放送授業が開始し、面接授業までにすこし時間があるので、学習センターに出てくる学生がこの期間は少なくなる。

その結果、学習センターの部屋が空くので、ゼミナール開催には最適の期間となる。寒くもなし暑くもなし、地下鉄茗荷谷近くのパン屋さんで、ピザ(生トマトが乗っていて美味しいのだ)を買って、コーヒーを飲みながら、昼食を済ませる。

1階の会議室では、先月同様に、M先生のゼミが開かれていて、ちょっと顔を出したら学生の方がたに紹介してくださった。我が方は3階の演習室に、いつものように陣取った。それぞれこの間工夫してきた報告を、午後1時から始まって6時まで、たっぷりと発表してもらうことになった。

ちょうど修士2年生の方が、あと2ヶ月で修士論文を仕上げなければならない時期にさしかかっている。素材は揃ってきているが、全体のバランスや文脈の流れに注意が向けられていない。数多く書いていけばいくほど、今の時期の重要さがわかってくる。

つまり、自分で書いたものだという自明の罠にはまってしまうことがあるのだ。自分の書いたものはすべて自分でわかっていると思い込むことは、かなり危険だ。いつも思うのだが、自分がひとつのことにほんとうに没頭してしまうと、自分自身がわからなくなる。このことが、自分自身ばかりでなく、自分の論文に出るのだ。

たとえば、全体のなかで、何を中心のテーマにするのか、ということは、この段階になってみて、ようやく自分で理解できるようになる場合が多い。それまでは、枚数を増やそうと、ただひたすら文字を埋めるだけの作業が進む。けれども、ようやくこの段階になって、全体を眺めることができるのだ。そして、この中心テーマを盛り立てるために、どのような順番に各章立てを考えるのかが、最終的にこの段階の作業にかかっている。全体を見回して、いくつかある可能なシナリオのうちで、どれを採用するのかを問うことができる。

論文のもつリアリティは、これらの全体を眺める時間をたっぷり持つか持たないかで、まったく違ったものになるだろう。ぜひ十分な吟味をお願いしたい。

それから、修士1年生の方は、いわば発見の段階を迎えていて、次から次へ新しい試みや新たな文献を発見している。そして、発表しながら、何が面白くて、何が面白くないのかを、参加者の反応を見て、判断する段階なのだと思われる。

ゼミが終わって、4階の研究室を訪れると、S先生がまだ仕事中だった。ちょっと雑談して、外へ出ると、かなり暗くなっていた。先日は、「たそがれ」はキイワードにはならない、と言っておきながら、きょうは帰りの電車のなかで、見事に「タソガレ」てしまった。

2007/10/11

ラジオ講義の録音当日

4日に『ロビンソン・クルーソー』の朗読をしていただいて、きょうはいよいよ講義本体の録音日である。

いろいろな都合が重なってしまい、スタジオ入りが午後の4時過ぎという遅いスタートとなった。通常は、朝の10時スタートか、午後1時スタートが多いので、これだけ遅いスタートは初めての経験である。

ラジオにとっては、声の良い状態が望ましいので、朝のスタートよりはかえって、このように遅いほうが録音向きかもしれない。じっさい、4時までの間、社会と経済のカンファレンス室で、先生方の雑談や、Aさんとの映画の話に加わっていたので、おしゃべりの準備体操(失礼!)は十分行っており、準備万端であった。

今回試してみたかったことは、対談形式でラジオ講義をつくるという方法である。これまでも、何回かはインタヴューを交えた講義や、先生方との対談は作成してきたが、今回の形式は初めてだ。つまり、ひとつのテーマに関して、コメントをもらいながら、話題をずらせていくという対談形式なのだ。

H先生は、対談をテレビやラジオに載せる場合には、気心の知れた方、あるいは少なくとも、おおよそどのようなことを発言するのかを予想できる方としか、できないよ、とよくおっしゃっていて、これはわたしも同感なのだ。

外に取材に行くと、予想できない話題が急に出て、質問して繋がればよいのだが、そううまくはいかず、会話が途切れることがよく起こる。日常では、このようなことは茶飯事である。もしこのようなことが本番中に起こってしまったら、それを繋ぐのはかなりむずかしいだろう。

今回、朗読をお願いしたFさんに対談の相手もお願いした。この点では、何回かお話させていただく機会のある方だったので、途中で途切れてしまうということはなく、仮にもし起こったとしても、修復がただちにできる範囲で収められる自信というか、信頼感があった。この安心がないと、対談形式にはなかなか踏み出せない。

次のような発見があったのは、収穫だった。それは、聞き役と聞かれ役のことだ。ふつうのラジオ番組での聞き役と聞かれ役の関係では、視聴者側、(あるいは視聴者側にたつキャスター)が何かを質問し、それに対して、情報を持っている側が聞かれ役として参加する、という形式をとっている。ここでは、表面上は、聞き役が主導権をもって、番組を進めていくのだ。

ところが、大学の授業では、聞かれ役である先生側が、同時に進行の指導権を持っていて、聞き役である学生を誘導するという対話形式を取っているのだ。聞き役と聞かれ役の主導権が、通常のテレビと大学の講義とでは、逆転しているのだ。

言われてみると当たり前のことだが、じっさいにラジオ番組を作ってみて、大学授業というものの「縦社会」的な構造、つまり情報の発信者が進行の主導権を握っているという構図が明瞭に現れてくることを発見した。

このつぎは、ぜひFさんに質問者となってもらって、進行権も持つようにして、もうすこしシナリオについても自由形式で行うラジオ番組を作りたいと考えたしだいである。それにしても、朗読と対談に縦横にしゃべっていただいたFさんにほんとうに感謝するしだいである。

関心のある方には、来年4月から開講される『市民と社会を知るために―名著に触れよう』をぜひお聞き願いたいと思う。ちょっと宣伝を!

2007/10/10

バラの国際市場

今日は教授会が開かれる日である。6階の社会と経済のカンファレンス室へ行くと、Y先生が毎月この部屋へ送り届けてくださっている切花の包みがちょうど着いたところだった。

今月はどのような花かな。Aさんがダンボールの箱を開くと、まだつぼみの状態のバラが1ダースほど入っていた。花瓶に入れて、しばらくすると、遠慮がちに、そのつぼみが次第に開いてきた。

今ちょうど、この大学がある幕張で、バラの国際見本市が開かれているらしい。今朝のテレビ報道によると、バラの国際取引はこのところ年々盛んになってきていて、国産のバラは安価な国際市場に、かなり押されているようだ。

主として、アフリカで栽培されたバラは、ヨーロッパ市場へ出荷され、南米で作られたものは、米国市場へ送り出されるという流通が出来上がっている。ところが、これらアフリカや南米の余剰バラが、日本市場目指して、怒涛のごとく押し寄せてきているのだ。

この話は、戦前のコーヒー豆に関する国際市場の話とまったく同じである。こんど市立図書館でお話させていただくことに、かなり関係していてたいへん興味深い。世界的な交易は、嗜好品から始まったということは、常識であるが、さらに現代においてもまだまだ、このような嗜好品の普及モデルは、品を代え場所を代えて、世界を飛び回っているのだ。

夏の納涼会が台風で延期になっていたので、教授会のあと、秋の「星と音楽の夕べ」が開かれた。恒例の職員バンドが演奏をがんがんくりひろげ、元気あるところを示していた。異動で他の職場へ移った元職員の人も加わって、夜の夢を演出した。バラが満開になったような気分だった。

2007/10/08

図書館の最上階

大学時代に、千葉県の船橋市に住んでいて、市立図書館へよく通った。西船橋へ移るまえの建物で、一世紀前と思えるほどの施設であった。

当然、冷房などはなく、なぜかその季節はかなり暑かった。直射日光のなかに出ても、これほど暑くはないと思うくらいだった。田舎の小学校で、博物館になってしまって、そのなかに木製の椅子や机が出てくるが、それと変わらないものが置かれていて、机に汗が染み込んでいた。

あまりに暑いせいか、それとも、施設のせいか、人影は少なかった。

今日の図書館は、さすがにこのような施設のところはあまりない。あまりに快適なので、つねに混んでいるのが、玉に瑕である。今日は祭日であるのだが、それにもかかわらず、これだけの人びとが押しかけるという状況は尋常ではない。

ところが、今日の図書館(横浜中央図書館)は、蒸し暑かった。冷房を切っているので、最上階には、下からの湿気が上ってくるのだろうか。最上階は、5階で人文科学系の閲覧室になっている。来月、この5階を使わせていただいて、話をする。当日使う資料を点検したり、新たな資料を開拓したりするために、最近ここに通ってきている。

図書館として、たいへん使いやすいと思う。けれども、明らかに人気が仇となって、混んでいるのだ。今日も、ほぼ満席状態で、4人掛けのテーブル席までもいっぱいなのだ。そのため、湿気も限界状態である。

さきほどの船橋図書館のように、からっと晴れているが、極端に暑いほうがよいか、それとも、この横浜図書館の場合のように、しとしと雨が降って、蒸し暑いほうがよいか・・・。やはり、どちらも読書する環境ではないな。

今日は、明治期のいくつかの文献をコピーするために来たのだが、そのなかで警察資料がとくに面白かった。明治期には、巡査が地域に密着していた時代であり、産業調査も、巡査が街を回って、情報収集に当たっていたのである。

工場や職工の状態は、かなり克明に記録しているが、そればかりでなく、とくに興味を惹いたのは、風俗関係の資料だった。横浜のどの町に娼妓・芸妓が何人いて、どのような待合にいたのかがわかる。もちろん、目的は別の資料だったので、ほどほどに切り上げたのだが・・・。

明治期の中ごろには、急激にその人数が増えるのだが、たとえば300人から600人にその人数が増えるということは、どのような状態なのであろうか。通常の労働力とは異なるのだから、募集するというわけにはいかないだろうから、そこには想像を絶する「募集」が行われていたのだといえよう。

江戸時代のドラマを観ていると、岡場所においてもっとも管理システムが強く働くのを描く場面をよくみるが、明治期でも官許の場所であればあるほど、巡査の探索対象になっていたのは想像されるところである。その結果が、これらの綿密な資料として残されているのだといえよう。

明治期の巡査は治安の安定を担当していただけではなく、情報収集と探索に相当な時間を割いていたことがわかる。これだけ綿密に調べられていたら、社会も人間関係も、かなり息詰まるものだったにちがいない。ときどき統計のなかに、担当者が変わって、一貫性が失われているものがあるのは、ご愛嬌だが・・・。

などなど、楽しんでいるうちに、蒸し暑さも居心地の悪さも忘れて、出てきた汗も引っ込んでしまうところが、図書館という魔法の場所の特色なのかもしれない。この図書館の最上階で、寝起きしてもいいなあ、という気分になってくる。

2007/10/07

いきいきした儀式はあり得るか

今日は神奈川学習センターで、秋の「入学者の集い」と「卒業式」が開かれた。それぞれ第8講義室を一杯にするほどの参加者があって盛況だった。

同僚のH先生の表現を使わせていただくならば、放送大学生は、大人で「インデペンダント」な性格を持っているらしい。これが、放送大学生のカラーだそうだ。独立している。自律している。孤独をものともしない性格を持っている。だから、インデペンダント、という言葉はかなり、言い得て妙だ。

さて、入学式と卒業式ともなると、お祝いのスピーチを行わなければならない。入学式の挨拶、学習指導のスピーチ、さらに、卒業の懇親会でのお話、わたしたちでさえ、3つくらいは求められる。それぞれ「知識循環」の話、「論文のサイクル」の話、そして、「遊学」の話などをお話した。所長のH先生になると、この一日だけで、5つくらいの話を用意しなければならないだろう。

それくらい、放送大学というところは、言葉に対して、絶大な信頼性が置かれているところだ。そのことはまた、学生の方がたのスピーチが素晴らしいことにも現れている

とくに、卒業までの苦労話には、聞いていていつも泣かされる。人生そのものが反映されていて、語るも涙の物語なのだが、明るく表現する術を心得ているのが、「インデペンデント」と表現される所以である。

学部で124単位を取らなければならないが、これの過程は、いつの思うのだが、働いている人が学んで取得する単位としてはかなりキツイ、と思う。目的を持っている人には、つまりそれだけを学びたいという人には、もうすこし負担を小さくすると、目的を達成しやすいと思う。

けれども、ここで強調したいのは、むしろ逆で、その124単位を乗り越えてきた人の達成感は相当だということだ。

Photo 『アフリカ・ライオン』という、最近自費出版した書籍を携えてきた卒業生の方は、在学中に、夫の転勤で、アフリカ・インドネシアに暮らしていたので、最初に単位をとってから今回の卒業までに、結局17年間かかってしまったとのことだ。数十冊の寄贈を受けたが、そのうちの一冊が右の写真だ。

それから、もうひと方、74歳になる方も、還暦のときに、娘さんに進められて、放送大学の勉強をはじめたので、やはり10数年かかって卒業ということになったということだ。

これに対して、鍼灸専門学校の教員だという若い方は、編入してきて、2年で卒業したという。

それぞれ努力の違いはあっても、みんな同窓生ということになる。明日からはまた、異なる世界で生きていくことになる。

「遊学」という言葉があり、ふつうは空間的に異なる土地で勉強することを言うが、彼らにとって、放送大学で勉強したことは、精神的な遊学に当たると思う。つまり、仕事の世界や家族の世界を離れて、その時間だけ、ここ数年間にわたって、放送大学に「遊学」していたに違いないのだ。

遊学の効果というのは、なかなか表にあらわれないものだが、意識の底には、かならず作用を与えていて、いつの日かその影響が一気に現れるのだ。そのときには、ぜひまた、神奈川学習センターを訪れて、その話を聞かせていただきたいと思う。

2007/10/04

朗読の収録

ロビンソン・クルーソーを題材とした社会科学の番組を作っているのだが、きょうは放送大学のアナウンサーFさんに特別にお願いして、物語の触りを朗読していただいた。それを収録しておいて、番組制作の当日に、ラジオ番組のなかへ挿入するのだ。

さすがに、声が違うのだ。なんと表現したら良いのかわからないのだが、通常の日常会話の世界から、突如として、劇的な空間の世界へ連れて行かれた、という感じである。

ラジオの世界では、どうしてもしゃべるだけの世界なので、番組全体が一本調子になりやすい。そこをなるべく、わたしのしゃべる部分を少なくして、もっと魅力的な音の世界を呼びこもう、という作戦なのだ。

Fさんは、こちらの趣旨をすぐ理解してくださって、こころよく協力してくださっている。録音当日も、わたしの相手を務めていただけることになっている。楽しみだな。

ロビンソン・クルーソーはたいへんまじめな人なので、文章もたんたんとしていて、かえって朗読しにくいと、Fさんはおっしゃる。たしかに、劇的な起伏のある場面は少ないが、わたしが解説したのでは、もっと面白くないものになってしまうだろう。Fさんが加わったことで、波が起こって、さまざまな波状が水面に現れて、飽きることがないに違いない。

どのような内容になったのかは、ぜひラジオ講義を聴いて、お確かめいただきたいと思う。もっとも、来年度の講義なので、4月にならないと、聴くことはできないが。

これまでに試したことのない方法をとるときは、やはりどきどきするものだ。でも、なにか新しい試みがなければ、もちろん講義内容についてもだが、あらたな番組を作る理由がなくなるだろう。

今回、Fさんの参加には、たいへん感謝している。ところで、Fさんとの橋渡しをしてくださったブログ仲間のKさんが体調を悪くしているらしい。具合はいかがですか。

2007/10/03

現代のユートピアとはなにか

最近、ユートピアを描く映画を、数多く観ている。トーマス・モアやカムパネラ、すこし下って、モリスたちが描いてきたように、時代の転換点にはかならずユートピアが語られるのだ。

これだけ多くのユートピア映画が作られるということには、この時代にとって、それだけの十分な理由があるからだと思われる。なぜ、このような映画に対する需要があるのだろうか。

ひとつは、やはりストレス社会が窮まってきているから、と思われる。ストレス社会から抜け出して、ユートピアへ行きたい、という願望が、これらの映画を希求しているのである。けれどもちょっと、話はユートピア的ではなく、現実的なことになってしまうが、これだけ多くのユートピアが描かれると、やはりどんなユートピアでも良いというわけにもいかなくなる。

大きなユートピアでは満足されず、小さなユートピアが期待されているように思われる。

ユートピアなんて、元来が贅沢なものだから、どのユートピアがもっともユートピアらしいのかが競われる。そこで可笑しいことには、ユートピアの差別化が必要となってきているのだ。ユートピアの特色ということにおいて、競争を余儀なくさせられるようになってきているように思われる。

人びとを納得させることのできる、ユートピアを提示することが求められてきている。

さて、映画「めがね」は、この課題をいかにクリアしているのだろうか。もちろん、舞台となっている沖縄のもつユートピア力は、特別な威力をいまでも持っていると思われるが、すでに多くの映画がそれを描いてしまっているのも、事実だ。したがって、競争の中心になり得ない。

この島の取り柄はなんですかと問われて、「それは、たそがれです。」と言われたって、どこかで聞いたことがありそうな設定だ。じっさいには、どのような「たそがれ」かが問題となっているのだ。けれども、ユートピア映画では、「それは~ですよ。」と言ってしまった途端に、ユートピアはどこかへ飛んでいってしまう。だから、たそがれも失格である。

やはり、描いたり言ったりすることができないような、思いがけないユートピアでなければならない。

「カキ氷」もいい線いっていたが、本命ではないだろう。カキ氷との物々交換も古典的なユートピアの表現だが、あまり現代的でないだろう。釣れない海で「釣り」をする、というのも、いい線だ。たそがれ級の描き方であると認めるが、決定的ものからは程遠い。

ひとつだけといったら、この場面を推薦したい。(これ以降は、映画をこれから見に行く人は読まないほうがいいと思う。)それは、「トランク」ということが効いているエピソードだ。トランクのなかは、おそらく脱してきた世界の荷物がたくさん入っている。だから、トランクはストレス現世の象徴なのだ。したがって、このトランクが置き忘れられたり積荷として拒否されたりという場面が、この映画の核心なのだ。

いくつかのそのような場面のなかでも、名場面は次のところだ。小林聡美演じる「タエコ」が帰り道に迷って、トランクとともに立ち往生してしまう。ここにサクサクと現れるのが、もたいまさこが演じる「サクラ」で、タエコは最初三輪車の荷台にそのトランクを載せようとするが、サクラはいい顔をしない。結局、トランクはそこに残し、タエコだけがサクラの自転車の荷台に乗っていく。空には、なぜか三日月が輝いている。

みんな、その話を聞いて、「いいな、わたしも乗せてもらいたいな」という。ああ、ユートピアだな、と思った。いままで結びつかなかった人と人の関係が、このような切っ掛けで、無言でも結びつくことがあるのだ。そしてさらに、サクラの自転車に乗ることで、「トランク」というものを忘れさせてもらえるのが、何よりなのだ。

2007/10/02

『石のささやき』

トマス・H・クックを読み出すと、時間が止まってしまう。そうゆう贔屓の作家はそう何人もいるわけではないが、本が出るたびに気になってしまう。

今回も溜まっている仕事があるから、しばらく自制して、本屋へ行っても、文春文庫のコーナーは避けて通っていた。ところが、K大学の授業が始まって、大学生協ならば売り切れてもう書棚にもないだろう、と見ると、クックの新著『石のささやき』がまだ残っている。

「おまえは自分が透明な流れだと思っていた。こどものころから頭に詰めこまれ、のちに記憶の底に埋葬された膨大な事実や引用句、そういう知識の断片はすっかり洗い流されて、いまやただの「映画好き」になったと思っていた。」という書き出しに、ぐっと引き込まれ、一気に読んでしまった。

重苦しさは、いつものとおりだ。それに、低く続いて、卑屈さや屈辱や混濁が伴っている。苦痛と快楽は、紙一重なのだ。

ロビンソン・クルーソーのように、(また引き合いに出して申し訳ないが、)人生の貸し方と借り方の勘定をみると、貸し方に分があるという楽観的で積極的な生き方は、この本のどこにも見つからない。おそらく、クックの場合には、貸し方と借り方では、バランスは借り方にぐぐっと傾くというところだろう。

三つの死がストーリーにかかわっている。一番目と二番目の死が起きたところから、この物語は始まる。そして、三番目の死がいかに起こるかが、この本のサスペンスの中心にある。

伏線は、それこそあちこちに張り巡らされている。その伏線のうち、どれが顕在化してくるのかは、まったく予断を許さない。はらはらする。ちょっと違うかな、いらいらかもしれない。でも、クックの場合は、それに耐えて耐えてようやく結末に到達するのだ。

ときには、あまりに心の奥底に入り込んでしまうために、その登場人物の人格までも同一性を失ってさえしてしまう。と思わせて、読者を戸惑わせ、異化し、別の世界へ誘う。ここまで意図的に筋を運んでいるとしたら、もう脱帽なのだ。

伏線のひとつに統合失調症に対する理解という、重いけれど興味を惹く点がある。題名にもあるように、「石のささやき」のようなことが、世の中で起こったとしたら、もの凄いことになるだろう。

まわりにあるものすべてが、何かをささやき始めたら、そして、自分の行動に対して、物がどんどん情報を運んできたりしたら、どういうことになるだろうか。

じっさいには、統合失調症の人でなくとも、わたしたちは「石のささやき」のような情報をたくさん受けているのだろう。けれども、そこで何が重要なことで、何が重要でないことなのかを選んでいるのだ。これらのほとんどの情報は、消去してしまっていて、潜在的にしか意識されていないのだろう。

けれども、ほんとうに重要な情報、たとえば、殺人の目撃証言のようなことが、「石のささやき」として引き出されることになれば、これは大変なことだ。この本のポイントは、そこにあると思う。このように考えてしまう世界が、現実に存在していて、そのように考える人びとがいて、彼らと、いったいどのように付き合っていったらよいのか、を描いているのだ。

最後はたぶん悲劇になってしまうかもしれないが、それでも最後まで立ち会っていかなければならない状況というものは、現実に存在するのだ。

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

  • “「貨幣・勤労・代理人」"

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。