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2007年9月に作成された投稿

2007/09/29

なにが人の職業をあらわすか

電車に乗っていて、あの人の職業はなんだろう、とよく考える。多くのひとは、サラリーマンなので背広の下にある顔はなかなかわからない。

その点、サラリーマンでない人の場合には、よくわかる。制服を着ていたり、仕事着そのままで帰宅したり、仕事の道具を持っていたりする。左官屋さん、ペンキ屋さん、警察官、鉄道員などが、その恰好で電車に乗って来るときがある。

けれども、ふつう現業の人びとは、おおかたが自動車なので、電車には少ない。それ以外の人びとを想像で判断するのは至難の業だ。だからこそ、楽しみもある。とりわけ、わからないのは、女性の職業である。といっても、いつも女性を凝視しているわけでない、と言い訳をしておこう。

ところが、先日学習センターで、試験監督を行っていて、妙に納得したことがあった。これは同僚の先生方とも意見が一致したので、かなり濃厚な傾向であると思われる。

その女性たちは、まず試験の出席率が抜群である。一教室40人から50人で、1人欠席があるかないかという集団的特性を示す。つまり、まじめなのだ。もっとも、他の大学生がまじめでないというわけではなく、ある種特有のまじめさを集団として持っているということなのだ。

一、言うと、二を知る、という感じである。テストの答えかたも、その集団だけはかなり要領がよいし、応対にもそつがない。

たとえば、答案を出すときに、必ずこちらが整理している方向に試験紙を直して、受け取りやすくしてから提出する。以前にも書いたが、机の上の消しくずは最後に手にとって、ごみバケツに捨ててから、部屋を出て行く、という具合なのだ。清潔さが身についている。

そして、何よりも、受け応えがドライなのが、最大の特徴といえる。間違ったことをしても、すっと直すのは速いが、それ以上あまり無駄な動きはしない。受け応えに、必要以上の笑顔をすることがない。商店主や会社員のような媚びるような笑いは、決してしない、などなど。

さて、集団としての彼女たちの職業は、それでは何でしょうか。白い制服がヒントだ。ひとりひとりを見ていても、必ずしもわからない。けれども、集団として、一人ひとりの共通点を見つけていくと、彼女たちの職業意識に到達することになるのだ。

二日間ずっと試験監督を行っていると、この共通性はほんとうに良くわかるのだ。いつもは試験の始まる前、緊張を和らげるために無駄口を叩くのだが、今回はあまりのまじめさに圧倒されて、つい冗談を言う気にはならなかった。

2007/09/27

今泉今右衛門展

有田磁器の今右衛門展の案内状が届いていて、その表紙に数年前までとちがう意匠が載っていて興味を覚えた。

焼き物については、これまで素人を省みず、各地のものを見せていただいている。産業としてみても、たいへん興味深く、経済学の特別な対象であると考えている。

5年前に、放送大学の授業ビデオを撮るために、有田焼の磁器製作現場を訪れたいという希望を出したら、今泉今右衛門窯を紹介してくださった。

そのときに、「職人の労働」について、14代今右衛門氏と対談させていただき、授業のなかに取り込ませていただいた。「熟練」や「分業」ということについて、具体的なものを取り上げて、わかりやすい説明をしていただいた。

http://nime-glad.nime.ac.jp/semp/u-air/wm.asx?3u-air%2fspecial_subject%2findustrial_society_03%2f03+1091

当時、14代を襲名したばかりで、ご自分の作家としての方向性を探っていて、「墨はじき」という江戸時代の技法を現代に復活させる作品を作り始めていた。ビデオのなかにも、ちらっと写っている。

日本橋三越で開かれた展示会には、ちょうど今右衛門さんがいらっしゃっていて、立ち話だったが、今回の企画についてのお話を伺うことができた。

そのとき感じたのは、次の点である。第一に、5年前にも感じたことだが、「対話能力」をさらに有効に使っているな、という印象である。もちろん、これまでも説明能力の高さは、講演やエッセイなどで示されているが、それ以上に、職人の方がたのなかに、機会あるごとに入っていって、対話を通じて、作品を作り出すという姿勢を、以前にも増して徹底させている、と感じた。

窯元のすべての職人の心を掌握することは難しいかもしれないが、かなりの部分をすでに掴みつつあるという自信を感じた。ご本人は「作っている」という態度ではなく、「作らされて」いることを強調なさっていた。

第二に、「墨はじき」技法の新展開があって、見ていて楽しかった。なぜすでに埋もれてしまった江戸時代の技法を現代に復活するのか。その理由の一端を知ることができた。

http://www.imaemon.co.jp/ironabeshima/

グラフィック・デザインの世界でグラデーションという技法が、今日常識的に使われている。今回の展示では、一見すると、「墨はじき」はグラデーションの一種であると考えられてしまう可能性がある。

ところが、実際に見ると、グラデーションとは似て非なるものであることがわかる。その効果はまったく違うのだ。墨はじきは、印象派の使う「点描」に近いのではないかと思われる。つまり、点の集合として、色彩の穏やかな転換が行われているのである。点の寄せ集めだけに、グラデーションのように機能的でなく、むらがあるかのようなリアルなグラデーションが実現されているのだ。

第三には、模様の革新を図っているようだった。伝統的な模様を使っているものと、雪花の幾何学模様で西洋風を出しているものと、ふたつの方向性を探っているように感じた。このように、方向性を積極的に打ち出していくことは、今後の発展に対して、たいへん重要なことだと思われた。

今右衛門窯という組織を背負いながら、個人作家としての創造も世に問わねばならない、というのは、たいへん困難な道だと思われる。けれども、これらをこなすことを運命付けられているのが、伝統というものの力だと思われた。「墨はじき」の可能性に注目したいと考えたしだいである。

2007/09/25

ピーター・ラビット

ピーター・ラビットが家の垣根を飛び越えて、内に入り込んできたのは、娘が生まれたときだった。例のうすいブルーのジャケットを着ていて、いたずらっぽい目が印象に残った。

夜になると、絵本のなかから現れて、娘の寝床を走り回った。いつの日か、その小さな絵本は、本棚の隅っこに追いやられてしまったが、それでもときどき夢のなかに登場してきた。

二番目に、ピーターが我が家へ現れたのは、子供用の陶器に乗ってきたときだ。妻が、ピーター・ラビットの描いてあるカップ&ソーサーを買ってきて、たいへん使いやすかった。大きさがちょうど良くて、手に馴染むものだった。朝食のとき、コーヒーと卵料理にぴったりだった。

ウェッジウッドがそれを作っていて、なぜ高級ブランドが一般向け・子供向けを作るのか、最初は理解できなかった。英国のポタリー地方へ放送大学の取材で出かけたときに、ウェッジウッド本社の博物館を訪れた。

本社工場は、縁を必ず金メッキで飾るような高級ブランド品を中心に製作していた。こちらでは、金メッキのない陶器は作っていないのですか、とたどたどしい英語で尋ねると、曖昧な笑顔で返されてしまった。

その後、英国各地に散らばるウェッジウッド工場を訪ねる機会があって、19世紀以来のブランド戦略を理解することになった。これらについては、一度書いたこともある。

三番目は、映画「ミス・ポター」である。この映画は、ピーター・ラビットの作者ビアトリクス・ポターを描いたもので、自分のやるべきことをとことん行うという英国気質がよく表われていたと思う。19世紀における微妙な階級制についての考え方と描き方も、興味深かった。

そして、なにより、当時の印刷工場の描写があって、インクの染みがつくような書籍の製作場面には、いちど立ち会いたいな、と思わせるものだった。日本には、このような印刷工場は現在残っているのだろうか。

2007/09/24

サポーターとは

支援やサポートということを、学習センターで今考えている。

数年前に、神奈川学習センターで「センターだより」という機関紙をみんなで相談しながら出していた。そこで、数人の学生の方が編集員に参加してくださって、楽しい作業が数年にわたって続いた。記事の企画が一番たいへんだったが、みんなで印刷して、さらにそれらを折りたたみ、学習センターへ積み上げることが、苦労はあったが、楽しかった。

わたしが千葉学習センターへ移ってから、その後は新しい方がたにバトンタッチされていたが、そのときの思い出が忘れられない。

たしかに、センターだより作りは楽しかったが、もっと話し合うところはたくさん有るように感じていた。そこで今回は、もっとこの方式を広げたいと考えている次第である。

まず最初は、他の同様な施設を見学して、なにか学ぶことはないか、あるいは話し合い会を設けるなどいくつかの企画が考えられている。

H所長はなかなか乗り気で、自分で企画書を書いて検討している。そのうち、提案がまとまると思うので、もし発表されたら、学生の方がたからもご意見をいただければ有難いと思う。・・・うまくいけば良いなと考えている。今日は、前宣伝をひとつ。

2007/09/22

JICAについて

JICA(国際協力機構)のシニア・ボランティア説明会が神奈川学習センターで開かれた。タイで協力活動を行った科目履修生のSさんが仲介して、趣旨に賛成した学習センターが説明会に協賛することになったのだ。

説明のビデオを見ていて、カンボジアの幼児教育に加わったボランティアの方が、やはりJICAの協力隊員として教育行政に携わっている方と、話し合いながら仕事をなさっているのを観て、感ずるものがあった。

いまから20数年ほど前に、わたしは放送大学の教員になることは決まっていたが、開学まで3年ほど、就職を待たされた時期があった。若い教員の多くが同様に待たされた。みんな留学したり会社に勤めたりさまざまな対応を行っていたようだ。わたしは、情報数理研究所というところで、アルバイトを行っていて、ちょうどJICAの海外調査プロジェクトに加わることになったのだ。

いまから思えば、冒険的で貴重な体験だった。トンガ王国の財務省に一室を設けてもらい、王国の情報機器事情を調査した。

思い出したのは、そのときお雇い外国人的な人びとが何人かいて、それらの人びとが、ODAを超えた影響をこの国の行政や産業に与えていたことである。たとえば米国のPeace Force(平和部隊)の女性は、開発銀行のトップに近い地位にいて、経営にかなりの発言権を持っているようであった。それから、オーストラリア人は農業公社のようなところで支配人を務めていたし、さらにかなり若い人だったが、財務省のアドバイザーには、ニュージーランド人が入っていて、金融政策に影響力を持っていた。もちろん、電力公社にも英国系の外国人がいた。

そのとき感じたことは、ODAというのは、今で言うソーシャル・キャピタルに参加することだな、ということであった。彼らには、確実にネットワークが存在していて、わたしたちが今日何を行っているのかが、横の連絡ですべてわかっていたことである。そして、助かったのは、何をすべきでないか(つまり、無駄な調査)を教えてくれたことである。

じつは、コンピュータの援助は、日本以外にも米国からも来る予定だったらしい。トンガの人びとは、それを隠していて、なかなか言ってくれないのだ。そこで、日本のコンピュータをどこの機関が受け入れるのか、これを聞き出すのに苦労していたのだ。

さきほどのカンボジアのように、教育行政の上層部に食い込んで、現地のやり方を教えてもらえると、現場では幼児教育を行う方がきわめて有効な行動をとることができたに違いないだろう。ソーシャル・キャピタルのネットワークに通じるか通じないかで、ODAの成否が決定されるとみてよいだろう。

この点で、トンガでの当時の経験では、現地人のトップ層はきわめて閉鎖的で、自国人の利害を最優先に図っていた記憶がある。そこには、確実に旧来からのソーシャル・キャピタルが存在し、古いネットワークと新しいネットワークとの闘争が始まっていたような気がする。

ボランティアでも、おそらく外国では、ここまで要求されるだろう。今日の体験者たちのなかには、あまり気張ってやると失敗する、とおっしゃっていたが、それはソーシャル・キャピタルのネットワークに入れなかった方の言うことではないだろうか。海外活動の緊張感と、それを達成したときの充実感は、20年前からそれほど変わっていないと思った。

2007/09/21

絵が伝えるもの

甲府での生活は終了。学生たちも試験を終え、なんとか800字の答案を埋めたようだ。それで、受講生数が多くなっていることをすっかり忘れていて、じっくりと答案を見ていたら、帰りの電車出発のぎりぎりになってしまった。

今日、最後の珈琲のために、楽しみに残していたのだが、残念ながら「六曜館」でのいつもの珈琲は、冬までお預けとなってしまった。昨年の冬に寒い駅で食べた「おこわ」が美味しかったので、今回も駅ビルに入っている店で購入する。

復路の特急あずさ号は、仕事帰りの客で満席で、とくにグループで商用に来ている人びとが目立つ。昔は出張といえば、1人で細々と回るというイメージであったが、最近は組織の時代で、チームで事に当たるようだ。それでも、夜汽車というのは、みんな仕事を終えて、リラックスしていて、朝より笑顔が多いような気がする。

家に着くと、娘からメールが入っていて、早稲田大学のO先生のブログで、わたしの横須賀美術館の話が紹介されている、という。さっそく、観てみる。

へえー、快晴だったのか。それにしても、青空がきれいだな。これをみたら、誰だって、何回でも飛んで行きたくなってしまう。来月はたしか「澁澤龍彦展」だったから、秋空とシュルレアリスムという取り合わせで、出かけようかな。

O先生が注目した一枚のうち、朝井閑右衛門の電線風景はわたしにとっても印象に残るものだった。先日の「絶筆展」でもポスターに載るほどであったのだが、「薔薇の花」の絵が凄かった。世界全体が、その絵の具の積み重ねから盛り上がって現れてくる、とでも言うような描き方だった。朝井閑右衛門が横須賀出身の画家であるとは知らなかった。

これもこの次、じっくりと拝見することにしよう。

ところで、先日観た絵がどうしても欲しくなって、美術館にその絵へのリンクをお願いしていたのだ。その返事がようやく届いて、恐る恐る見ると、やはり絵自体へのリンクは許可しないとのこと。切り取って貼るのではなく、リンクならば良いだろうというのは、安易だった。残念ながら、今回は諦めざるを得ないだろう。けれども、言葉だけでは伝わらない絵の話には、やはり絵そのものが欲しいのだ。

2007/09/20

巻くものから結ぶものへ

集中講義はなんとか山場を乗り越えた。学生たちにとっては、かなり大量の知識が一挙に享受されることになるが、頭の中は、整理されてきているだろうか。

やはり、4日間連続というのは、以前にも言ったように、体力が勝負だ。1人の学生が、体調を崩し、保健室で寝ている。今日は無理しないように伝え、家へ帰すことにした。また、4日間連続で日程を空けることは、わたしがたいへん辛かったように、学生にとってもこの間縛り付けられたと同様の状態になるので、厳しかったに違いないのだ。講義もこうなってくると、闘争の場だ。

講義というのは、ほんとうに不思議なものだと、いつも思っている。知識を伝えるには限界があることはわかるのだが、それでも理解を求めて最大限努力を行う。最初に、ひとつの問題点を説明する。それがうまく説明できれば、理解は進むがそれでも限界はある。そこで継続させて、納得するまで言葉のやり取りが行われる。

傷を負ったときに、その傷に包帯を巻くようなものかもしれない。絆創膏を貼るように、本来は傷口に直接薬を塗れば、それで良いのだが、やはり包帯を巻くと、精神的な作用だと思われるが、なんとなく効くような気分になってくる。

いま映画館にかかっている「包帯クラブ」の言いたいことは、良くわかる。つまり、本来包帯は傷口に巻くものだと考えられている。ところが、ある日偶然に柵と柵の間を包帯でつないでみた、という話だ。

巻くことから、結ぶことへ、包帯の持つ関係性を変化させてみた、という点が中心なのだ。そのことで何が生ずるのかが問題なのだ。

見えなかったものが見えてくる効果がある。どこに問題があったのかを表示する効果がある。そして、何よりも人と人を結びつける効果が出てくるという発想である。これらの効果がどのようなシーンで描かれているのかは、映画を観てのお楽しみだ。

フレンドシップという人と人の結びつきは、中間的なだけに、たいへん厄介なものでもある。過剰になればお節介になるし、断絶が深まればそれっきりになってしまう。これまで幾多の友情論、社交論で描かれてきたが、この関係には特別の距離感が必要だ。

包帯クラブの場合には、友情のネットワークから拡大して、すこし広いネットワークを形成しようとする。包帯が象徴するのは、傷や病気の治療という狭い範囲への拘束である。それが、街のなかの対象物に巻きつけられることで、社会のなかの「傷口」の問題を表示してしまうことになる。もちろん、その副作用も存在し、それも丁寧に描かれていて興味深い。

巻くものから結ぶものへ、というひとつの工夫が効いている映画であることを評価したい。全体は面白かったが、わたしの趣味からすれば、描き方が後半になってすこし饒舌になっているのではないか、と感じた。巻かれたものや結び付けられたものに対する解釈は、多様なので、もうすこし説明を抑制したほうが、観るものの想像力を誘うのではないだろうか。高校生の観客を意識して、青春ものの雰囲気を出そうとしたのだろうか。

今日の食事は、昨日時間が早くで断念した「パレット」で、フランスの田舎風ソースのかかったハンバーグ。帰りに、やはり「ロッシュ」に寄る。最後のコーヒーは、「ライト・ロースト」をいただく。酸味を残しつつ、苦味も逃がさない、けれども軽い味。この味は、偶然には出ない味だと思う。

2007/09/19

絵画趣味

070919_164301 YP大学から、自転車で10分ほど郊外へ出たところに、県立の美術館と文学館があり、甲府に来たときには立ち寄ることにしている。

今日の講義では、朝の9時からしゃべりはじめて、夕方の4時までかかった。この頃には、学生のほうもくたびれてきたらしく、集中力を欠いてくる。ここはやはり、年の功で、いくつかの方法を用意しているのだが、それでも以前の調子にはなかなか戻らない。気分を変えたり手を動かしてみたり、いろいろできることは一応やり尽くす。それでも、1日は長い。

疲れがだいぶ溜まってきたので、講義の後、気晴らしにでかけた。この県立美術館を訪れることにしたのだ。ミレーの落穂ひろいなどで有名なところだ。玄関のよこには、ミレーの肖像画が掲げられている。余程、ミレーに耽溺したひとが、ここを作ったに違いない。

それで思い出したのだが、中学校時代の美術の先生が、じつはほんとうの職業画家だった。画家が本業で、1週間に一日だけ、教えに来ていたのだ。風貌からして、格好を気にしないタイプで、アトリエをそのまま抜け出してきたような感じがあった。

その先生の絵の解釈は、かなり楽しかった。思ったこともないような見方をするので、美術の時間は、絵を描くときよりも、話を聞く時間として意味があったような気がする。おそらく、わたしが絵を見るようになったのも、この先生の影響があったのではないか。絵に関しては、以前話題にした天才Kと、この先生が恩師ということになる、と勝手に考えている。

じつは、この先生が珍しく、声を荒げて、美術の教科書に載っていたミレーの絵を批判し始めたのだ。こんなのは、絵ではない。単なる写実が絵ならば、絵の存在価値はない、と言い切ったのだ。中学の美術なので、無難な解釈で済む授業のはずであった。

おそらく、自分の絵との対比が頭の中にあったのだと思われるが、今となっては聞くわけにはいかない。そんなことがあって、どうも写実主義の絵画は、わたしもあまり好まない傾向があることに、最近気がついた。このときのことが影響しているに違いない。

試しにという訳ではないが、今日の県立美術館では、ルーベンスとブリューゲルを特集していたので、観ることにする。このふたりの作品には、寓意などが盛り込まれており、写実主義というわけではないとも思われるが、一緒に来たプラハ国立美術館所蔵の他作品の多くには、写実的なものが多かった。この美術館の特色を現わそうとしているかのようでもあった。

写実でも、ほんとうに描かれた写実は現実を超えている、と思う。ルーベンスのもの、そしてルーベンスの工房で作成された「スピノーラ侯の肖像」などは、その典型だと思う。写真で撮ったよりも、現実的なのだ。

帰りに、学生から聞いたハンバーグ屋さん「パレット」へ寄ったが、まだ時間が早かったので営業していなかった。そこで、宵の口までまだまだだったが、半年前にも入った「フォーハーツ」でワインとパスタをいただく。最後のコーヒーは、これもまだ早いと思い飲まずに、黒エールを1パイント飲んで宿舎に戻る。明日は気分を入れ直して、講義に身を入れようと思う。

2007/09/18

講義しやすい教室とは

ロビンソン・クルーソーが完全に憑依したらしい。昨日は海を眺めていたが、今日は山のなかに来ている。本を肌身離さず持っていたために、放浪癖が伝染したらしい。

070918_172501 今日からYP大学で、4日間の集中講義である。朝の9時に着くあずさ号で甲府に来た。すぐに街を歩き出して、講義まで余裕があったので、宿泊場所に荷物を置き、ついでに自転車を借りる。観光用の無料自転車の用意されているところが、甲府という都市の充実を現している。徒歩しか手段のないものにとっては、街を縦横無尽に走り回ることのできる便利な器械なのだ。

大学に着くとさっそく、大講義室に通された。今回は受講生の数が増えたのだという。半円形に広がり、階段教室になっていて、しかも縦の列が少ない、たいへん使いやすい講義室だ。

わたしは歩き回りながらしゃべるタイプなので、教壇の前が十分空いていて、なおかつ、後ろの席まですぐ行くことができるような作りはたいへん都合がよいのだ。

そもそも、四角い教室が苦手なのだ。正面からしか学生と向かい合えないのは長時間ではくたびれて来る。その点で、黒板やスクリーンを学生と一緒の側から眺めることができるのは、たいへん話しやすい。これまでの教室の中でも、1、2を争う良い教室だ。

いままで出合った教室で、最悪の教室は、じつは放送大学の東京文京学習センターの大講義室である。四角い教室の典型で、しかもうなぎの寝床のように、細長く、100名以上がそこに座るのだ。おーいと一番後ろの人に呼びかけると、なんだと帰ってくるまで、かなりの時間がかかるように思える。すこし大げさな言い方だが、そんな雰囲気なのだ。また、この教室は一度窓際の席に座ってしまうと、通路が狭いため、外へ出ることができないという状況もあり、教師にとって最悪ばかりでなく、受講生にとっても最悪なのだ。

この点で、欧米の教室は、開放的だ。学生は、まっすぐ前を向くのではなく、教師のほうを向くように、椅子が並べられているところが多いように感ずる。

講義が終わって、学生に食事の美味しい店を聞く。幸い、宿泊のところに近かったので、そこでパスタをいただく。やはり、山梨だけあって、ワインは安くても良いものがおいてある。

今日の最後のコーヒーは、夢にまで出てきた「ロッシュ」で濃い目のブレンドを一杯。半年振りだ。今日はもう少し仕事が続く。かけ流しの温泉で、肩こりを落としてもうすこし頑張ろう。

2007/09/17

海について

070917_142301_2 秋風が立っているのに猛烈に暑い日差しだ。だが、遠い夏の記憶を懐かしむ感じで、気温の高さは気にならない。

午前中頑張って仕事が進んだので、午後には「赤い電車」に乗って、海岸沿いに浦賀半島へ向かう。白い上下に帽子をかぶった防衛大学生がひとりふたりと乗り込んで、かわいい水兵さんを思わせる。馬堀海岸からはバスに乗り換えて、観音崎灯台を目指す。走水という地区から、あれっと思うような風景が広がり、ちょっと鄙びた漁村のイメージの場所が続いた。

さて、今日の展覧会は、これまで見逃してきた「アルフレット・ウォリス展」である。海の美術館として特色のある横須賀美術館へ来たのだ。家から一時間もかからないところに、こんな「リゾート」らしいところがあるのかと思う。

070917_175901_2 リゾートの条件は、人と人の距離の問題である。もちろん、絶対的な距離のことではなく、関係の距離のことだ。第一に、接触しない余裕ある空間が存在していること。知らない人を受け入れるということだ。第二に、潮の香りが強く、日常の匂いを消してくれること。違う異質性が同質化の要因になることがあるのだ。第三に、ぼうっとしていても、誰も気にしない雰囲気があること。手を振っても、気がつくまでの時間がかかるほどに、遠くてのろい認識が可能だということ、などなど、これらの要素が複合していることが、リゾートらしさである。

このことは、そのまま美術館の存在のことを言っているようでもあり、展覧会の内容をも言っているようでもある。ウォリスは、うわさに違わず面白かった。

ウォリスは、30歳ごろから80歳後半まで、英国南部のセント・アイヴスに住んでいた。先日展示会をみたことを報告した陶芸家のバーナード・リーチが、やはりセント・アイヴスに住んでいて、ウォリスの墓を作っている。大きな渋い色の陶坂張りでできている。こんな素敵な墓は見たことがない。

70歳から突然、船や家の絵を描き始めたのだが、妻の死亡や身体の調子、仕事のことなどからみると、ウォリスにとって絵を描くことは必然だったと思う。けれども、この街が存在しなかったならば、絵を描くことはなかったとも思われる。この街と海が、彼の母体であったことは間違いない。

彼の絵は、なぜたてとよこが互い違いになっているのだろう。どうして、遠近の距離感が異なるものが、同時に同じ絵に描かれているのだろう。なぜ大きさの同じはずのものが、違ったものとして描かれているのだろう。

このような謎は、彼のほんとうの絵と向きあえば、氷解するだろう。つまり、ひとつひとつの対象物は、それぞれ別のもの、異なるものなのだ。それぞれ異なる世界にあったものを、ウォリスがひとつの絵のなかに持ってきたために、大きさも異なるし、見る方向も異なるのだ。船は正面から見たものをそのまま描いているが、灯台は横から見たものを同時に同じ絵に描いているのだ。

同じ絵のなかに、異なる次元、異なる空間のものが描かれるのは、そう不思議なことでもないだろう。それにもかかわらず、もしウォリス特有の描き方があるとすれば、これらの異なるものを結びつけることにかなり努力しているところだろう。

それは、海であり、大地であり、緑であるのだ。この意味では、ウォリスの絵は統合的であり、ときには保守的でさえある。彼の絵が全体に落ち着いて見えるのは、この統合作用がうまく働いているからに相違ないと思った。

070917_171701 今日はこれだけで十分と思ったが、出口を出ると、係の人が地下の展示室へも誘った。先日の古賀春江と松本竣介が一枚ずつここにもあったのだ。けれども、この話は、またこのつぎ訪れるときにするとしよう。それから、谷内吉郎館もあり、これも「子どもの視点」などが面白かったが、この次までとって置きたい。

今日最後のコーヒーは、美術館のレストランのテラスにて。ここの海を臨むテラスは、素晴らしいのひと言だ。目の前から芝生が広がり、道路を越えて、上から海を見おろすことができる。海が色を変え、おもちゃのように行過ぎる外国航路の船たちを見せてくれる。こんなにいろんな船があるのかと思うほどだ。

左から軽快な黄緑の船がとととっと行く。右からは、朱色の鮮やかな船が海を切っていく。さらに、左からコンテナを7層も積んだ、ビルの化け物のような大きな船がのっそりと動いていく。写真には、遠くに小さく真っ白な豪華客船が写っている。じつは、窓に光が点いて、ほんとうに綺麗だったのだ。

070917_175701 二、三キロさきの出来事が、余裕をもって展開していくのだ。海を見て、ぼけっとすることのできる場所を見つけた、という気分だ。それにしても、いつものことだが、こんな良い場所を占めているのは90%が女性である。この女性の混雑だけはどうにかならないだろうか。誤解を受けるといけないのでひと言添えるが、あくまで女性が問題ではなく、男性文化に問題があるということだ。

2007/09/15

胸を刺すようなタックル

ラグビーを観ていると、闘争心が湧いてくる。

ほめ言葉だと思うが、ある解説者が「胸を刺すようなタックル」ですね、という言い方をしていた。致命傷的で決定的な感じが出ている。

夜になると、ラグビーのワールドカップ戦に目がいってしまう。先日のフィジー対日本の試合は、わたしのような素人が観ても、良い試合だった。安定したフィジーを相手にまわして、十二分に戦っていた。

とくに、フィジーの重厚な攻撃をがちっと止めていたと思う。ときどき穴ができて、突破されてはいたが、それ以外では、身体負けすることなく、正面から受け止めていた。タックルの受け方が、確実だった。

そのときの表現が「胸をさすような」という言い方だった。良いタックルというのは、身体の中心である腰に入るものだとばかり思っていた。また、軽くタックルするのなら、足を払うようなタックルも有効だな、と思っていた。もちろん、上半身の上のほうにタックルを行うことは禁止されているので、胸というのは、やはりぎりぎりのところなのではないだろうか。

高校時代に、授業科目としてラグビーを行ったことがある。偶然にも、通っていた高校の運動場が東京オリンピックの選手たちの練習場であったために、芝生のサッカー・ラグビー場を持っていた。その芝生の上を存分に駆けた記憶がある。

試合になると、フォワードだったのでスクラムを組んだりして、かなりの運動量であった。サッカー部に属していたので、キッカーも務めていた。いまの軟弱で運動不足の身体からは想像もできないことを高校時代にはやっていたのだ、と自分でも不思議な気分だ。

無理が祟ったのか、鼻の骨を折ってしまった。「胸を刺すような」というのとは程遠いものだったが、勇ましくタックルに及んだ時に、もう1人タックルしてきて、その頭にぶつかってしまったのだ。

人生のなかで、気を失ったのは、はじめての経験だった。気がついたら、芝生の上に転がっていて、鼻血が出ていた。救急車で運ばれたのだが、次に、気がついたら、病院のベッドの上だった。すぐに手術して、鉄仮面の如くのギブスを顔に嵌め、2週間ほど安静状態が続いた。

そのときの身体と身体とがぶつかり合う音と、身体の感触は生涯忘れることはないだろう。痛いという感覚が残っているのではなく、もちろん心地よいというわけではないが、ぎりぎりの限界の感覚であることは間違いない。滅多に受けるのできない貴重な体験だった。

今日の試合は、オーストラリア対ウェールズであった。ウェールズも善戦していた。落ち着いたパス回しで、どのプレイも確実さと柔軟さが観られ、参加していなくても昂揚した気分を運んでくれた。

当たり前のようにボールがくるくると手渡されていく有様は、芸術的なネットワークを感じさせるのだ。パス回しというネットワークは、定型はあるのだが、定型にこだわらない実践的なネットワークになっているところに意義がある。敵がいることで、対応するための柔軟性が要求されるのだ。

そして、試合が終わった途端に、闘争心によって対立していた敵対関係の状況が、握手をして互いに讃えあう親和の状況に変わる。いつ見ても感動的であるばかりでなく、社会生活の基本が現れているな、と感心してしまうのだ。

2007/09/13

プロジェクトの終わり

プロジェクトというのは、計画を立てたり企てたりすることだ、とは頭でわかっていても、どうしても辞書の下のほうに書いてある、「大変なこと、面倒なこと」という意味のほうに目がいってしまう。

そもそも「前へ突き出た」ことをあらわす言葉だった、というから、上記の両方の意味がようやくわかった次第だ。前へ一歩でるということは、たいへんなことなのだ。

安部晋三首相が昨日辞任した。やはり、もろもろのプロジェクトが前へ出なくなってしまったのだと思われる。もちろん、健康がよくなければ前へ出られないし、前へ出たものが折れてしまえば、さらに前へ出ることはできない。

今日、ようやく3年越しのプロジェクトの報告書概要を提出した。すでに報告書は3月に作成済みだったので、文部科学省への報告ということだ。決済をしなければならないというので、係になってくださったAさんが早め早めに催促をしてくださったのだが、ようやく約束を果たすことができた。Aさんには、たいへんお世話になってしまった。

3年間、安部首相のように挫折しなかったのも、Aさんやプロジェクト室のSさん、Kさん、Tさんをはじめとする、関係者の方がたのおかげである。概要を書き上げたところなので、この場を借りて、お礼申し上げたい。

という、口も渇かないうちに、じつは継続事業をすでに4月から立ち上げてしまっていたのだ。その意味でも、なし崩しに継続してしまって申し訳ないので、感謝と同時に、お詫びも申し上げておきたい。(そのうち、小遣いをためて、昼食でもご馳走いたしたいと思う。)

それにしても、安部首相の最後の会見は、心身症的で単純さの目だったものであった。いまから思えば、首相官邸の廊下を通り抜けるときに見せていた威圧的な表情は、かなり虚勢であったということになる。

2007/09/10

渋谷にて

渋谷に出るんだったら、お願い!と、妻から金融機関関係の書類とカードを渡された。

なぜ横浜に住んでいるのに、渋谷近辺に銀行などの口座があるのかといえば、下北沢に住んでいたときの大家さんが指定してきた銀行口座がT大前の銀行であったり、大学院時代に渋谷に住んでいたり、結婚当時八王子に住んでいて取引先が渋谷支店であったりしたからだ。

引越しのたびに口座を設けて、その数が増え続けているのだ。もちろん、預けるお金が増えているわけではないので、それが残念なところだけれど。今日の手続きというのは、話すのもお恥ずかしいのだが、口座の暗証番号を忘れてしまい、預金を引き出すことができなくなってしまった、ということなのだ。

歳をとると、こんな失態が続くのかと思いながら、わざわざ渋谷に出なければならなかったのだ。今後のことを考えると、口座の数が多すぎるし、忘れるような口座は持たないほうがいいということかもしれない。

などなど問題はあるが、今日のところは効率よく銀行を回ったので、待ち合わせの時間まで、かなり時間が空いてしまった。いつでもどこでも仕事ができるのがこの商売のよいところなのだが、渋谷の街中で、仕事のできるところは限られてしまう。

ひとまず、名曲喫茶ライオンへ腰を落ち着けることにした。ここは大学院時代に、以前お話した「ブラック・ホーク」同様、とくに夏の暑い期間にこもって仕事をした。コーヒー一杯で、何時間いても大丈夫なのだ。

070910_191502ちょうど入ると、マーラーの9番がかかっていて、最後の絶え入るような終わりの終わりという音を、ここのスピーカーが忠実に再現していた。偶然なのか、その後も、それほどクラシック音楽に素養のないわたしでもわかるような曲が続いた。

ブラームスのピアノコンチェルト、我が祖国モルダウ、1812年(この曲は、中学校時代に毎月、日フィルの無料音楽会があって、そのアンコール曲の定番だったので、懐かしかった。)そして、ショパンの夜想曲。この喫茶店では、リクエストで演奏曲が構成されるのだが、カラヤン指揮のものが今日は多かったような気がする。愛好家が多かったのだろうか。

もし都心に残って住んでいたら、都内の図書館を回って、歩きつかれたら、帰りにここへ寄って、曲を聴きながら一眠り。という至福の老後計画も実現していたのかもしれない。

けれども、現在は一眠りなどという余裕が無いので、一仕事できることで満足しなければならないだろう。

「渋谷で会う、なんて不思議な感じですね」と言いながら、待ち合わせ場所へ現れたのは、放送大学のFアナと、ブログ仲間のKディレクター。来年度新設科目『市民と社会を知るために ―名著に触れよう』という、ラジオ番組なかでお相手をしていただくことになったのだ。

「ロビンソン・クルーソーの冒険」を取り上げることになっているのだが、やはり議論しているうちに、わたしの読み方ではとうてい想像つかない表現が、いくつも飛び出して、たいへん興味深かった。

たとえば、ロビンソンはその場その場で、くるくると意見を変えてしまう。神に感謝しているかと思えば、神なぞ役に立たないと言う。この点に注目した解釈は、マルクスにもないし、有名な大塚久雄の解釈にもない。ロビンソンの「二重人格」説というのはじっさい近代の本質を衝いていて面白いと思う。

無人島でのロビンソンの労働観についても、意見が百出した。どのようなまとめになるのかは、ラジオ放送を聴いてのお楽しみ。

Kさんは、ここの議論をそのままラジオに載せたほうがいいかも、などという。「歴史は夜作られる」のだ。番組は制作前のほうが圧倒的に面白い、などと言われないように、本番も頑張りたいと思う。

お二人には休息の時間を費やさせてしまって申し訳なかった。でも、このような楽しみがあるからこそ、番組を作ろうという気になるのだと思う。The Bandの「I shall be released」が店のスピーカーから流れてきて、渋谷百軒棚は変わらないことも確認できた。今日の最後のコーヒーは、渋谷BYGにて。

2007/09/05

取材の困難さ

022 情報公開の流れが主流の世の中でも、やはり企業内の情報は、原則として非公開のものが多い。情報は、私有財産だという認識がまだ強い。

神戸までせっかく来たのだから、というので、すこし足を伸ばして、気になっていた取材を行った。今度の講演会の題材の一部で、横浜の貿易がなぜ一時期に増大したのかが気になっていた。神戸との比較も面白いと思い、今回すこし迂遠なことではあったが、倉庫群を探索することにした。

とくに、今回は有名なM倉庫と、その近くにあるコーヒーのU社の倉庫を見たいと考えていた。先日、横浜から電話をしてみたのだが、やはり倉庫会社側の反応には取り付く島がない。

しかたないので、外見だけでも港や倉庫の雰囲気を写真に収めたいと、出かけることにした。ところが、現地に着いてからも、情報の流れは変わらなかった。しかるべくところに連絡しておくべきであった。情報は権力の方向に向かって流れるのであって、決して横には伝わらない。

011 倉庫の内部については、ほかに方法を見つけることにして、許されている外見と環境だけで、今回は諦めることにした。けれども、どのようにして貿易品が港に上げられるのか、そして倉庫に収められるのか、さらに検査され出荷され工場に搬入されるのかが、想像できるようになっただけでも良しとしたい。

帰りの駅のそばに、神戸市立小磯良平美術館があり、灼熱の港にあって、住宅街へ通ずるオアシスとして人びとを誘っていた。ちょうど、倉庫群とマンション群を隔てる役割を持っている。

020 乗換えが多いので、あまり交通の便がよくないとは思われるが、それにもめげず、中年から老年の方がたが、ひとりふたりと美術館内へ入っていく。

小磯良平の絵については、それほど多くを見てきたわけではないが、書籍の挿絵として、目にしていたものが多かった。けれども、先日の信州松本での「絶筆」展で、さりげない住宅を描いたものがたいへん良かったので、この系譜を観ておきたかった。

やはり、今日の一枚、というような見方ではなく、この画家の場合には、全体のなかで一枚一枚が意味を持ってくるのだ。

それは、自分自身のことをよく知った画家であったということだろう。素描が良いことに、それは現れている。ある時期、自分の特色を出せるのは素描であると気づき、それをとことん追究したのではないかと思わせるところがあるのだ。次第に、その特色に気づいたことで、さらに自分自身が確立するようになった、と思われる画風なのだ。

おそらく、その境地に達するまでには、気の遠くなるようなたくさんの絵を描かなければならなかったことは、想像に難くない。美術館の喫茶店で、一杯ご馳走になって、後にした。

2007/09/04

乗り遅れの感覚 2!

電車に乗ろうとして、自動改札機に切符を入れたら出てこない。機械の中を探してもらっても、切符がぜんぜん見つからない。こんなとき、どうするか。

今日はH先生の科目制作の打ち合わせがあるので、朝早く家を出て、神戸の兵庫学習センターへ向かう。何が起こるかわからないから早目に出たほうが良いよ、と妻がいうので、かなり余裕をもって品川へ着く。

京急線から東海道新幹線へ乗り換えるには、両方の切符を自動改札機に入れれば、そのまま通過できるようになっている。ところが、今日に限って、どうゆうわけか、京急線の切符は出てきたが、肝心の新幹線の切符が機械に吸い込まれたまま出てこない。

このようなことはよくあることなので、駅員を呼んで、詰まっていると思われる改札機のなかを見てもらう。ふつうは、機械のなかの回収箱か、途中のベルトの間に挟まっているかするのだ。

ところが、何回もチェックしてもらい、点検していただき、見直してもらっても、その切符が見つからないのだ。最初は高をくくっていたが、新幹線の出発時刻が迫ってくるにしたがって、あせってきた。どうして、無いのだろうか。

そうこうしている内に、予定の新幹線には乗り遅れてしまった。鼻先をすうっとどころではなく、そもそもホームに立つことさえできなかったのだ。切符がもし見つからなければ、乗る権利さえ失ってしまうという切羽詰ったところに立たされていた。

状況は、わたしにとって極めて不利である。新幹線の切符をわたしが機械に入れたことを証明するものは、この切符の実在しかないという状況なのだ。ところが、その証拠物である、切符そのものが失われてしまって、無いのだ。

駅員の立場にたてば、ほんとうに入れたのですか、ということになってしまうだろう。もちろん、そんなことは素振りに出さずに、駅員の方が3~4人集まってきてくれて、隣の機械までもすべての蓋を開けて、何度か調べてくださった。それで、かれこれ30分ほどが経過してしまったのだ。

実際には、わたしからすれば、機械の具合が悪いために本来の通行が妨げられてしまった「被害者」であるのだが・・・。けれども、その被害者であるという客観的な証拠がまったくないのだ。今の状況だと、わたしがそう主張しているだけなのである。ほんとうに困ってしまった。

この時点で無いものは仕方がないので、次の段階に進めようと思い、とりあえず「事故証明」を出していただけますか、と要求してみることにした。すぐに現場の係員の方は、上司に伝えてくださった。でも考えるに、機械のどこかに必ず存在するはずのものが見つからないのに、つまり会社にとっては事故であるという確証がないのに、事故証明をだすというのは、担当者側からみるとかなり無理な相談ではないかと、わたし自身思っていた。

駄目もとだと思い、一応傍証になるかなと、(入れた切符は往復切符の往路用だったのだが、)復路用の残りのもう一片の切符を係りの方に見てもらった。などなどと、いろいろ話しているうちに、わたしの話を信用してくださったらしく、ひとつの決断をしてくださった。係りの方をわたしに付けてくれて、JR東海窓口で新幹線往路の切符を用意してくれたのだ。

ほんとうのところ、これからのいろいろな交渉を行わなければならないのかと、ちょっとうんざりしていたところだったので、正直言って、京急側のこの決断はたいへん有難かった。20分ほどは遅れた出発になったが、切符がまったく無い状態から、一挙に現状復帰ができたのだから、「地獄で仏」の心境であった。

さて、この経験から、いくつかのことが見えてきた。第一に主観的なことであるが、わたしのなかで、京急という会社の信用が格段にアップした。とりわけ、品川改札口の組織のあり方には、敬意を払いたいと思う。それは、わたしに対して特別な利益誘導があったという意味ではなく、むしろ社会一般に対するものとして、顧客本意の態度は立派であったと思う。

第二に、京急の現場では、すくなくとも、品川駅の改札口では、顧客に対する危機管理がかなり考慮されていることがわかった。何か起こったときへの対応が明確にされている。わたしのように、切符それ自体が紛失したことはまれであろうが、本格的に機械にミスがあるのか、それとも、わたしが嘘を言っているのか、のどちらかの判断を明確に行わなければならないのだ。この危機的な事態への冷静な判断が20分程度の時間で行える権限を、この上司は持っているということである。

第三に、企業は機械を信用するのか、それとも人間を信用するのか、という深刻な問題がこの根底には存在することがわかった。現代のような「自動化」社会での基本的な問題がここには存在することがわかって、切符が無くなったことは煩わしい限りであったが、このことを知ることができたことは収穫であったと思う。機械文明のなかをこれからも生きなければならない、自分をとりあえず慰めておきたい。

2007/09/02

香りと支配

冷房になれた空気を風が一掃し、窓から土の匂いを運んでくる。

ほど良い風が研究室を吹きぬけて、秋を感じさせる。学習センターも、授業期間が終了して、静かな建物に戻った。仕事の香りがすこし遠のいて、しばらくは本の匂いが読書の季節を運んでくる。

学習センターから家へ帰ると、娘がマクルーハンのホット・メディアの話を持ちかけてきた。単機能のメディアが人間を支配すると、どうなるの、という。

だからというわけではないのだが、偶然にも今日は映画「パフューム」を観ることにした。もし人間が香りという感覚、香水というメディアのみで結びつくとしたら、どのような世界が現れるであろうか。映画のなかで、香りは数キロ先の存在を媒介するメディアとして描かれていた。

もちろん、そんな世界はないのであるが、ここが映画を観る理由のひとつで、映画的荒唐無稽を楽しむということがあるのだ。ふつう、人間を支配するのは、権力と金なのだが、もし暴力と同じように、香りで人間を支配できるとしたら、どうなるのであろうか。

この設定は、かなり楽しめた。もちろん、映画の「パフューム」自体、すこしエロ・グロ的な要素がプンプンとするので、その匂いの嫌いな人には向かない映画だ。

重要な荒唐無稽さは、次の二点だと思った。第一に、花びらと同じように、人間を原料にして香水を作ったらどうなるのか、そして第二に、そうして造った香水の匂いが、人間を支配するメディアになりえたら、どのような世界が展開されるのか、ということである。

映画に出てくるようなカリスマが現実に現れて、彼が嗅覚の超能力を持ったならば、このような世界が現れるのかもしれない。つまり、個人的な香りが人を結びつけ、それがダイレクトに社会をも結び付けてしまうこともあるかもしれない。単一のメディアで、上から下まで、一気に繋がってしまうような、かなりホットなメディアと世界が誕生することになる。

映画のなかで、最後に犠牲者となる女性が、殺される瞬間に目を覚ますシーンがある。ここの描き方には、不満が残った。殺人者をじっと見つめるのだが、やはりそうではなく、つまり彼を認めるのは視覚ではなく、嗅覚あるいは香りでなければならない。香りによる恋愛と殺人を演出して、はじめてこの映画の一貫性が保たれるのではないだろうか。

けれども、香りに関する想像力の飛翔に関しては、かなり満足させられる映画だと思う。映画として、嗅覚を視覚的に描くのはたいへんだったと思われるが、違和感なく観ることができた。

最後に、わたしの貧弱な香り体験を書いておきたい。中学校時代に、同級生のなかで、嗅覚に急に目覚めた友人グループがあったのだ。もちろん、香水などという高級な趣味ではなく、街の薬局から仕入れてきた「ハッカ」である。教室中が、ハッカの匂いで充満したことがあったのを思い出した。

もちろん、このハッカが中学校を支配することはなかったが、学校側は大事をとって、早々と禁止したのだった。

2007/09/01

土曜日の茗荷谷

「茗荷谷」のパスタ屋さん、と聞いて、どんなイメージを抱くだろうか。

すこし年配の方だったら、印刷工場のまちのランチ中心の社員食堂のようなイメージを抱くだろうか。中年の方だったら、マンション街にある小さな隠れ家的な一戸建ての店屋さんを思い浮かべるかもしれない。

でも、やはり東京圏以外の方が抱くのであれば、山手線の内側にある高級住宅街の洒落たレストランを思い描くのではないかと思う。

3年ほど前に卒業なさった学生の方が、茗荷谷からすこし歩いたところに播磨坂というのがあって、ほんとうに美味しいパスタ屋さんがあるんですよ。一度行きませんか、と言っていたのを思い出した。今日、学生の方がたと一緒にお昼に出かけた。

なるほど、東京文京学習センターから徒歩10分ほどで、散歩にちょうどよい桜の並木道があり、その両側に洒落たイタリア料理やスペイン料理、さらにケーキ屋さんがとびとびに存在している。

070901_130701たぶん、紹介してくれた学生の方が食べたのは、Tという店だと思われた。ところが、店に入ると、ご予約でしょうか、と言われてしまった。なんと土曜日のお昼なのに、予約制の店だったのだ。

すわ、東京にも一見さんお断りが復活しつつあるのだ、と思うくらいだった。この次に期待することにして、でもショックを隠せないで店を出ると、隣もパスタ屋さんなのだ。

それぞれに特色あるメニューを並べていて、ランチとしては、虎ノ門などのビジネス街の3割位増といういい値段である。学生の方は、ケーキが美味しかったという。ケーキがついての値段ならば、ちょうどそれ位の値段なのかとも思う。

つまり、何が言いたいのかというと、茗荷谷の街のイメージがかなり変わってきたなということだ。播磨坂まで歩いていくうちにも、手作りの家具屋や、バッグ屋、インドシナ料理の店などができていて、街がかなり変わってきたのに気がついた。大きな印刷工場や、出版会社、それに東京教育大学、お茶の水大学というイメージの街から、小さな店屋を求める街へと変化しているのだ。

それに、同じようなパスタ屋さんが2軒並んでいても、十分成り立つほどに、しかも通常より高い価格であっても成り立ってしまう立地になったのだ。茗荷谷のイメージを一新する事態が進行しているのだ、と思ったしだいである。

さて、濃厚な味わいのパスタ料理とケーキを食べた後は、また卒業研究ゼミナールに戻って続きを行った。ゼミのほうは、いろいろな事情で欠席の方もいらっしゃったが、そろそろ草稿を練って記述する段階に到達しつつある。

いわば、「起承転結」の「転」の部分を考える季節を迎えた、というところだろうか。それぞれ進行は異なるが、ペースを守ってがんばっていただきたいと思う。また、美味しいパスタをみんなで食べに行けることを願っている。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。