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2007/08/18

ロビンソン・クルーソーの認知度

講義のために、熊本に来ている。

朝起きて、この暑さのなかでも、身体の調子は良かった。直通の羽田空港行き電車にも間に合ったし、順調に熊本空港に着いた。こんなに調子が良いときには、なにかおかしいことが起こっている前兆なのだ。

じつはわたしの勘違いで、学習センターの時間に遅れてしまったのだ。あやうく大事に至るところだったのだが、学生の方がたの理解もあって、所長の先生と職員の方がたが無事切り抜けてくださっていたのだ。

おかげで、ただちに講義に入ることができた。ところが、今度は2日前に送った講義のためのプリントが届かないという。おそらく、盆の休みで、宅配便の時間がかかっているのだろう。受講している学生には、話の内容に集中してもらい、パワーポイントを活用して、一時間目は切り抜けることができた。そうこうしているうちに、ようやくプリントが届いた。

これ以上はなにも起こらないだろうと思っていると、いつもは意識したことのない教室の音響機器がうまく操作できない。ところ変われば、機器も違うのだ。放送大学の学生には、高齢のかたもいらっしゃるので、マイクの音量などに敏感な方がいらっしゃる。無線マイクが混線してしまうと手に負えない。

などなど、次から次へと問題が起こったのだが、それにもかかわらず、講義自体はかなり良い状態で進んだ。午後のちょうど眠い時間帯に当たっていたにもかかわらず、マイナス分を取り返して、さらにこれまでにないほどに充実していた。

講義のなかで余裕があるときには、ときどきこの次制作する授業のための探索を行うことにしている。来年度のために、以前にも書いたように、「ロビンソン・クルーソー」を取り上げたいと、このところ講義案を練っている。

そこで、この話を講義のなかでエピソードとして使ってみて、学生のかたの反応を見てみた。その結果、思いがけないことがわかったのだ。じつはほぼ全員のひとが、ロビンソン・クルーソーという名前を聞いたことがある、と勝手にわたしは思い込んでいたのだが・・・。

20名ほどの出席している学生のなかで、それもとくに若い人のなかには、この物語をまったく知らないどころか、その名前すら聞いたことがない方が、3~4名いたのだ。20人中3~4名というのは、かなりの比率だと思う。

年配の方でも、最初から最後まで全部読んだ人は一人もいなかった。つまり、昔は英語などの教科書に載っていたり、絵本や漫画本に多く取り上げられたりしていて、多くの人が眼にしていただけなのだ。教科書に取り上げられなければ、とくに興味関心を惹く様な物語ではなかったのかもしれない。無意識のうちに、人間のひとつの典型として、孤島に住むということが考えられるということは、現代にあってはほとんどないのだ。

来年度、この物語を取り上げる際には、このようにまったく名前すら聞いたことがない人にも配慮が必要だ、と新たな発見をしたような気分だった。じつは、現代にこそ、このロビンソン・クルーソーの物語が必要だと考えているのだが・・・。(その種明かしは来年度の制作のときまで先延ばし。ほんとうにそんなに重要なことかと言われてしまうかもしれないが、乞うご期待としておきたい。)

講義のほうは、明日のために今晩考えていただく宿題を出して、今日の分については無事終えることができた。宿舎へ向かう途中、繁華街の真ん中に、「現代美術館」があり、夜8時まで開館している。「Attitude 2007―人間の家」と題されたこれまでのこの美術館の5周年記念の回顧展ともなる展示を拝見する。

表現に現れる、とりわけ「極限状況」での存在の重さということを感じた。荒木経惟の写真のなかの現実と虚構の連続は、物語として語りかけてきたし、ハンセン病療養所の入所者の絵画には、極限の存在感にプラスして、個性的な文脈が見られた。

これらのなかで、とくに感嘆したのは、「木下晋」の作品で、メモ帳に綴られた日記である。その小さな文字は、すでに判読不可能のレベルにまで達しているにもかかわらず、数十年間の存在感が圧倒的に現れている。ほとんど、日記や住所録やその他の日常の個人情報の集積は、文字内容よりも、その外見だけで個人の存在をその情報量の圧倒的な多さにおいて表現しているのだ。

つまり、ひとりの個人が存在するためには、それぞれの年、月、日にどのくらいの情報量で成り立っているのかが、視覚的に表現されているのだ。大壁一杯に、隅から隅まで、細かい文字で埋め尽くされているひとりの現実には、凄まじいものがあった。

展示室を出ると、広場になっていて、そこからピアノのインプロヴィゼーションが聞こえてきた。しばし、展示物の一部となっている「人間の家」の大テーブル群のなかで、静寂とピアノの音による、世間と隔絶した世界に浸る。

現代美術館は熊本市の繁華街の一等地にある。その一階の角は、イベントの行われるところらしい。そこへ降りていくと、今日はジャズライブが繰り広げられ、人を集めていた。その横をすり抜け。職員の方に紹介していただいた、Kという会食の店へ行き、熊本の焼酎「白岳」を飲みながら、この日記を付ける。

途中、「よかばってん」とか「~でよか」とかという、会話が聞こえてきて、いつもテレビで聞くのよりもやさしい響きに聞こえたのは、やはり本場の発音だからだろうか。言葉は、場所に依存するのかもしれない。

今日最後のコーヒーは、K店の方から推薦してもらった、すこし街の奥へ進んだところにある「はんの木」という店で、ライトブレンド。最近は、苦く濃いコーヒーが主流になっているので、このようにライト系のものを確保している店は珍しい。美味しかった。宿舎への帰りは、熊本名物のチンチン電車を利用した。サッカーの試合が跳ねたらしく、興奮冷めやらぬ、威勢の良い一群の人たちが乗り込んできた。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。