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2007年7月に作成された投稿

2007/07/31

試験採点と新聞の読解

昨日、K大の試験採点を行った。

わたしの科目の受験人数は、約300名なので、答案一枚に1000字ほど書かせると、合計30万字。すこし厚めの書籍をまるまる1冊読むのと同じ分量になる。

これを一日で仕上げた。したがって、これらが終わるころには、目がショボショボとしてくるのだ。

ところが、今日は今日で、夏休みに作成予定の論文に使うために、明治期の英字新聞を10年間分目を通すことになった。夕方から、我がホームライブラリー(と勝手に考えているのだが)であるK大図書館の書庫にこもって、夜の9時まで作業を行ったのだ。(興味津々の資料がいくつか見つかったので、そのうちお目にかける機会もあると思う。)

これでまた、目がやられてしまった。図書館の書庫から出てきたとき、危うく貸し出し用の図書をカウンターに預けたまま、出てしまうところであった。心ここにあらず状態になってしまった。危ない、危ない。

明日からはまたしばらく、試験監督が続く。

2007/07/29

試験監督

朝、自転車で学習センターへ着くと、玄関前に学生たちが大勢集まってきていた。学期末試験で、大学院試験から学部試験に移ってきて、人数が増えたのだ。

日曜日だということもあって、29日の神奈川学習センターは受験生でごった返しの状態だった。

受験人数が、これまで最高水準の延べ2500名余りで、一日の登録者では記録的な人数だった。受験率は7割から8割平均だから、実際に来場した人数も、2000人を超えているだろう。担当者に聞くと、通常の1.5倍の人数だそうだ。

わたしの科目も当日あり、人数は少ないながらも、神奈川学習センターでは受験率100%だったそうだ。採点は全国から集めたのち行うが、じっくりと拝見させていただこうと思う。

ひさしぶりの試験監督だったので、さまざまな学生の姿が目に映った。

昨日、卒研ゼミナールで欠席したSさんが、前のほうの席に座って受験していた。入院している病院から、点滴をはずして、この試験だけ受けにきたのだという、帰ったらまたベットで点滴を受けるのだそうだ。

筆記試験では、800字ほど書く問題が出される。そのときには、消しゴムをかなり使うが、やはり社会人だな、と思われるのは、試験が終わった後、テーブルを綺麗に拭いてから退室する人がほとんどで、さらに丁寧な人は消しくずを集めて、ごみ箱へ捨てていくのだ。

今年も、横浜国大の学生、近郊の学生が試験監督の補助に付いてくれている。その半分くらいはオーケストラ部の方がたで、毎年夏休みが終わるころから、パートごとにコンサートを開いている。今日、一緒になった方は、ファゴットを担当していて、木管部は8月31日夜に港南台のリリスで行うそうだ。無料だということなので、近所の方はぜひお聴きくださいとのことだった。

試験が一段落したら、2学期まえに心のゆとりを取り戻すことは、必要だと思った。

2007/07/28

本郷での卒研ゼミナール

今、放送大学では、学期末試験が行われている。そのため、ゼミナールを開こうとしても、なかなか部屋を取ることが難しい。

そこで今回は、大学外の施設に部屋を予約して、ようやく開くことができたのだ。もちろん、学生の方がたは大人なので、喫茶店やファミリーレストランでも、おそらく文句は言わないだろうと思われるが、やはり声を張り上げて、議論をするのは、ちょっと気がひける。わたしたちは気にしなくとも、周りの人たちが嫌がるだろう。

ゼミナールを開くために、今回、本郷の「学士会館分館」に部屋を借りた。ここは先生方の打ち合わせなどで、ときどき利用するが、学生のためのゼミとして使うのは始めてである。

30度を越す気温のなか、冷房が効きすぎるくらいの静かなところで、ゼミを行うことのできるのは、仕合せとしかいいようがない。

参加者が入院したりして、人数が少なかったので、16時ごろにはすべて終了した。この建物には、ビアガーデンが併設されているので、そこを利用しようとも思ったが、すこし散歩をしようということで、夏休みで学生の居なくなった東大のキャンパスを歩いた。

そして、最後は恒例の甘いものを食べつつ、コーヒーをいただいて解散ということになった。もうすこしゼミを粘れば、ビールにもあり付けたかもしれないが、この次まで楽しみは取っておこう。

2007/07/27

大学のなかの企業家

企業的大学のモデルが、経済学者ヴェブレンによって、20世紀の始めに示されてから、大学のなかで活躍する企業家は常識的になっていた。けれども、やはり大学は聖域であり、世俗化から離れたところで存在するものだとする主張にもまだまだ強いものがある。

日本でも、大学のなかで活躍する企業家的な先生方は、現在ではかなり多くなってきている。けれども、自ら大学の企業家を名乗る人はまだ数は少ない。

きょうは、このような積極的な大学内企業家として、草分け的存在である、東大のS先生に会いにいった。一度、どのような仕事ぶりなのかを見学させていただきたいと常日頃から考えていた。

今回、ひょんなことから、大学の仕事として、秋葉原にあるS先生のワークショップを尋ねることになった。

第一に、人を呼び寄せる工夫のあふれる部屋にびっくりした。予算の掛け方が違うな、という感想である。秋葉原の駅前の一等地にあるビルの5階にその事務所はあって、絶えずビジネスや大学の客が訪れているようである。

たとえば、無垢の柱を組み合わせて作ってある10メートルもあるような長テーブルがどんと置いてある。さらに、小さなサークルに分かれて話し合いができるようなスペースが二、三置かれていたり、さらに半閉鎖的な隠れ家を連想させる作業机のスペースも使いよさそうだ。

第二に、稼働率がかなり良いのに驚いた。次から次へ、客が訪れるのだ。それは、やはり立地の良さを反映しているのだと思われるし、また他の利用者にもすこし開放しているようだった。わたしたちが伺ったときにも、ちょっとした打ち合わせが行われていて、自由な公共的な空間を作り出している。

そして、打ち合わせが終わって、帰るときには、寄せ書きに言葉を書くように、要請された。このような細かい心遣いが、このワークショップを支えているのだな、という感想を持ったしだいである。

2007/07/26

見せびらかしと張り合い

見せびらかしと張り合いの世界として、京都の「お茶屋遊び」は面白い題材だと思う。

映画「舞妓haaaan!」は興味深いところを狙っていて目の付け所が良いと思った。現代にあって、庶民的な見栄の世界はたくさん見ることができるが、いずれも日常の小さな見栄ばかりで、見せびらかしに値するものは、今日非常に少なくなってきているように思う。

そのような現代にあって、「お茶屋遊び」のなかには、古く懐かしく伝統的な見せびらかしと張り合いがまだ生き残っている、という視点は素晴らしいと思う。

その習慣が映画のなかでは、面白おかしく描かれている。とくに、力が入っていて、理解されるのに時間がかかっているのが、「一見さん、お断り」という風習である。

上手く遊ぶには、「信用」が重要であり、一見さんには遊ぶだけの信用がないと言い切っている。遊びにルールがあるという考え方が、「お茶屋遊び」にはとりわけ効いているように思える。

この信用を可視化して表したのが、お茶屋なのだと思われる。

けれども、この映画に没頭するまでに、いつも以上に時間がかかってしまった。この映画の始め部分の感覚には、やはり世代の差を感じてしまう。

なぜあのようなオタクの自分勝手な主人公に対して、柴咲コウ演ずる富士子が好きなのかわからない。うるさいだけの主人公が、他の人を動かして、共同作業を行うようになることに発展するのが、ほんとうにわからない筋書きなのだ。

けれども、伊東四郎の社長さん、吉行和子の置屋のお母さん、そして植木等の粋な通行人は、みていて安心する。この映画のオアシスとして楽しめるのだ。値千金の演技だったと思う。

珍しいお客さん

珍しい客が神奈川学習センターの研究室のドアから、ぬっと現れた。

放送大学創業時の神奈川学習センター総務係長だったⅠさんである。ちょっと歳をとった感じはするが、長身でテニス焼けした活動的な印象はそのまま保っていらっしゃった。

当時、M先生が所長をしていて、T先生、H先生、それからお茶の水女子大へ移ったT先生とわたし、そして、職員の方がいらっしゃったのだ。

最初、隣の横浜国大中学校の校舎を借りて、準備を行っていた。この期間には、いまの神奈川学習センターの建物が間に合うかどうか、という状態であったのだが、Ⅰさんや教務係長のUさんたちの奮闘で、どうにか開校に間に合ったのだ。

国大の土地が広々としていて、草が茫々と生えていたのが印象的だった。まだ、桜の季節ではなかったときに訪れたので、今のような4月の華やかさはまだなかったような気がする。

向かいに商業高校の校舎が残っていて、とくにそのなかでも半円形教室が在って、そこが満員になるなか、スクーリング講義を行った覚えがある。いまは、その建物の風格だけをまねた健康センターが新しく建っていて、昔の状態が何となく残っているのだ。半円形の教室は、いまはダンス教室の会場となって賑わっている。

20数年も経ってしまったのか、と改めて感ずるが、本人たちの会話は当時のままである。その後、Ⅰさんは横浜国大へ戻り、出世を重ねて、今は退職してテニス三昧の日々だそうだ。

神奈川学習センターもⅠさんたちのネットワークの中で育ってきたのだ、と改めて振り返ったしだいである。

明日から、この学習センターでは、学期末試験だ。帰りに玄関へ行くと、4、5年前に玄人はだしの「中世の切符(きりふ)」についての論文を仕上げた学生の方に久しぶりに会う。

良く知られているように、近世には信用貨幣として「山田羽書」が現れ、続いて藩札などが造られ、日本における紙幣の歴史が始まったとされる。ところが、そんなことはないのであって、おそらく「信用」というものの歴史はずっと遡ることができるだろうと思われる。

たとえば、「割符」などの研究は、日銀や中世歴史の学界を中心にして、今日かなり進んでいるらしい。(教養が試されるのはこのようなときかもしれない。「わりふ」と言ったら、その学生にすぐ「さいふ」と訂正されてしまった・・・。)シンポジュウムなどもインターネットに載っているくらい、一般にも膾炙している。

わたしたち素人が知りたいのは、これらの信用を支えていたのは、どのような信頼関係だったのか、という点である。政治権力なのか、それとも民間の商人たちだったのか、という点である。

そして、割符の時代から羽書の時代の断絶と継続には、どのような関連があるのか、ということである。つまりは、「手形」ということがキイポイントになるのだ。手形に信用を与えれば立派な貨幣になるのだ。それでは、なぜ近世になると、手形と貨幣は分離するようになったのか。

などなど疑問は尽きない。しばらくは、中世の貨幣論論争から目を離せない。

2007/07/25

やはりジャズ喫茶に

映画を見るのを我慢して、仕事の反省をしようと、桜木町に出る。

駅を出て、身体をゆすって交差点を渡りきると、思いもかけず、F氏が笑顔で立っていた。子ども連れだったので、一杯どうかとはいえなかった。また来週会うので、それまでお預け。070725_172204

今日のダウンビートの選曲は、最初のうちはよかった。重厚なサックスのトリオや、ピアノトリオが続いて、この店のスピーカを如何なく鳴らしていた。

070725_171801  ところが、途中ジャズバイオリンが入るころから、選曲がえらく変わってしまい、いらいらするような曲が続いた。思わず、いつもより早く席 を立ってしまった。そとはまだまだ明るいままであった。

そんな日もある。

2007/07/24

T・ベスター『築地』について

この周到で、遊び心にあふれた記述の書物、でも真に日本の経済状況を正確に踏まえた書物を、どのように呼ぶのかは、かなり重要な問題だ。

米国ハーバード大学のT・ベスター著『築地』は文化人類学の書棚に並んでいるが、わたしはこの本をぜひ経済学の書棚にも並べていただきたいと思っている。そのような書物なのだ。

築地はたしかに日本人の魚文化の中心地である。けれども、やはり魚市場の、つまりは魚の経済の中心地でもあるのだ。

築地は、食魚の文化としての、鮨や刺身の素材の集散地であることは間違いない。したがって、この本を食魚文化論として経済制度論のソトへ追いやってしまうことも可能かもしれない。けれども、見るべき人が見ればわかるように、この書物の深さと幅広さは、幾多の日本経済論を超えている。

単なる日本文化論を超えていて、このように言うことも失礼かもしれないのだが、明らかに日本の経済社会論の第一級の書物の位置を占めるに至っている。

日本の経済状況を真に描写しているものとしては、ほんとうに恐るべき本が登場したといえるのではないか。しかも築地の楽しさも忘れさせない、そんな本である。

最近、日本人ではない外国の人が日本を描く書物が、立て続けに出版されている。そのなかでも、一、二を争う日本社会論であるといっても良いと思われる。

日本の中核と思われていた場所が、世界のマージナルな場所として見直されているのだと思う。したがって、一種のウインブルドン効果の所産であるとも言えるのではないだろうか。

2007/07/23

夏休みの怖い話

夏休み前になると、町内の子ども会が開かれ、休みの計画が立てられた。街ごとにひとつある小さな公民館に集まって、夏祭りの準備が進められ、ついでに子ども会の予算や組織の話し合いが行われた。

信州松本に住んでいるときに、「青山さま・ぼんぼん」という子どもが各戸を回る夏祭りがあって、青山さまが神輿を担ぐ男子の祭りで、祖先を祭るものであり、ぼんぼんは女子の祭りで、祖先を慰めるものであった。小学生1年生から6年生までが中心となって、運営されていたのが懐かしく思い出される。

このような公式的な表の祭りに付随して、重要だったのは非公式の触れ合いだったと、今にして思う。

恒例だったのは、「怪談」である。お岩さんや、皿屋敷の「一枚、二枚・・・」は子ども会の教養の重要な項目であった。ちょうど小学校の校門交差点に文房具屋があって、そのよこに墓へ通ずる道があり、墓のなかを通って、カキ氷屋さんの裏へ抜けるのが通学路であった。

水色の矢車草が咲き乱れる墓場で、伝説を作り出すには格好の場所だった。河童についてはまた出てくることもあろうが、やはりお化けは子ども会の面々にとってはかなり怖い存在だった。

昨日、娘が下宿を引き上げる際に、当時を思い出すような、怖い話を持ってきた。じつは、娘が下宿に出るときに、お餞別として紺の水玉模様の傘を送っていた。それを飲み会があったときに、紛失してしまったらしい。

かなり気に入っていた傘なので、帰りの道々、駅に問い合わせたり、友人に携帯電話で照会しながら、下宿へ帰ってきたのだという。そのときの声が誰かに聞かれたのかもしれない、と後で言う。

酔っ払ってしまっていたので、ロフトに上がりこんでそのまま眠り込んでしまったらしい。ガチャという音で目覚めた。戸締りを忘れたのだ。これはマズイと思って、携帯で110を打ち込んで身構えたのだそうだ。

ところが、そのあとコトっと再び音がしてからは、まったく人気がなくなり静かになったらしい。あわてて鍵を閉めて、朝までぐっすり(ふつうは眠れないと思うが)眠ったそうである。

しばらく日にちがたって、玄関に見慣れない傘が立てられているのに気づいたということだ。友人が1週間前に来ていたので、置き忘れたのだと考えていたらしい。けれども、聞いてみたが、そんなことはないと言う。

それ以外には、他の人が下宿に上がっていないので、「ガチャ、コト」のときしかないのだと思い当たったのだという。これは、すごく怖い話かもしれない。

まともに考えれば、誰かが部屋を間違えて入ってきてしまい、途中で気がつき、あわてて外へ出て、傘を忘れていったということではないだろうか。

けれども、子ども会では、このような話を脚色して、いかに怖い話にするのかが競われるのだ。そういえば、6年生のお姉さんにとびっきり、こんな話のうまい人がいたな。

2007/07/21

大きく重い荷物

午前中東京の図書館で調べものをしてから、午後娘が下宿先から帰ってくるというので、手伝いに行く。

自慢するわけではないが、我が家ではひとりも車の運転ができない。したがって、大きく重い荷物を運ぶには、宅配便を利用することになる。そして、残りは「強力」が運ぶことになる。

娘の下宿での荷物は、おおかた本と衣類と鍋釜の類になるのだが、まずこれらを宅配便で出してしまう。やはり通常の宅配便より重量が嵩むらしく、値段は高い。

けれども、問題は食器類のこわれものと、パソコン、生乾きのシーツ・タオル類、そして口の開いた洗剤などである。かつて宅配便に預けて痛い目にあったことがあるので、手に持っていかなければならない。

肩から掛けたリュックと、大きなボストンバックに頼る外ない。手荷物とはいえ、これらを合わせると、ひとり10kgくらいの荷物になった。

ずうん、と肩に荷物がかかって、地面が一瞬沈んだのかと思われた。それほど、10㎏の重みには厳しいものがある。たとえ老体に鞭打っても、重力の法則には逆らえない。

わたしの父が最後の引越しをしたときのことを思い出した。当時、すでに50歳ははるか超えていたと思われる。最初は新居に移った勢いで、段ボール箱を肩に担いで、階段を登ってきたのだが、途中で汗が噴出し、かなりキツイ表情を見せはじめた。

それっきり、リビングで長老たち相手に飲み始めてしまった。途中脱落である。やはり、歳には勝てなかったのだ。さて、わたしも父と同じ年頃になって考えてみるに、やはり運搬作業は、身体にはかなりキツいのだ。

今回も、途中ワインを飲みながら片づけをするまでは良かったのだが、その後荷物を肩に掛けたての移動がかなりこたえた。父がそうしたように、別室があれば、そこでワインを飲み続けたい気分だ。

あと1年経てば、父が亡くなった歳に追いつくことになる。

2007/07/19

似たもの同士の差異

似たもの同士の「差異」というものほど、厄介なものはない。

外から見れば、まったく同じに見える。ところが、本人同士は互いに、その似ているかのように見えるところでの違いということが、一番の問題だと考えている。

話し合いが行われていて、「AとBとはぜんぜん異なる」と片方の人が言ったところ、もう片方の人が「ぜんぜんということはない」と言って決裂した。

「AとBと異なる」ということは、二人にとって共通なのだが、「ぜんぜん」なのかそうでないのかが、決定的に違うのだそうだ。

もっとも、このことで現状認識が異なるということで済めば、その後の議論には影響を与えない。ところが、人間は感情を持つ動物なので、「ぜんぜん」かそうでないか、ということは、いくらでも膨張させて、問題とすることができる。

たとえば、これを「ぜんぜん」と考えるとは、認識の仕方がおかしい、と問題にすることができるし、「ぜんぜん」という副詞を使う神経が不自然だ、とも言うことができるのだ。互いに、不快なことをわざと作りだす、悪の循環に入っていく場面である。

つまりは、言い合いの種は無限に存在することになる。最後には、道を歩いていて、向こうから人が来るのに、わざとぶつかって行くような事態になる。こうなると事態は悪いほうへ悪いほうへと流れていって、本人たちではどうしようもない状況に嵌まり込んでしまう。

小学校時代には、よくこのような問題が生じた。わたしの通っていた小学校の生徒会で、学校のウサギ小屋を作って、誰かが面倒をみようということになった。ここまでは全員一致で決まったのだが、さて誰がどのように世話をするのかを廻っては、みんな自分がやりたくて立候補して、なかなか決着はつかなかった。

その後、先生方の職員会議でこのことが話題になったらしいのだが、遠くから聞こえてきたのは、先生方の中でも意見が割れて、決定的な対立にまで発展してしまったらしい。

わたしたちは差異を乗り越えるために、話し合いという技術を開発してきたはずだが、話し合いがかえって差異を際立たせる場になることが多いのだ。先日観ていたアニメ映画で上記のようなことが起こっていて、昔の状況を思い出したしだいである。

2007/07/15

ゼミ合宿のメリット

ゼミ合宿のメリットは、何といっても、大勢が集まるところにある。「ゼミナール効果」とでも呼びたいくらいである。

今年も恒例の、H先生を中心としたゼミ合宿が幕張のセミナーハウスで行われた。台風の影響があるにもかかわらず、入れ替わり立ち代わり、常時30人ほどの参加者が二日間にわたって、修士論文の中間報告を行った。

放送大学大学院生の特性として、論文テーマについては、学生個人が提案することになっている。なぜそれが優先されるかといえば、やはり社会人学生が多いので、職場や生活に関連したテーマが選ばれることが多いからである。

だから、それぞれ異なるテーマのゼミ生が話し合いの機会をもっても、ゼミナールのような集団指導は、無駄のように感ずるかもしれない。一般の大学のように、共通のテーマのもとにゼミナールが開かれるのとはまったく違うからだ。現に、学生たちは、参加したはじめのころには、みんな他の学生の言っていることがわからない、と言う。

ここからが、放送大学の良いところだと思うし、まだまだほんとうに理解されているわけではない点であろう。

学生が職場で経験している状況はまさに、このゼミの開始のときと同じなのだ。突然、転勤を命じられて、訳のわからない場所に配属される。けれども、体験を積むうちに次第に暗黙の学習を重ねて、その職場に溶け込んでいくのだ。

同じようにして、論文を書くという作業は、思いのほか経験がモノを言う。これまで論文を書いたことにない人にとって、その戸惑いはいかばかりであろうか。そのとき、他の学生のやり様をみて、質問をして、葛藤を乗り越えることで、自然に論文を書く方法を獲得していくのである。(じっさい、わたしもこのような経験を重ねてきたと思う。)

今日も、発表者のT氏が「成果主義とは・・・」と報告した。すると、民間の会社では・・・、独立行政法人では・・・、公共団体では・・・、とつぎつぎに、数例が報告された。これが、社会人ゼミ特有の迫力だ。

もっとも、むしろ「ゼミナール効果」は、言外の教訓という意味があって、実際に教わる以上の暗黙の技術効果を生み出しているともいえるかもしれない。上記のような直接的に情報を得ることもあるが、じっさいにはそれ以上の隠れた効果が重要なのかもしれない。

教員の側から見ると、ゼミに毎回出席した学生と、あまり出席しなかった学生とでは論文内容が異なることに、それは現れる。指導のいわば「外部的な効果」がまったく違った形で、論文に反映されるのである。

このようなゼミナールの現場は、一般の大学と比べると、あまり心地よいものではないかもしれない。質問者たちの誤解や曲解に対応しなければならないし、一生懸命考えてきたことに対して、経験的な根拠だけで、否定的に反論されれば、誰だって気分はよくないだろう。

けれども、最終目標にとって、このようなことも良い経験になるとわたしは考えている。そして、途中で心地悪いことがあっても、要はよい論文ができれば言うことはないのだ。

2007/07/14

台風が近づいてきた

台風4号が近づいてきた。

母は退院してきてからずっと家にいるために、「嵐がくると、人はハイになるのよ」などと他人事のように言う。

テレビでは、日本を縦断して、とくに雨の多い台風となることを報じている。

松本に住んでいた小学校時代に、なぜか台風が、ニ、三年集中的に、この山国にも押し寄せたことがあった。伊勢湾台風や15号台風などだ。

その台風のときに、ちょうど父が東京に出張していて、母と子どもたちだけで、台風を向かえる準備をした。当時のことだから、川には土のうを積み、家には斜交いの板を打ち付けるということなのだが、大人の手にはできても、子どもの手には余って、板のうち付けが間に合わないうちに、台風が来てしまった。

夕方になって、川の水位が極限まで上がってしまい、下流では氾濫が伝えられる事態になった。ちょうど板のうち付けができなかった分、外の状勢がわかった。風が凄くなって、ついに納屋の屋根がどうっとばかりに、隣の家のほうへ飛んでいってしまった。

それは良いほうで、前の家からトタン屋根の板が手裏剣のように、ビュンビュンと飛んでくる。そして、ついには、隣の家の窓に突き刺さった。こちらへ飛んできたら、たいへんなところだった。

こんな山の中でも、床上浸水の水害が起こって、台風の去った後はあとで、また赤痢が流行って、友人たちが隔離され、学校が休校になる騒ぎが続いた。

こんなことも、母の記憶から次第に無くなってきているらしい。台風の怖さは覚えていても、細部は忘れて、のんきなことばかり言っている。

2007/07/12

虎ノ門での昼食

虎ノ門にある、放送大学の東京連絡所で会議のあるときには、いつも昼食をこの近くで取ることになる。

かなり昔にアルバイトで通った場所だが、街の記憶はなかなか薄れない。とくに食べ物の記憶は残っている。

それは独身時代だったので、昼食は、みんなと一緒に食べに出ることにしていた。東京連絡所の近くには、特別に通った店が多い。

「げそ」と呼ばれていた寿司屋は、皆のたまり場だったが、現在では、どうも場所がわからない。砂場(蕎麦屋)はさすがに盛っていて、いつ行っても混んでいた。アルバイト先の女性の研究員の方がたも、蕎麦ならば、気軽に付き合ってくれた。

今日も通りかかったが、一本入った狭い通りに、昼時になると、50人ぐらいの列のできるパスタ屋「ハングリータイガー」があって、食事をするより、並んで話をするほうが目的だった。もちろん、美味しかったけれど。

虎ノ門の表通りに面して、うなぎ屋さんがあったように思っていたが、どうも勘違いだったらしく、二本も裏道に入ったところに、店はあった。以前は、旧来の日本風の食事屋らしく見える店だったが、今日はいると、立ちそば屋と見まごう、セルフサービスのうなぎ屋さんに変わっていた。自動販売機で食券を買って、ひじを突き合わせながら、うな丼をいただくのである。

日本橋には3万円のうなぎがあると聞くが、それとは、ちょっと異なる食事スタイルなのだ。冷房がかかっていても、さすがにうなぎを焼く熱気を消すことはできない。夏だからなのか、われわれの体温なのか。

どう考えても、食事だけでは、時間をつぶすことはできない。会議までの時間を費やすには、喫茶店に避難しなければならない。前は、混んでいる店を避けて、葡萄屋などのすこし広い店へ行っていたが、これも地理感覚が衰えたせいか、見当たらない。

今日のところは、連絡所の交差点から神谷町のほうへちょっといったところにある、ケーキの美味しい店で、持参した本を広げた。アメリカンなのに、香りと味の素晴らしいコーヒーだった。

2007/07/11

クチナシの花

仕事で辛いことにあったときに、どうするのか。個人のできることには限りがあるので、どうしても壁に突き当たることがある。もちろん、最善を尽くすことは行わなければならないが、それでも手に余るし、その後ずっと引きずっていかなければならない。

仕事からの帰り道、夜も更けて、いつもの暗い公園のなかを通っていく。ずっと暗い道が続いていて、梅雨の雨が降っているのだが、そのなかにあって、途中に白く明るい場所がある。070710_173001

この季節の、ほんのちょっとの瞬間的な白さだ。見方によっては、あまりに過剰な白さなので、その香りとともに敬遠されてしまうかもしれない。

雨の露を吸っているので、周りの景色のなかに溶けていってしまうかもしれない。それほど危うい白さなのだ。

このようなことは、八王子の山の中で、毎日いつ果てることもなく、読書に明け暮れたときにもやってきた状況だ。読んでも読んでも周りは暗く、何も見えてこない。現在はそのようなことも起きなくなったが、周りが文献や書籍から、人間に置きかわったに過ぎない。

そのときに住んでいた家にも、殺風景ななかに、この時期だけ特別に、白い空間が存在していた。ベランダの片隅に、ひっそりとクチナシの花がやはり咲いていた。

2007/07/09

大学フェア

最近、大学フェアと称して、学生募集のための展示会が盛んに行われている。フェアというのは、経済学者にはおなじみの「市」という言葉に当たる。ふつうは、商品取引の場として、フェアが設けられる。だから、厳密に言葉を問題とするなら、大学フェアというのは水と油をくっつけたような言葉だ。日本人は、カタカナに寛容なので、成り立つ言葉なのだろう。(と言いつつ、用例を見てみると、米国でも結構使われているみたいだ。)

さて、横浜市のパートナーシップ協議会主催の大学フェアが、横浜駅近くの「そごう」デパートまえで行われ、神奈川学習センターもパネル展示で出展した。横浜でも最も人通りの多いところで、会場としては申し分のないところである。

職員の方がたが交代で説明に当たっていたので、応援にはならなかったかもしれないが、元気づけに立ち寄った。一般の大学が多く参加しているので、高校生がたくさん来ていると思ったが、意外にも一般の人びとが各大学の案内に訪れていた。

なぜ今どき、このような大学フェアが流行るのだろうか。大学が熱心であるばかりでなく、これを横浜市という公共団体がなぜバックアップするのかというところが、興味深い。横浜は、「大学都市」という宣言をしているところでもある。

ひとつには、社会人による生涯学習への関心が高まっているからである。一般市民が再び大学へ行く時代を迎えているのだ。ふたつに、一般の大学も少子化の影響で、成人教育に熱心になってきている。いわば、「生涯学習」モデルは、大学のビジネスモデルの中核になってきているのだ。

以上から言えるのは、みっつに、国立も公立も私立も、市民の大学という意味が大きくなった。そのため、大学は地域社会での公共的な位置づけを受けるに至っているからである。

つまり、このことは、生涯学習という意味では、放送大学と一般の大学との区別が、なくなってきていることを意味している。まだまだ、一般の大学で、生涯学習大学ということを名乗る大学はすくないが、放送大学に近いところを目指す大学が、そのうち出てくることは必至である。

そのときにあっても、放送大学はまだ「生涯学習」の大学としての優位性を持っているのだろうか。現在はまだ、一歩先を走っていて、いろいろと施策を試す余裕がある。この余裕があるうちに、放送大学にとっての生涯学習とはなにか、という根本的なことを考えておきたいと思ったしだいである。

2007/07/07

紅色のジャガイモ

Img_1709 神奈川学習センターのN氏から、紅色のジャガイモとメイクイーンをいただいた。家の畑で作ったそうで、センターの方がたに10個くらいずつ配っていらっしゃった。相当たくさん栽培したようだ。

紅色のジャガイモは、原産がアンデス山脈で、インカ帝国に由来するらしい。

わたしの田舎では、小さなころ、芋ほりといえば、サツマイモのことを言っていた。毎年、町内会で出かけて収穫し、そのまま焚き火に放り込んで、焼き芋を作るか、あるいは、バーベキューで焼いて食べるかすることになっていた。芋ほりは、集団で行う行事として存在していた。

ところが、あるころから、芋ほりはジャガイモになった。最初は、小学校4年生のとき。クラス担任のS先生が、信州の松本近郊の農家出身だった。笑い顔のとても素敵な先生で、自然のなかで、輪になってしゃべっていると時間を忘れるほどだった。家に、クラスみんなが招かれて、芋ほりをした。それがサツマイモではなく、ジャガイモだった。

やはり、焚き火に投げ込んで、バターをぬって食べた。ジャガイモがこんなに美味しいものだったのか、と再認識したときだった。わたしの家の周りもかなりの田舎だったので、自然で美味しいものには、事欠かなかったが、ジャガイモはなかでも特別な位置を占めている。たぶん、S先生とそのクラスの思い出と一緒になっているからなのだろう。

S先生の実家は、農家でも特別に大きな家だった。玄関に通ずる並木道にこぼれ陽が当たって、広く掃き清められた庭に、クラス全員が一杯に広がっても、まだ余裕があった。帰りに、渓流となっているところに、桑の実やスグリの実がなっていた。

都会に住んでいると、このような田舎の豊穣さに思いをいたすことは少ないが、都会からちょっと離れただけで、ほんとうに豊かな生活があるのだと、10歳のころになって、ようやく知るようになった。ジャガイモは、そういう意味でも、わたしにとって豊穣さの象徴でもあるのだ。

2007/07/06

最後に帰郷できるものは

最後は、ふるさとで死にたいと思う。墓もあるし、人びとが待っている。有名な戯曲「ペール・ギュント」のように、いちど何かが起こって、ふるさとを飛び出してしまったものが、どのような契機で戻ってくることができるのか。

古くて新しいテーマである。アルモドバル監督の「ボルベール(帰郷)」を観た。最初のシーンで、すでに物語のひとつの世界を感じる。スペインのラ・マンチャでは、生前に墓を作り、家族の墓を週に3回訪れて掃除をするという。死者とともに生活する習慣が残っている。

この物語の中心以外は、明確である。話の筋ははっきりしているし、わからないところがまったくない映画だ。主人公のライムンダの性格も、ひとつの秘密を持っている以外は、目鼻立ちがくっきりしているのと同様、はっきりした激しいものであることがわかる。その性格の特徴は色彩豊かな服装と、黒く輪郭をとったメイキャップに現れている。

(この女優から、この演技を引き出した監督の力量は凄いと思う。映画は、こんなに人間の性格を変えてしまうことができるのか。)

なぜ帰郷なのか。それがこの映画のポイントだ。帰ってきたものに尋ねる場面がある。なぜ帰ってきたのか、それに「孤独だったから」と答えさせている。

もっとも恨みに思っているものが面倒をみたり、面倒を見られたり、ふるさとでは人びとのネットワークが複雑だ。すくなくとも、短期的な損得勘定で動く都会のネットワークとは大違いだ。

見ているときには気づかなかったが、たしかに都会のなかの商売や友人の間のネットワークと、故郷での何十年にわたる家族同士の長期のネットワークを比較している。ライムンダを廻って動く、レストランを中心としたネットワークが片方であり、小さなときから付き合ってきた親族や故郷の隣近所のネットワークがもう一方で描かれている。

これらを再び結びつけるものとして、「幽霊」が登場するのだ。そして、ここがこの映画の想像力として素晴らしいところなのだが、女性だけの世界のネットワークがありうるのかが問われている。出てくる父や夫は、いずれも影が薄い。そして、最後に、この幽霊が現実のネットワークの結節点として役割を与えられると同時に、映画が終了する。

物語として、現代の、ひとつの伝統的な世界が完璧に描かれていると思う。

2007/07/05

検索的生活

070705_181201 今日も調べものをして、日が暮れるころに、図書館を出ることになった。

研究室が神奈川と幕張の両方にあるために、文献や資料が分散してしまい、どこにあるのかわからなくなってきている。とくに、文献がダンボールに入ってしまうと、ほぼ絶望的だ。

先日、出版社から届いた読者からの質問に答えようとしたら、ちょうどその参考文献が手元になかった。どこかのダンボールのなかに眠ってしまっているのだろう。

最近はこのような時、すぐに探すのを諦めてしまう傾向がある。そして、さっさと横浜市立図書館か、神奈川県立図書館へ出かけることにしている。だから、ほんとうのところ、図書館の30分以内でなければ、生きていけない。酸素ボンベのような存在なのかもしれない。ちょっと大袈裟かもしれないが。

気になっているのは、わたしの生活が「検索的」人生を歩みつつあるということだ。上記の資料収集が良い例である。じっさいには、自分で文献をキープしておきたい。キープという意味は、いつでも取り出せるように管理しておきたいということだ。

けれども、キープどころか、次第にあちらこちらへ散逸してしまっているのだ。このようなときに、便利で現実的な方法が、検索的生活である。

個人生活を諦めて、私有財産を共有財産にして、公共の生活にかなり依存する生活を始めたらどうかと思い始めている。つまり、公共図書館が我が家の書庫だと思えばよいのだ。070705_182301_1

もちろん、このような生活には、当然メリットとデメリットが存在することはわかっている。検索生活のデメリットは、検索を使うそのデータベースにかなり依存することになる。したがって、データベースのあり方に影響を受け、知らないうちに、生活が馴化されてしまうことである。

070705_191701けれども、それにもまして、検索生活には魅力がある。今後、自分の記憶は退化することはあれ、これ以上に、進化することはない。そのためにも、なるべく蓄積はやめて、現在を生きたい。そうなると、多少自分による管理の生活を諦めても、公共のデータベースを使用せざると得ない。

そのためにも、検索に耐えうる、そして影響を極力コントロールできるようなデータベースを日常生活のなかで、作っていくより仕方がないのだといえる。070705_182201

図書館の坂道を下り、音楽通りをまっすぐ行くと、いつもの喫茶店ダウンビートの表側に突き当たる。そのビルは、キッチュなパチンコホールなのだが、それとは対照的に、その裏側に地味な雑居ビルがあって、そこには黒く落ち着いた空間が用意されている。

今日は、懐かしいキース・ジャレットのトリオの曲がかかっていた。未だ時間は早かったので、客は女性客が一人しかいなかった。

 

2007/07/04

青く光る熱帯魚の水槽

久しぶりに千葉学習センターのラウンジを通ったら、事務長のK氏が学習センターの「名物」となっている熱帯魚の水槽の改修工事を行っていた。

このラウンジは、1階と2階が吹き抜けになっていて、中庭に面して、おおきなガラス窓が開かれ、その窓沿いのテーブルには、紫色の小さな蛍光灯群が華麗に並んでおり、千葉学習センターのなかでも絵になる場所のひとつなのだ。

その一角に、熱帯魚の水槽が据え付けられている。おそらく、数ある学習センターの中でも、これだけの水槽のあるところはほかにないと思われる。その水槽が苔でや水草で汚れてきてしまったので、浄水器を換えて、さらに「カリビアン・ブルー」の蛍光灯を取り付けようということらしい。(ただの普通の蛍光灯のように見えるが、電気が通ると青く光る蛍光灯らしい。)070725_114604

折り良く、生活と福祉専攻のNa先生と、自然の理解専攻のNi先生も通りかかり、しばし熱帯魚談義となった。

これまでの照明だといかにも、北国の淡水河川のイメージだが、ブルーの照明を入れた途端に、海の底か、南国の河のイメージになるとか・・・。ブルーの水だと、綺麗に見えるだとか・・・。K氏の説明に反応して、ブルーに光輝く魚に感嘆したりして、仕事をしているK氏の脇で、かなり邪魔してしまった。

Ni先生は生物の先生なので、進化論には詳しい。そこで、なぜ熱帯魚は色が鮮やかなのかを問うてみた。「美しいものには、毒やとげがある」式の進化をとげ、生き延びてきたからだろう、というたいへん明快な説明をいただいた。途端に、Na先生が美しさと、キツイ顔を強調なさっていた。

このように、ときどきみんなの話題の中心になるような「記念物」や「名物」は、日ごろはいつも注目されるわけではないが、一生懸命に維持している方がいることを明記しておきたいと思ったしだいである。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。