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2007/06/05

京都の平熱

京都をはじめて訪れてから、かれこれ40年になる。かなり通ったつもりなのだが・・・やはり表面をさっと楽しんでいたという印象は免れない。

信州の故郷に、「清水(しみず)」というところがあって、そこでいつも遊んでいたために、京都の清水寺をつい「しみずでら」と言ってしまう。先日のことだが、口が滑ってしまい、河原町を「かわらちょう」と言ってしまった。すぐ、「かわらまち」と正された。

という程度の「京都通」ならぬ、「京都通い」なのだ。それで「先達はあらまほしき」の状態なのだ。学生時代には、東大がなかった関係で京大に入った同級生のS君がいて、京都へ行くと、学期末試験中にもかかわらず、あちこち案内してくれた。

鍵の壊れた自転車を都合してくれて、下宿先の油小路から御所を横切って、鴨川を渡り、ロック鳴り響く西部講堂近くの学食へいったり、京都のジャズ喫茶めぐりをしたりしてくれた。また、彼のお父さんの知り合いだった西陣の織元にも紹介してくれて行儀作法を教授されたりもした。別の機会だったけれど、楽友会館のゼミも緊張したけど良かったな。

ところが、S君が関東へ帰ってしまってからは、京都が遠くなった。研究会や資料収集で、大学関係は良くわかるようになったが、それでも京都の街は点としか見えなかったしわからなくなった。

今回、「meets」とか、「月刊京都」とか、なぜか関東で流れている「京都チャンネル」とか、それに夥しい「京都本」が発行されているなかで、京都をひっくり返して見せてくれる本が登場したのだ。

京都の案内書はほんとうにたくさん有りすぎるくらいあるのだが、過不足なく京都の同時代性を描いているものはまったくなかった。どれを読んでも満足できるものはほとんどなかった。有りすぎて、どれが真実なのかがわからなかったと言ったほうが正確かもしれない。

こんなときに、鷲田清一『京都の平熱』が出版された。平熱どころか、かなりの熱情がこめられている。次のようなフレーズが中身を代表している。「そこに入ると世界が裏返ってしまうような孔や隙間は、しかし、消えたのではない」と。

そして、「身体」哲学者としての官能的な文章が続く。

「たとえば、濡れた石畳。驟雨の後もいいが、打ち水した石畳はもっと心地よい。足元に広がる墨絵の世界。その上を歩くと顎を生暖かい蒸気が撫でる。足裏に頑固な石の肌理を感じたとおもえば、次の瞬間、危うくつるりと足を滑らせそうになる。下駄のからから鳴る音に、ときどきひぃーっときしむ音が混じる。水を打った石畳、それは、見た目には静謐でも、そこを通り抜けると、身体のあちこちでいろいろな感覚がにぎやかにさざめきはじめるのだ。線香の香り、苔の感触、家の前に水を打つ音、格子越しに聞こえる包丁の音、簾越しに漏れくる三味線の音、舞妓を叱責する女将のきつい声、竿竹、豆腐、花の売り声。木戸をくぐるときの腰のしゃくれ。かつをだしの匂い。障子がつくる陰影。つるつるに磨いた柱の手触り……。そして、石畳の悠久の時間と、町家の木目に刻まれた自然の時間と、道を急ぐひとのせわしない生活の時間。つまり三重に折り重なる時間の層。感覚のざわめきと言うよりは、むしろせせらぎがここにある。感覚の陰影のなかにいまも奥深く身を沈めることのできる町。」

京都らしさ、とは言いたくないそうだが、京都の得意わざは次の点にあると、「京都市の基本構想」としてまとめたそうだ。京都の産業にそれぞれ対応していると、わたしは見た。1.「めきき」・・・なるほど、2.「たくみ」・・・そうかも、3.「きわめ」・・・つっぱってますね、4.「こころみ」・・・ちょっと詰まってありきたりかな、5.「もてなし」・・・それはそうだろう、そして、6.「しまつ」・・・きめましたね。

でも、これよりももっと京都らしいな、とおもったのは、この本のつぎの箇所だ。

「小さな土地にとてつもない人口密度で生活する。そのなかで町衆たちはたがいのあいだでも、深入りしないという風を築いてきた。きっとあきれられるだろうが、こんな慣わしもある。家の前の水撒き、それは共同生活のエチケットである。じぶんの家を冷やすという意味もあるが、共同の生活の場所をきれいにするという意味もあるし、通りすぎるひとが涼んだ気分になれるように―じっさいは水が陽に煮たって気化するぶん蒸し暑い―というサービス精神もある。が、そのとき、隣の家の前まで水を撒けば、「お節介」ということになる。じぶんの家の前しか撒かなければ、こんどは「けち」ということになる。で、十センチか二十センチだけ隣との境を越えて撒く。これが長い共栄の知恵なのだ。なんともせせこましいが。」

アングロサクソン文化では、隣の芝生が刈ってなければ、刈りなさい、と口をはさんでくるし、それでも効かなければ、「戦争」になるところだろう。

「ひげを動かすと隣のひげについ触れてしまうような隔たり。ひげに触れてしまうけれど、皮膚には触れないような絶妙の距離。」これが、目利きが活きて、巧みが発揮され、極められた試みとしてのもてなしであり、始末なのであろう。

この本を読んでいたら、H先生の秘書Wさんから情報が入り、この著者が阪大の総長になったということである。阪大から博士号をいただいたから贔屓するわけではないが、大学行政をどのようにひっくり返して特色を引き出すのか、しっかり拝見させていただこうと、えらそうにいうわけではなく、傍からちょっと注目させていただこうと思う。

そういえば、以前ここでも注目した学問の極意である「おもろい」の起源についても、この本には書かれている。

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  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。