« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月に作成された投稿

2006/12/31

今年の反省

今年を省みると、友人との関係について考えた一年間だった。

ひとりの友人とは、音信不通になってしまった。30年間付き合ってきたのだから、どうゆうことなのか、いまだに理解できないでいる。電話もメールも通じなくなったので、家まで訪ねていったが、どうも帰っている様子がない。隣人にも聞いたがわからない。今頃、どうしているだろうか。

「しばらく黙っているといい、その沈黙に耐えられる関係かどうか」(キルケゴール)

ひとりの友人は、転職を果たした。歳をとって、異なる会社へ移るというのは大きな冒険だと思う。このような勇気をまだまだ持っていることに、目を見張る思いだった。自分にも、このような元気がまだあるかは、わからない。柔軟な思考の本当のところについて、そのうち一緒に飲んで、議論してみたい。

もうひとりの友人には、今年ずっと、お世話になった。この歳になって、日常でなく、思弁の世界でこれほど交錯する関係を持てたのはたいへん仕合せだった。もっとも、この友人にとっては煩わしいかぎりだったと思うが。

このような関係を創り出すことができるとは思わなかった。この関係については、お返しに、わたしのなかでもうすこし発展させなければならないだろう。それが来年の課題となることは間違いない。

最後に、友人以外の関係についても、言っておかなければならないだろう。妻には、いつも仕事、仕事といって、家の仕事をすっぽかしている、わざと、この時期に仕事を入れているのではないか、と叱責されてしまった。

ということは、家族のみんなと親戚関係ばかりでなく、仕事関係でも同様のご迷惑をかけていることは間違いないだろう。いつもの不義理をお詫び申しあげる次第である。

除夜の鐘が聞こえてきました。良いお年をお迎えください。

2006/12/30

湯あたり

甲府から帰ってきてから、どうも肌がちくちくする。腕の皮膚もこころなしか茶褐色になっている。

妻は、湯あたりではないかという。ふつう、湯あたりはその場で気分が悪くなったり、貧血になったりすることと思っていたので、思いつかなかったのだ。たしかに、大辞泉をみると、「長く湯につかったり何回も入浴したりして、からだに変調をきたすこと」とある。

甲府には、東京から押し寄せたホテルや、独立系の安いホテルに対して、地元の老舗ホテルがあることは、夏に知った。名古屋と読んでしまった「古名屋」ホテルと、談露館ホテルである。

A先生がゼミ合宿で談露館へ泊まったことがある、と聞いていたので、今回は「古名屋ホテル」を宿坊とした。これは正解であった。暮れだったので、客が少なく、ホテル全体に余裕があり、仕事をするには最適であった。ラッキーであった。

広い部屋を用意してもらい、講義に出る以外は、部屋に閉じこもって仕事のできる快適な環境を得ることができた。

とくに、夜中は最高の状態だった。このホテルを選んだ理由は、大浴場のあることだった。部屋に帰ってすぐこれに入り、すこし仮眠を取った後、また湯に浸かった。

24時間かけ流しの湯で、すこし硫黄の匂いがするが、肌がすべすべになる泉質だった。三日目には、雷雨の強い寒い日になって、湯煙がもうもうとたち、30センチ向こうが見えないほどであった。客には、一人も出会わなかった。貸しきり状態なので、つい長湯をしてしまうのだ。

これが湯あたりの原因となったのだが、それにも増して効能あらたかだった。夜中でも眠気を覚ましてくれる万能湯であったし、肩こりはこの期間だけ起きなかった。睡眠時間は、いつもより少なかったけれども、昼間の講義でも眠くなかった。

結局、ゆり戻しがきたのだったが、何か無理をするときにはこの程度のことは我慢しなければならないだろう。

思い出したが、このような徹夜状態で、湯に入った経験は過去に何回かあって、その印象が続いているのだと思われる。

20年ほど前に、渋谷の寮に住んでいたことがある。このとき、住人は皆独身男性だった。ある夏、揃って西伊豆へ温泉旅行を挙行した。着くやいなや、麻雀大会ということになり、二日続きの大会が繰り広げられたのだ。

麻雀で何卓かを囲むことになったが、ブービーの人は一人ずつ休憩に入るルールを作った。かなり年配の方もいたので、休み休み行った。有名な温泉地で、やはりかけ流しの露天風呂にいつでも入ることができた。休みのときには、2時間おきくらいに温泉へ浸かって、それでも麻雀を続けた。

二日目に入ると、かなり差がついてきて、もうこれまでということになった。このときにも、かなりの肩こりがあったが、温泉ですっかり大丈夫になり、二日くらいの徹夜はものともしない、という根性がこのときできたように思う。

このときは、湯あたりはしなかったな。ボヘミアン時代の懐かしい思い出である。

2006/12/28

仕事納め

今年の仕事納めは、白い富士山を眺める甲府で行うことになった。(もちろん、これは外での仕事で、内の仕事はまだまだ続く。)_001

今回、YP大学での講義は、ゼミ形式を試してみた。2年生が多く、まだゼミナールの経験が少ないらしい。けれども、テキスト読解と、グループ討議と発表ならば、すぐに慣れるだろうと始めた。

取り上げたテーマは、流行りの「Social Capital」であるが、かなり深いところまで議論したつもりである。

_012 進めて行く内に、とくに興味深かったのは、プレゼンテーションのうまい人が、必ずしも文章がうまいわけでもない。また、逆に文章のうまい人がパソコンがうまいわけでもなかった、という点である。

大人になってくると、これが次第に相関して来る場合があるのだが、やはりまだ若いだけに、集中的にその訓練を行ったものは、文章だけに偏るか、あるいはプレゼンだけに偏るかしているのだと思われる。_017

この点で、グループ討議とグループ発表は、それぞれの特技を補い合って、組み合わせの妙を得ることができたと思われる。もっとも、多くは彼ら彼女らの柔軟性に寄っているのだが・・・。

_021 抽籤で決めたグループだが、それぞれ入れ替わり立ち替わり役割を分担し合っていた。写真で見ても、仲の良い状態を察していただけると思う。

おそらく学年自体が少人数なので、すでに個々人の性格を互いに知り尽くしているのだと思われる。時間が少なかったので、誰と誰がカップルなのか、というプライベートなところまでは判らなかったが。

学生の方々はテストの点が気になっていると思われるので、ここで伝えてしまうことにしよう。

当初は、すべての評価を筆記試験で行おうと考えていた。ところが、上述のように、結局それは全体の評価にはならないことがわかり、それぞれの取り柄を取り込んで再評価することにした。

このようなこともできるのも、集中講義だからこそだと思われる。また、学生の方々も受け取った点数が思ったより良くても、それは筆記試験の結果ではなく、それ以外の評価が入っており、将来へ対する奨励賞的なものであると考えていただき、今後の学習で挽回していただきたいと思う。_023

とくに、グループ討議とグループ発表の結果が入っているので、仲間同士のSocial Capitalが効いていることを認識して欲しいと思う。ときどきは、そのことを思い出すために、ここに記念撮影したものを掲載しておくことにしたい。

帰りの特急「あずさ」まで、時間があったので、夏にも寄った駅近くの「六曜館」で、浅煎りブレンドをご馳走になり、年末のための豆も仕入れる。しばし今年の反省をして、一服。

外へでると、昼の暖かさとは打って変わって、北から木枯らしが吹いてきた。来年はどのような風が吹くのだろうか。このくらいの中ぐらいでとどめてほしいものだ。

2006/12/27

そば湯割りの焼酎

今日の講義が終わって、学生に美味しい店を知らないか、と尋ねると、「ナチュラル・グレース」というパスタの店があるが、今日はあいにくお休みだという。

仕方ないので、山国で最後に行き着くのは、街のそば屋さんである。ホテルからすこし行ったところに「奥義」と看板のかかった大きな店構えのそば屋さんがあった。「おうぎ」というからには、秘伝のそば打ちでも見せてくれるのかと、期待して行くと、店の名前は「おくよし」と読むということがわかった。

そば湯割りの焼酎があり、魅力的に誘っていたので、盛りそばと一緒に頼む。そば屋でお酒を飲むというのが、究極の食道楽・飲み道楽だ、とよく言うが、シンプルな取り合わせで好ましいと思う。

すでにその道の先客が二人もいて、まだ夕方にもかかわらず、すでにアルコールの量は上がっているようだった。もし独居老人になったら、ひとりで飲むより、そば屋でお酒というのが良いかもしれない。

けれども、逆もあるようだ。店には頻繁に電話がかかってきていて、そのたびに少しすると、段重ねのテイクアウト風の包みを小脇に抱えた老人が店を出て行く。おそらく、打ってもらったそばを、家で食べるのだ。たぶん、そば湯も一緒にもらっているに違いない。

これも良いな、と将来構想を企ててみたものの、酔いを醒まさないと、とりあえず今夜の原稿書きに差し障る。先日の喫茶ロッシュで、ブレンドをいただき、昼の昂揚と夜の酔いを覚ますことにする。

2006/12/26

女性の会社関係

最近目立つのが、電車で口を開けて眠っている人たちである。わたし自身もときどきやっているので、言えた義理ではないのだが・・・。けれども、このところめっきり増えたのが女性の居眠りである。

十年ほど前までは、男性の特権だと思われていたものまで、女性化されたのである。おそらく、ここ数年の「風物誌」だと思われる。女性の仕事がきつくなっているのだろうか。

それでさらに、今日遭遇した光景も、昔はあまり目にすることがなかったようなものなのだ。

夏にも訪れた甲府丸の内の「Four Hearts Cafe」で食事を摂っていると、なにやら店の入り口辺りからすすり泣きが聞こえてきたのだ。

どうも近くの会社に勤めている先輩と後輩が女性同士で話しているらしい。話の内容は、先輩が会社のルールをとくとくと教授し、後輩の非を責めているのだ。たまらず、後輩は泣き始めたらしい。女性の井戸端会議のように明け透けなところがないし、上司の悪口を言い合うような楽しさがあるようにも見えない。要するに、「インフォーマルな関係」による労働の「動機づけ」という、一時代前に男性の関係でよくみられた光景なのだ。

もちろん、昔なら居酒屋に寄って熱燗でじっくり行われたのであろうが、今日では洒落たカフェで、帰りにちょっと行われているのだ。男性関係から女性関係へ、人間関係が変われば、場所も変わるということだろうか。

あるいは、男性はインフォーマルな関係を酩酊文化で行うが、女性は覚醒文化で行う、という解釈はいかがだろうか。

さて、その「Four Hearts Cafe」では、フルーティなビールと、夏にもいただいた静岡産の黒エールを飲んで、薄焼きのピザを注文する。店の方が親切で、ひとつひとつ説明してくれるのだ。そして、エールもピザも相変わらず申し分なく美味しかった。エールは「よなよなビール」(軽井沢産)「島国スタウト」(Baird Beer)、ピザは「薄焼きのトマトとモッツアレラチーズ」、最後にエスプレッソのコーヒー。そして、今日も、コーヒーを飲みながら、校正を一本仕上げた。この辺が泣けるところだ。

2006/12/25

山梨でのクリスマス

大きな荷物?を抱えて、山梨へ来ている。どんな荷物かって? ご想像にお任せします。

そういえば、昨日放映していた「ロード・オブ・ザ・リング」で、主人公のブロドも重い荷物?を抱えて旅をしていた。しかも、山をいくつも越えながら。似た状況だな。

ファンタジーの効用は、ありえない状況のもとでも、なんとか頑張ってしまうことができるということにある。だから、こんなに人気があるのだ。それにあやかって、今日もまた山を越えようと思う。

駅を降りると、ツンと冷気が鼻を刺す。地元の人は、今年は暖冬だといっているが、コートの襟を合わせないでは、居られない。

仕事を終え、お腹がすいたので、ホテルの食堂へ行く。ところが、クリスマスのため、特別のディナーしかありませんと、門前払いされてしまった。ひとりでクリスマス、という状況は、ホテルマンには想像できないらしい。

街はまだ、クリスマスなのだ。それで一瞬ではあったが、わが愛する「独身貴族の方々」はどうしているのだろうか、と想いを馳せた次第である。余計なお世話とまたいわれるかもしれないが、こんなホテルでも独身差別が存在しているとは思わなかったな。

旅で経験してみるべきなのは、このようなところかもしれない。外に出てみないと、こんな差別はわからない。旅に出るからそんな冷遇を受けるのだといわれればそのとおりなのだが、やはり世の中はひとりで行動することを排除しているのだと思われる。

旅には妻を同伴するのがやはり常識なのだろうか。わが妻なら、なんと言うだろうか、聞いてみたいところだ。

最後は、夏にも入った喫茶店ロッシュ。きょうはすこし薄めのコーヒーを飲みながら、抱え込んでいた校正原稿を一つ片付けた。

2006/12/22

心斎橋でベトナム料理

京都から大阪にかけて、文献収集を行ってきた。それからもうひとつ、懸案だった重要な用事を片付けた。この用事のほうは、また記す機会もあると思われる。

昨日は、ラジオの収録を終えてから、いくつかの仕事を片付け、綱渡り的に新幹線に飛び乗って、関西へ向かった。

今回の旅行では、文献の収穫もさることながら、食べることとコーヒーには恵まれた旅となった。冬空の冷たい雨が予報されていたにもかかわらず、(行いが良いのであろう)天気は気分よく晴れてくれた。

薄日がちょうど暖かさを保ってくれる日和のもと、さらに美味しさが加わった旅行となった。たとえば、朝のホテルの食事では、変わった味のヨーグルトが出ていた。最近のホテルは標準化がかなり進んでいて、このようなちょっとした工夫の差異がたぶん客層に影響を与えているのだと想像される。

目的地の一つである、阪大の生命科学図書館へは、かなり早くについてしまったので、たっぷりとある時間をどうしようかな。

途中出あった学生に聞くと、ほぼ構内の真ん中に、芝生のきれいな丘があって、そこに沿って、「ta-ku-mi」というカフェテリア食堂があるという。061222_105101_1

さっそく行って見るが、まだ開いていなかった。ちょうど前に、コンベンションセンターがあって、ベンチもある。ここで太陽を背に受けて、しばし読書と原稿書き。

たそがれの勉強も好きだが、このような薄日の照る戸外での勉強もたいへん良い。冷気が頭を通り過ぎるごとに、何かアイディアが残されるような気がする。

店では、トマトソースのパスタとコーヒー。生協の学食なので、学生が目立つが、なぜかカップルで来る組が多いのだ。京大のカフェテリアもそうだが、生協の学食は学食というイメージを払拭しようとしているようだ。その結果として、カップルが多いのだろうか??

061222_110801もちろん、わたしと同年輩の、髭面の人びともいて、本を読みながら食事をしていた。消化に良くないのはわかっていても、 やめられないのがこの世代の習性なのだ。

小春日和の一日、図書館へ通って、こんな美味しいレストランで食事をするような生活ができれば、言うことはない。

文献収集も終わり、最後に時間が余ったので、夕闇迫る大阪港まで足を伸ばした。東京で見逃したポンペイ展がサントリーミュージアムで開催されているのだ。

装飾品や貨幣以外にも、壁画や遺体の再現されたものが来ていて、それなりに迫力があったが、やはり都市全体の雰囲気を味わうには、博物館展示では限界がある。

広告の起源として、ポンペイの壁に書かれた選挙ポスターがよく引用される。今回の展示にはそれ自体が含まれているわけではなかったが、それが掲げられていた居酒屋のほかの壁画の展示があった。壁画が一種の総合芸術としての地位を与えられていたという現実が面白いと思った。061222_170301

かえりに、ミュージアムに隣接した喫茶店で、ケーキセットをいただく。大阪港にちょうど陽が落ちて、きれいだった。周りを見回すと、このような素敵な場所を占めているのは、ほとんど女性で、どうゆうわけか、男性はこのような世の中の至福の瞬間からはつねに排除されているのだ。

食道楽の大阪で、ご馳走を食べないわけにはいかないと、新幹線までの時間に、心斎橋へ出る。昨日、T先生とAさんとの雑談で話題となったベトナム料理をいただき、さらに心斎橋商店街を歩いていると、古い喫茶店『和蘭豆』(昭和33年からやっているそうだ)を見つけたので、今日最後の一服。明日からの原稿書きの英気を養った一日となった。

2006/12/19

忘年会での素面

職場の忘年会にでる。

じつは、原稿の締め切りが相当詰まっていて、忘年会どころではない状態なのだ。

けれども、やはり一年お世話になった方々の顔を見て、この年を終わらせたい。そしてさらに、原稿も終わらせることができれば万々歳なのだが・・・。

そこでこのディレンマの解決策としては、お酒を飲まずに、忘年会後も原稿書きに戻る、という涙ぐましい方法を考えた。さて、うまくいくのだろうか。

着席は抽籤で決めるのが、この会の決まりだ。幸いなことに、Sさん、Mさん、Tさんたち女性陣に囲まれた場所を確保して、出だしは好調だった。お隣のSさんに習って、ビールの乾杯に続いては、ジンジャエールを頼んで、飲み始める。

飲んだ飲んだ。生まれてから、こんなにジンジャエールを飲んだのは、初めてだった。けれども、そういえば思い出したのだが、高校時代のアルバイトで、ペプシコーラの工場に勤めた経験がある。じつは、このときの記録で、一日10本のコーラを飲んだことがある。今日は、それに次ぐ記録だ。

それにしても、みんながアルコールではしゃいでいるときに、素面でジンジャエールというのは、やはり拙いなあ。つまり、社交性が減じてしまうのだ。向かいのTさんに、冷静に観察している人がいると、まともに酔うことができませんよ、と言われてしまった。

対話では、覚醒の状態が同じでないといけない、という法則性があるのかは分からない。けれども、酩酊していないと言えないことがあるのも事実だ。ところが、もしそこに一人だけ素面で参加している人がいるとしたら、どうだろうか。やはり、拙いのかもしれない。

「酩酊度均衡の法則」と名付けても良いような道徳的規準があってもおかしくないだろう。・・・こんな詰まらないことを考えるとは、やっぱりジンジャエールに酔ったのかもしれない・・・。

2006/12/18

明治のカフェ

柴田宵曲『明治の話題』ちくま文庫を買う。神奈川大学の講義のあと、生協の書籍部にいつも寄るのだが、今日は単行本が一冊とこの『明治の話題』ともう一冊の文庫本を購入しただけだった。

明治時代の日本人は、急速に西洋のものを移入してきたような印象が強い。たとえば、福沢諭吉の明治時代論では、日本人の新しい物好きを頻繁に取り上げている。

けれども、明治時代論者のなかにも、慎重論の人びとがいて、柴田宵曲もそうではないかと思われる。もちろん、西洋物を多く取り上げてはいることは確かだが、その取り入れ方についてはおっとりしている風を描いている。

相変わらず、コーヒー関連に目がいってしまうのだが、カフェの項では、日本で最初の喫茶店「可否茶館」を描いている。そして、そこでは「時世がすこし早すぎたのだといふことである」と論評して、明治期にはコーヒーは盛んではなかったことを伝えている。

また、福本日南の文章を引いて、大正時代に流行ったカフェとは趣きが異なることを指摘している。明治期には、まだまだ日本人はコーヒーを好きではなかったのだ。

それにしても、明治期にすでに、ベトナムのサイゴンが「東洋のパリ」として、本国のフランスよりも、コーヒーが流行っていたというのは、なるほどと思われる。今日のベトナム・コーヒーはこれほど年季が入っていたのだ。

やはり、一度ベトナムへ行って来ないことには、この研究は始まらない。どこかにスポンサーはいませんか!

2006/12/15

星空のクリスマス会

職員手作りのパーティは、たいへんな盛況ぶりだった。この日のために、働いてきたのではと思われるような(わたしも当然含まれるが)職員の方々で会場はあふれかえった。

会場は、星空の見える円形ガラス張りの部屋で、音響にとってはすこし辛いものがあったが、晴れた冬の夜空のなかで、外から見ると全体がクリスマスツリーの飾り物のような華やかな感じを映し出していた。

会費が安いので、いつものように食べるものが無いのでは、と思って行ったのだが、なんと、たこ焼き、芋汁炊き出し、ピザなどなど、盛りだくさんのご馳走だった。 061215_200101

夏のバーベキューのときよりも、さらにゲームとアトラクションが充実していたと思う。先生方のコーラスは、今か今かと、なかなか順番がまわってこなかったが、いざ出演となると、全員がサンタ帽をかぶって、団結ぶりを示していた。写真がちょっと小さくて見えるかな。Ka先生、Ok先生、Ma先生、Ok先生、Mi先生、そして実行委員のNa先生なんだけど・・・。

職員バンド「「BOUSOU  DAIGAKU」は昨日書いたように、夏の出演以来だが、練習に次ぐ練習の成果が出ていた。期待に違わず、迫力をさらに増していて、レパートリーも格段に多くなっていた。前にも言った様に、やはり学生たちに、聴かせてやりたいなあ。

061215_201101 写真のなかで、ライトが当たって、丸くなったなかに、「大学の窓」のKさん、Fさん、Mさんがそれぞれドラムス、キーボード、ボーカルで写っているのだが、わかりますか。それから、同じくアナウンサーのOさんは、司会者として舞台の袖のほうに、・・・残念ながら、写っていませんでした。悪しからず。

舞台のうしろに、○と×が見えると思うが、これは件のクイズに使われたものだ。ワルノリして、このクイズに出てしまった。結果は4問目にあえなくダウン。「放送大学から一番近い駅はどこか」というクイズだった。裏から行けば、やはり京成幕張駅ではないか、と思ったのだが、答えは無情にも、JR幕張駅とのこと。残念。

日ごろ、会ったこともなく見たこともない職員の方々の面白い一面や、意外な一面を拝見しながら、このような小さな組織のなかでも、こんなに知らない方々がいるのだと改めてびっくりした次第である。

クリスマス会から帰ってみると、大学院修士生から論文草稿が届いていた。今日も、日本のあちこちで、原稿に向かっている学生がいるのだ。あすは卒論の審査もある。

2006/12/14

クリスマス会前夜

夕方になると、研究棟のどこからともなく、歌声が響いてくるようになった。この研究棟の4階のちょうど真ん中に当たるところがサロン風の広場?になっていて、ピアノがおいてある。どうも、この辺から聞こえてくる。

クリスマス会が明日あるのだ。実行委員のN先生から、一人ずつへの勧誘が入ったおかげで、参加者も順調に伸び、昨日の教授会席上では、参加費も集められ、準備万端のようだ。

クリスマス会の思い出は、やはり幼稚園時代のものが鮮明だ。田舎街に育ったせいか、西洋文化に触れる機会はそれほど多くはなかった。キリスト教系の幼稚園ではなかったにもかかわらず、イエス・キリストの生誕劇をみんなで演じることになった。派手な衣装をつけ、練習を行った記憶が蘇ってきて、額に汗が滲んできた。

そして、突然サンタ・クロースがそのクリスマス会に闖入してくるという、お決まりのパターンが毎年進行されたのだ。一人ひとり手渡されるプレゼントが用意されていて、みんな異なっていた。これはたいへんな作業だったのではないだろうか。それにしても、あの衣装とひげ面が似合っていたあの人は、誰だったのだろうか。

そして、必ず用意されたのが、みんなで行う遊戯であった。毎年異なっていたが、その年用意されたのは、(偶然そうなったかのように用意された、)「ピアノの音当て」遊戯であった。園長先生がバイオリンの先生だったこともあり、絶対音階のテストを兼ねていた、と今になってみれば思われる。

先生が押したキイと同じキイを、園児が見当をつけて押してくるのである。合えば喝采、間違ったら間違ったで喝采、ということで結構盛り上がった。

後になって、クリスマスにはひとり静かに祈るものだ、という文化を知らされることになるのだが、幼稚園ではみんなで楽しむものとして、クリスマス会はあったように思う。この経験は、いまでも続いていて、忘年会とクリスマス会の区別がつかないまま、この歳になってしまった気がする。

先日お披露目された職員バンドも、あれ以来久々に演奏されるそうで、Kさんのブログをみると、練習に余念がないとのこと。これは期待できそうだ。明日もきっと、楽しいほうの「クリスマス会」になることだろう。

2006/12/09

講演会のデザイン

デザインとはなにか、たっぷりと考えさせられた講演会だった。

宮崎先生の語り口は、「教育歴40年の話は、『目からうろこ』で、あなたの暮らしと人生のデザインが、素晴らしいものになることうけあいです。『つまらなった』と言う方には、参加費用をお返しします。」というコピーをご自分で書かれるほど、経験に裏打ちされた面白いものだった。

昨日、予告した講演会が盛況のうちに終了した。天気があまり良くないなか、親子連れや友人同士の方々が目立ったが、学生や近所の方中心に、たくさん集まってくださった。

100枚以上に及ぶスライドが用意されていたので、時間は大丈夫かな、と思っていたが、前半の講義に加えて、スライドがたっぷり映され、かなりボリュームのある講演となった。

デザインが暮らしの中に取り入れられることで、自分がデザインされる、という結論はたいへん興味深かった。

結局、現代の存在物で、人間も含めて、デザインされないものは、ほとんど存在しない。これほど、デザインが溢れるのはなぜか。

やはり、モノがモノ足りえることが、今日あまりになくなってきたといえるからではないだろうか。デザインされると同時に、デザインすることを通じて、わたしたちは身近なものを確かめているのが、今日のモノの実態ではないか。

存在を確かめるものとしてのデザイン、ということが、わたしのデザインに対する感想である。

土曜日にもかかわらず、駆けつけてくださったAnさん、Asさん、Hさん、Sさん、Tさん、どうもありがとうございました。それから、学習センターのスタッフの方々にも感謝申し上げる次第である。_002

朝、いつものAnさんのコーヒーが土曜日でいただけないので、人気のないカルフールまえのスターバックスにちょっとよって、一服。

2006/12/08

緊急のお知らせ

いよいよ明日、公開講演会が千葉学習センターで行われる。

今回のお話は、暮らしのなかのデザインについてで、身近なデザインが目白押しで出てきます。講演会のなかでは、写真が100枚以上使われて、これまでにないビジュアルな構成です。講師は、宮崎紀郎(千葉大学グランドフェロー)。

じつは、今年千葉美術館で、千葉大学の工業デザインの歴史についての展覧会が開催されたが、そのときに観る機会があり、「生活のなかのデザイン」にたいへん興味を持った。この展覧会を見逃した方にも、また続編をお聴きしたい方にもお勧めです。

ぜひお出でください。すこし席に余裕がありますので、当日受付も大丈夫です。

デザインの話
―暮らしを変えるデザイン
                   宮崎紀郎
日時:平成18年12月9日 
   14時~15時30分
   (開場13時30分)
会場:千葉市美浜区若葉2-11
    放送大学附属図書館
    3階AVホール
参加費:無料

問い合わせ:
放送大学千葉学習センター
  (電話:043-298-4367)

Design_2

2006/12/07

ジャズ喫茶ちぐさ

ジャズ喫茶ちぐさが閉店するという記事が、今日の朝日新聞に載っていた。73年間続いたとのこと。

わたしが学生のころには、数年前に亡くなった方が経営なさっていて、良い意味で、すこしChigusa 敷居の高い店だった。この店に入ると、明確なテイストを持っていることが求められた。

座ってしばらくすると、コーヒーの注文のあと、ジャズのリクエストを一人ひとりに聞きに来るのだ。当時、先端だったホレスシルバーやダラーブランドなどをリクエストすると、ちょっと趣味は違うけれどもという顔はするが、うんうんと頷いてかけてくれるのだった。

やはり、この店に来た以上、一度はリクエストをしなければまずい、という匂いがぷんぷんとしてきて、緊張感あふれる店内だった。喫茶店文化はこのようにして作られるのだという、倫理がはっきりしており、今も当時もかなり珍しい雰囲気を持った店だった。

野毛という飲み屋街が背景にあるということでも、残ってほしい店のひとつだ。以前にも書いたが、酩酊文化と覚醒文化の競り合ったところで、この「ちぐさ」という文化がなりたっていたのだと思う。それも、またひとつ消えるのだ。

注:この写真は今年の暑い夏に、飲み屋へ行く途中通りかかったときに撮ったものだ。

2006/12/06

トンガとフィジー

フィジーでも、トンガに続いて、混乱が伝えられている。こちらは、軍のクーデターである。

けれども、この扱いの違いはなんだ、とトンガ贔屓としては、じつはたいへん怒っている。マスコミの扱いがまったく異なるのだ。トンガでは、死者が7人も出たが、フィジーの場合には、今のところ死者もけが人も伝えられていない。

それにもかかわらず、トンガの事件は社会面にちょっと載っただけだったのだが、フィジーの事件では、朝日新聞でも4段で写真入の記事を掲載している。アナン国連事務総長の談話や、麻生外相の談話などが直ちに伝えられ、国際社会での扱いがトンガとまったく異なっている。この差はなんだ、と言いたい。

トンガは現政権が一応続いていて、体制に変化はなかったが、フィジーでは現政権が倒され、軍が政権を掌握した、という。なるほど権力の問題としては、フィジーのほうが大事だと思えるかもしれない。けれども、やはりわたしは国の大きさが、この報道の差に現れていると思う。

じつは、外国人にとっては、フィジーには以前から二つの顔がある。ナンディという国際空港のある都市から入っていく楽園観光の国という面と、首都スバから入ってこの国の人種対立などの歴史をたっぷりと知らされる面とである。今回の事件は、観光の方面ではおそらくまったく影響のなかったことではないかと思われる。これは首都スバの出来事なのだ。

南太平洋では、たくさんの島が点々としていて、わたしたちには、みんな同じに見えてしまうが、じつはそのなかでも、小さな国(島)と大きな国(島)の違いがある。どこで見分けるかといえば、川が存在するか、だと聞いたことがある。

つまり、川のできるほどの島であれば、まず水の補給ができるので、自給自足が可能になる。農園も大規模なものを形成できる。ということは、治水事業が成り立ち、生産物ができることになるから、そこに権力が生まれることになるのだ。

きわめて、即物的な言い方だが、フィジーを見ていると、真実であると思われる。フィジーには、じっさい高い山があり、ナンディからスバへの飛行機に乗って上から眺めればわかるように、川があるのだ。

そして、なによりも、首都のスバには日本の大使館をはじめとして、各国の大使館が開かれていて、スバの情勢はそれぞれの本国へ直結している。それに対して、トンガには大使館はなく、スバの大使館が兼務している状態なのだ。

国の面積が違うといえば、そのとおりなのだが、国の差は面積ではないだろうと思う。けれども、この差は大きい。つまり、川のある島と川のない島の違いが、マスコミの扱いにも現れているのだ。(ちょっと、極論かな。現在では、総合大学が存在するか否かも大きいと思う。)

20年以上前にスバを訪れたときに、文豪の泊まったという、国会議事堂近くのホテルへ滞在した。フィジーは英連邦の一員であるので、英国系人とインド人の支配するお役所や企業が多く、取材していて、トンガの話をすると、鼻で笑ってその小ささを強調するので、あまり良い印象を持たなかった。

スバの博物館へいったとき、フィジーとトンガの複雑な関係をすこし理解した。フィジーがメラネシア系で、トンガがポリネシア系で、有史以来かなりの距離の海を越えて、何度も戦争を繰り返した歴史が展示されていた。互いに、ずっと戦争状態が続いてきていたのだ。

現在では、フィジーには、クーデターを起こすほどの軍隊が存在し、トンガには治安維持程度の軍隊しか存在しない。少なくともその違いは、博物館の戦争展示ではそれほどの差としてはあらわされていなかったように思う。対等に侵略しあっていたように記憶している。

なのに、この報道の違いはほんとうに許せない!

2006/12/04

火事のあと

講義に行くときに、道すがら昨日の火事騒ぎのあった現場を見た。たしかに、切断された一本の木の幹が黒く焼けて、周りが消火器の白い泡で覆われている。

その木が崖から落ちたとしたら、下には人家があるから、たいへんな騒ぎになっていたかもしれない。市の共有地と、一般の私有地のちょうど中間で、今回の火事が起こったのだが、この場合もし共有地から火が出て、私有地に被害が及んだら、それは共有地を持つ横浜市の責任ということになってしまうのだろう。

ということは、やはり通りかかりの人びとで、この火事を消したということには、税金の節約もさることながら、それ以上に、共有地の面目を守ったということで、表彰状ものであるといってよいだろう。

けれども、なぜあの木の幹が道端に置かれていたのか、それから、そもそも丘の中腹のまったく火の気の無いところで、急に火が燃え出したのはなぜか、謎は深まるばかりで、おそらく今後も何も明らかにされることはないだろう。

ところで、昨日火事が起こった後、消火器の存在が話題になった。妻が言うには、街のあちこちに消火器が備え付けられているのだという。そういえば、近くの生垣にも、ちょっとした赤い消火器ケースがおかれているのを今朝発見したし、講義からの帰りに注意深く見ると、公園からでたアパートの前にも、また、さらには町内会のお知らせ板にも、消火器が取り付けられているのだ。知らなかったなあ。

昨日も、おそらく図書館から消火器を持ってくるよりは、アパートの前の消火器のほうが近かったと思われるが、とっさの判断で多くを期待することはできないだろう。それにしても、忙しさにかまけていて、わたしがいかに街のことを知らないのかを思い知った事件でもあった。

2006/12/03

弘明寺公園の火事

娘から電話があり、弘明寺公園が火事とのこと。それはたいへんだと駆けつけようとしたが、幸いすぐに消し止められたのだそうだ。Img_1169a 娘は燃え盛りそうになったときに、たまたま通りかかったのだ。

6、7人のおばあさんたちがちょうど居合わせて、展望台のあるところから、ビニール袋に水を入れて、往復したのだという。そして、下にある図書館から消火器を借りてきたおじいさんが、完全に消したそうだ。

061203_075902 じつは今朝、原稿を書いていて、首から頭にかけて筋を違えたように動かなくなってしまったので、新鮮な空気を補給しがてら、弘明寺公園まで散歩してきたところだった。写真にあるように、急勾配の丘と、複雑に折り重なった谷間とでできている公園だ。

もともとは弘明寺という鎌倉時代からある、古い寺の境内だったらしいが、京急線がちょうど山の中腹を切り取ってから、上を公園にして、下を境内にしたと聞いた覚えがある。061203_080201

駅に隣接して、この公園はあり、なかにはプール付の図書館も設置されていて、なかなか良い環境を保っている。通勤・通学客が公園の中を通るので、朝夕には絶え間なく、人が行きかっている。

そのため、人びとの目が絶えず行き届いているという意味では、珍しい公園だと思われる。利用する人がたいへん多い、という特徴がある。ゲートボール場がみなとみらい地区を望む見晴らしの良いところにあって、朝には、常連が大きな声を響かせて、玉を転がしているのに遭遇する。

今回の火事でも、出火と同時に、人びとが駆けつけ、すぐに消し止められたというのも、やはり人びとが常にこの公園を巡っているからだと思われる。弘明寺公園の後援会もあるそうだ。

最近になって、散歩道の坂には、手すりが設置され、高齢者対策が施された。このような都市型の公園には希少価値があるので、かなり優遇されていると思う。そういえば、駅から直結する階段が造られたときにも、あまりの整備の迅速さと、その便利さにびっくりしたくらいだった。

急勾配の道が山まで迫り、斜面のいたることに家が立ち並ぶ風景の中で、この公園だけが余裕を持って維持されている。むしろ、周りがあまりに狭い地域だからこそ、このような広く開放されたところを求めて、わたしたちはこの公園に集うのかもしれない。

この高密度の土地利用と、そしてそれを上回るあふれる人口とを見ていると、ほんとうに「横浜」らしいな、と思ってしまう。

2006/12/02

横浜のパン

横浜に来て、良かったと思えたことは、パンが美味しいということだった。今では、どこにでも美味しいパン屋さんが店を出しているが、数十年前の当時、P店の美味しさは傑出していた。French_pic06

夜の講義を終えて、横浜西口の店へ行くと、わずかに売れ残ったパンが、最後の客を待ってくれていた。

とくに、「バタール」というフランス・パンは、ずっと続けて食べても、飽きることがない。なかで も、最近は角切りのチーズが中に入ったバタールを、夜ちょっとおなかが減ったときに食べると、栄養が頭にまわり、仕事も進むかのように思えてきて、もうすこしやってみようという気分になる。

今日も、娘とチーズバタールを摘みながら、ワインがあれば最高だね、と話した。出来立ての芳ばしい香りが、脳の感覚を柔らかく刺激する。そして、胸と腹をすこし膨らませ、幸福な気分にしてくれる。身体ばかりか宇宙のすべてに満足を与えても十分余りあるかのような、酵母の匂いと味がなんとも言えない。

バタールというのは、中間という意味らしいが、バタールを食べながら、いま書いている「中間組織論」について考えるのも何か因縁がありそうにも思えてくる。

大きなフランス・パンでは、お腹がいっぱいになり過ぎて仕事にはならないし、かといって、小さなパンでは力が入らない。これらを解決するものとして、中間が作り出されたことは想像に難くない。

注:上記の写真は、ほんとうに美味しそうだったので、P店のHPから拝借いたしました。悪しからず。

2006/12/01

横浜に住んで

横浜に住んでよかったな、と思えることがある。

先日、長崎に住んでいた人と話していて、横浜なら霧笛が聞こえるでしょう、と尋ねられた。へえー、ほかの街でも、霧笛に思い出のある人がいるんだ、とすぐに意気投合してしまった。

徹夜して明け方になって、この霧笛が聞こえると、ただボーと、仕事の手を休めてしまう。これは前にも書いたことだが、死ぬほどの(ちょっと大げさかな)苦しみをもった後でも、ああ今日も一日が始まる、世の中は動いているんだな、と霧笛がわたしの感情を揺さぶるのだ。

一日中、霧笛は聞こえているはずなのだが、しかし特定の、このような深夜や寝静まったとき、あるいは明け方にしか、わたしの耳が聴こうとしないのだ。

霧笛は、外界の出来事が、自分の世界に入ってくる、ひとつのメディア的なシンボルだと思う。自分の意識は、いつもはかなり閉鎖的で、外界のことなど気にも留めていないのだ。それが、霧笛を通じて、すっと自分の世界へ入り込んでくるのだ。

自分の世界がこれほど閉鎖的なものである、という自覚を持つまでに、数十年かかってしまったが、この閉鎖性を意識するようになってから、はじめて開放する手段が見えるようになってきたような気がする。

その意味で、霧笛はわたしのなかでは、内と外の世界を結ぶものの原型のようなものなのである。おそらく、横浜に住んでいなければ、このことに気づかなかったような気がする。

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。