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2006年9月に作成された投稿

2006/09/30

シティズンシップの資格付与

今、放送大学では、来年の科目作りが盛んに行われている。わたしもいくつかの科目作りに参加しているが、なかでも面白いのが、『市民と社会を考えるために』である。このなかで、「市民(シティズンシップ)」という考え方が使われている。

この言葉は何度目かの復活を遂げ、いままた流行りつつあるのだ。「シティズンシップ」という考え方は、社会のなかでの「成員資格」ということである。かつては、財産の保有などで資格審査が行われていた。たとえば、典型例は、国家から国民として認められる「選挙権」の資格審査で、財産が要件となったことがあった。

この場合は、国家によって、その社会の成員資格が認められた。このように、シティズンシップでは、この成員資格が誰によって、どのようにして「市民である」と認められるのかが問題となる。

今日のように、市民資格が自己決定で認められる、ということであれば、それは市民ではなく、大衆ということになるだろう。市民性には、最小限、それはもちろん非公式なものであってもよいが、公共的な資格審査が行われるとこれまで考えられてきている。

シティズンシップ、市民性、市民権などの言葉で、放送大学大学院のテキストを検索してみた。現代でのシティズンシップの用例に混じって、なるほどと唸ってしまった指摘を見つけた。

放送大学の図書館長だった伊藤先生のテキストで、以下の記述があった。

「アテネ人男子に市民権を与える主体がポリス自体でなく、クレイステネスの改革のときに設けられた140ほどの地方自治体デーモス (区demos)であるという事実に注目すべきであろうが、それに先立ち彼ら一人ひとりに生まれた家の成員権を賦与する主体も、家自体やポリスでなく、成員同士が少なくとも観念的には血縁でつながるフラトリア(兄弟団phratria)なる集団であった。このようにしてアテネ人男子が公私ともに市民として生きて行けるかどうかを決定し、同時にアテネ市民団の成員構成を左右したのは、個々の市民とポリス市民団との間に介在する自立性の高い中間的社会集団であった。」伊藤貞夫著『地域文化研究Ⅰ』P.42

つまり、市民の起源は、ポリスという国家の原型ではなく、むしろ中間的な組織体において資格が認められていた、というのは、現代のシティズンシップを考える上でも、重要な視点であると思われる。

2006/09/29

試験中の時間感覚

今日は、朝9時から始まって、15時過ぎまで、合計5コマの試験監督の日である。

例年、この時期に、夏期の看護科目集中講座の単位認定試験が行われ、わたしたちが試験監督を交代で行うことになっている。看護師の方に用意された特別の夏期講座だ。最後の試験を受けることで、これらの授業が完結する。

受講生の多くは、看護師であると思われるので、おそらく病院で会えば、笑顔を絶やさないのだろうが、ここではやはり皆きりりと気を引き締めているせいか、恐い顔を崩さなかった。

けれども、皆動作がきびきびしていて、日頃の職業態度がいかほどのものなのかを想像させられた。

ほとんどの受験生が、5コマぶっ通しで試験を受ける。大方の人は、よく勉強しているらしく、途中で答案を作成し終わり、教室を出て行く。けれども、毎時間必ず最後まで頑張って、教室に居残る学生もいる。

それぞれテキスト200頁ずつあるのだから、その5倍のテキストが頭のなかに入っているのだろう。居残る学生に、「頑張りますね。その教科書全部読んだのですか」と鎌掛けてみると、「そんなわけないでしょ。全部分かったら、すぐ出て行きますよ」と悪びれるところがない。

監督するほうは6時間が12時間ほどに感じるのであるが、試験を受けるほうは、6時間がそれこそ、あっという間に過ぎていった一日だったであろう。一日が終わって、外界の空気に触れると、ようやく6時間が6時間と感ずるいつもの時間感覚に戻った自分を認めることができた。

2006/09/22

再び、K市の喫茶店

何といっても、甲府と言えば、「六曜館」だ。という言い方はちょっと気に入らないと地元の人には言われてしまうかもしれないが、忘れていた過去の自分を思い出すような懐かしい、味わいのある店だといえば共感してもらえるだろう。好みとしては、「六曜館」が一番だ。

いまどき喫茶店を営んでいて、苦み系のブレンドを外すことはできないらしい。六曜館のメインも苦み系のブレンドだそうだ。だが、もうひとつの酸味系のブレンドも用意しているところが、細心なところだ。

たとえば、わたしの娘は完全に苦み系の味が好きで、身体に染み込んでいるそうだ。けれども、じつをいえば、やはりわたしは古いタイプの味を忘れられない。浅煎りで酸味を効かせたジャマイカ系の味が好きなのだ。

店主の人柄という要素は、喫茶店にとって大切だ。ロッシュがどれだけ凄いとしても、やはり組織の力を感じてしまう。それに対して、六曜館は個人の力、包容力ある柔軟さだ。Rokuyoukan

もちろん、喫茶店文化では、明らかに親密で濃厚なサービスを行えば良いというわけではない。山崎正和が『社交する人間』で言っているように、親密さがそのまま社交になるわけではない。むしろ「付かず離れず」が、喫茶店世界でも社交の原理なのだ。

喫茶店の店主は、ほどよくおしゃべりでない、と同時に、ほどよく寡黙であってはならない。そして、大切なことだが、珈琲につねに面白さを見いだすくらいでないと勤まらない。

わたしの頼んだブレンドに、どのような豆が使われているのか、質問してみた。すると、生まれてきた子供を自慢するように、喜々として話してくれた。あの酸味は意外な豆からのものであった。また、ついでに、淹れ方も伝授してくださった。ここが、社交性ということについての「趣味の問題」なのだと思われる。

帰りに、200グラム包んでもらったが、おまけだと言って、すこし増量してくれた。さあ、美味しい珈琲を飲んで、明日からの原稿書き仕事に再び励もう。

2006/09/21

エコール・ド・パリ

仕事はしてもよいが、遊び続けよ。何人かの人生の先達に教えていただいた教訓である。

Class 今日も朝9時に始まり、16時過ぎまで続いた、4コマ講義を終える。最後には、たっぷりと質問の時間をとり、充実した(と勝手に考えているのはわたしだけかもしれないが)仕事を終えた。

仕事でしゃべり通した頭を捨てて、自転車で20分ほどのところにある県立美術館へ駆けつける。「エコール・ド・パリと日本の画家たち」と題して、20世紀はじめにパリに集まった異邦人達を特集していた。

モディリアーニ、ユトリロなどのなかにあって、今回はキスリングの「新聞のある静物」とシャガールの「月の光の下の恋人たち」が良かった。非現実の配置と、非現実な出会いがきれいだった。

邦人では、藤田嗣治、佐伯祐三が並んでいて、そのなかでも、地味な作品ながら緻密で、淡泊な色遣いの二作品が印象に残った。三宅克己「室内風景」と長谷川潔「ヴォルクスの村」。

両作品ともに、幾重にも物や建物が重なって、現実に存在するもの以上に、立体感といおうか、凹凸感が出ている。日本人が途中で諦めてしまいそうな、重厚な淡泊さ(?)をうまく抜け出して、それを超越したところで描いている。日本人の枠を大幅に飛び出している点で、目を見張るものがあった。

さすがに、自転車での帰り道は、車の強迫に耐えかねて、くたびれた。

「ダン」という喫茶店がちょうど四つ角の目立つところにあった。椅子がたくさん用意され、開かれた明るい店だった。ブレンドを頼んだが、苦み系の、いまはやりの味の珈琲だった。

ビジネス街の店というイメージにぴったりだ。近くには、スタバがあり、客を取られて青息吐息の喫茶店が多いなかで、かなり(善戦どころか、)余裕を見せている。おそらく、店の明るさといい、集客の大きさからして、同じ客層を狙っている。

Dan けれども、ケーキの充実の度合いだけ、「ダン」に軍配が上がるだろう。女性客分だけ、ビジネス層を上回って、より幅広い客層を引き付けている。チェーン店か地元店か、「ダン」の立地がよいだけに対等の競争を今後も続けるだろう。

2006/09/20

K市の喫茶店

昨日からの背景からして、街の雰囲気は喫茶店文化を育む土壌を持っている。基礎条件がきわめて良好だ。

西のK市、北のS市、そして関西圏、首都圏は広すぎて別格とすると、東のK市といっても良いのではないか。すこしひいき目もあるが。

喫茶店文化が廃れる原因は、観光客に依存するようになり、チェーン店に侵されるからである。そこで、観光客が押寄せない、もっともK市のディープな場所から攻めるべし。今日行こうとしているのは、もっとも駅から遠いところにある、カフェ・ロッシュである。最初から凄いところに当たったものだ。

周りはかつての栄えた中心街のなかにあるが、現在はおおかたの地方都市の例に漏れず、近辺はすさみ始めつつある。郊外の店との競争の影響をやはり受けている。

Losh1_1けれども、この店だけは、喫茶店特有の雰囲気を保っている。店の配置はかなり洒落ている。入り口に至るまで、商店街に面したところから数メートルの通路を通っていく。フランスのパサージュのように、商店街の現実からロッシュの非現実へ、ここで断ち切られるようになっている。

Losh2_1ドアを開けて店に入ると、おおよそ4つの空間が用意されている。周辺から中心 に向かって秩序立てられている。エントランスとでも言おうか、ドアから店の中核までにすこしアイドルな空間が設けられ、段差で区分けられている。低い壁で、ドアから直接店の真ん中へ行くことが出来ないことになっている。ここには、トイレへ通ずるドアも用意されていて、計画された細心の空間である。

「何も役立たない贅沢の空間」を実現している。この空間があるとないとでは、この喫茶店の雰囲気がまったく異なってくるだろう。

店に上がると、まず目に入ってくる空間は、カウンターと厨房を中心としたコーヒー抽出の心臓部である。と同時に、ひとり客の座る場所である。

カウンターは、くの字に曲がっていて、曲がった先の席では、見せびらかしの抽出工程の演技を後ろから見ることができる。ほかのホームページを覗いていたら、ロッシュの抽出方法は、フランス式の独特の方法が貫かれているそうである。かなり大きめのドリップ漏斗を使っていて、最初のものは捨ててしまい、二番目のものを客に振る舞うそうだ。

次の空間は、小さな二人がけのテーブルが4つほど並んでいて、小グループ席を構成している。もちろん、一人がけで占めても構わないし、店のなかでももっとも柔軟な場所となっている。どのような客でも20人くらいなら対応できる空間だ。

最後の空間が、ロッシュの特徴を現わしている。つまり、店の真ん中にシンボル・ゾーンが存在するのだ。ひとつは大テーブルで長椅子が作りつけになっており、もうひとつは古色蒼然としたガラス製の抽出器が展示されている。360度から眺められるようになったショウケースのなかに置かれているのだ。これが、「ロッシュ」なのだと思われる。

つまり、ロッシュ的な世界とは、4つに分けられているとはいえ、それらは重層化され、遠近化され、最後に統合された世界である。おそらく、ここに到達するまでには、気の遠くなるような試行錯誤と、多くの店の見学とを行った末にたどり着いたものであるのだろう。店主の努力は、まさに職人的で、誰にでもすぐまねのできる技ではない。

ふつうの喫茶店が、既存の環境を仕方なしに受け入れているのに対して、あきらかにロッシュはかなり反抗している。この反抗が自然のものと受け入れられるまでに、すでに相当の時間が経っているとは思われるが、まだまだこの思想は珈琲愛好家達のなかでは、自然なデザインであると考えられる領域には入ってこないだろう。これだけのデザインの統一性が理解されるまでに、まだ数十年を経なければならないのではないか。

食事はすこし離れた横丁を入った「ボンマルシェ」でハンバーグを食べ、そのあとのアルコールは、県庁裏にある「Four Hearts café」で、静岡産のエール(これは店主に勧められたもので、かなり美味しい)をハーフ・パイント飲んだ。

講義の肉体的な疲れは、パブ風の酒場で飲んでいるうちに、どこかへ飛んでいってしまった。

2006/09/19

盆地の交通事情

K市の朝は、かなり厳しい。ホテルを出ると、バス停の前の道は幹線道路らしくて、ものすごい車の流れである。

そのバス停で待つ間、車、車、車の列なのだ。路地から沸いて出て、その道路に合流してくる。無理もない、ここは盆地の真ん中なのだ。山の上から、中腹を抜けて、盆地のもっとも深い場所へ向かって、通勤客が朝一斉に集まってくるのだ。

かつては、バスが大勢の通勤客を乗せて、人の波を捌いてきたと思われるが、今では、家族で三台以上、車を持っているそうだ(社会人入学している学生の方に聞いた)。ひとりひとり全員が車に乗ったら、その分道路が混んでしまうのは、必然だ。

この街は城下町だけあって、ひとつの目的へ向かって、複数の入り組んだ縦の道が用意されている。放射線状とでも言おうか、さみだれ式とでも言おうか、いくつかの道に並行して、道路が造られているのだ。盆地の道路事情に合うように、自然の摂理がそうさせたのだと思われる。

けれども、問題なのは、油を注ぐ漏斗のように、最後のところで一点に集中してしまうために、身動きできなくなるということである。いかに迂回路を確保できるかが、課題なのだと見た。Bonchi

あまりに一斉に中心へ向かって、車が走り込んでくるので、その美しい集まり方に感動して、その後どのようにして一点から分散して去っていくのかを見ることができなかった。この次来たときにでも、観察してみよう。

2006/09/18

信玄の隠し湯

明日から4日間、山梨県のK市の大学で、経済学の集中講義を受け持つ。

新宿から、夜汽車に乗って、車窓を眺める。トラックが高速道路を通り去り、ヘッドライトだけが残って見える。どこか遠くの国へ向かう気分だ。

駅につくと、すでにホテル行きのバスは最終なのだそうだ。一緒にバスに乗り込んで、大学のそばでおりた女子学生は、もしかすると、明日から担当する学生かもしれないな。

じつは、10年ほど前に、場所は異なるが、同じK市で、放送大学の授業を受け持ったことがある。そのときは、記録的な灼熱気候で、冷房のない教室では、35度を超えた。

たまらず、窓を開けて、風を入れようとしたら、入ってきたのはなんとヤブ蚊の集団であったという、笑えない現実だった。黒板にチョークで字を書いていると、その手に蚊が留まるのである。手で払いのけながら、黒板の前を右往左往しながら講義した覚えがある。

わたしは避けることができたから良かったが、学生の方々には悪いことをした。みんな頑張って、お終いまで聞いてくれた。これだけでも、放大生の寛容さには頭が下がる。いつものことながら、学生の方々に多くを負っているというものだ。

さて今回、集中講義のために、心して当たらねば、と思っていたら、二、三日前から、風邪から来る腰痛が始まってしまったのだ。そこで、講義の前に、身体を整えて(?)おこうと思っていた。

聞くところによると、この街には、信玄の隠し湯があるという。「隠し湯」というと、いかにも秘密めいた、特別あつらえの温泉のように聞えるが、行ってみると、じっさいはこの地方都市の中心地にかなり近いところにある、庶民向きの大きな温泉郷であった。

部屋は値段相応としても、大風呂と露天風呂に入ると、腰痛もいっぺんに去ってしまい、肌もすべすべ。効能あらたかなり。すこしばかりの贅沢から、K市での生活が始まった。

2006/09/14

ウディ・アレンの「マッチポイント」

来年度放送の授業科目『変動する社会と暮らし』の収録で、一日中がんばったので、夜になって、ウディ・アレンの映画「マッチポイント」を見に行った。

もしひとつだけセリフを取り出せと言われたら、次の言葉だろう。「モラルは問わない。犯罪を究明するだけだ。」この言葉は、終わりのころ、刑事が述べていて、この映画全体を現していると思う。結婚していて、二人の女性と同時に付き合うことをめぐって、モラル上の罪なのか、それとも犯罪にまで発展させる罪なのかが問われている。

観客は、このセリフとは裏腹に、明らかにモラルを問題として、この映画を見ているのだ。それに対して、ウディ・アレンは最後の場面で、あっさりと観客の期待を裏切り、犯罪としての罪で切り抜け、映画としての昇華に成功している。ほんのひとつのアイディアだけだけど、映画的現実を提示している。新手のピカレスクといった趣だ。

オペラ音楽の使い方も洒落ている。すべての内容がわかったわけではないが、ラ・トラビアータに始まり、そして犯罪に及ぶ場面での感情の高ぶりをあらわした曲などはほんとうに効果的であった。

前半では、いつウディ・アレン調になって、悲劇を喜劇に落としてしまうのか、はらはらさせた。けれども、おそらくご自身の経験を相当盛り込んだと思われる、全編を通じての浮気の心理描写には、見ごたえがあった。経験者に語らせよ、ということだろうか。

2006/09/13

虎ノ門の神社

今日は虎ノ門で会議である。ここには、放送大学の東京連絡所があり、ときどき打ち合わせなどに使われる。

この街は、大学院生時代のバイトで、約9年間通ったところで懐かしい土地だ。とはいえ、都心の、そのなかでも中心地だから、変化は激しい。いつも地下鉄からの階段を上るときには、どこの国の街にきたのかと錯覚を覚えるほど、異国の街になっている。今回も、NYの街角にあるデリカテッセンを組み合わせたような新しい食べ物屋が店を構えていた。

虎ノ門といえば、旧文部省ビルが角にあって、目印になっていた。現在は改装中で、これができると、また虎ノ門が変貌することだろう。

かつてのバイト先のとなりに、讃岐国丸亀藩あと地があり、そこに金刀比羅神社が建っている。これは変わらないだろうと思っていた。けれども、ここは変わらなくとも、周りが高層建築になってしまえば、自ずから環境は変わって、街のイメージも変わってしまう。

当時、とくに愛用したのが、この神社の隣にあった「あつおろしそば」を食べさせてくれる店であった。暖かいそばに、大根おろしがたっぷりと乗せられており、さらに、かつおぶしが山盛りに添えられていて、思い出すだに条件反射で唾液が出てくる。この店はビルに埋もれて今はもう無い。バイトの原稿書きで、徹夜して一晩で原稿用紙20枚、30枚と書いた。朝になって、目覚ましと栄養補給に抜群のご馳走だった。

この街の魅力は、ビルの街だというところにあることは認めざるを得ない。昔と比べると、背の高い綺麗なビルが多い。しかし、そのビルの下には、昔いきつけの古典的な喫茶店や、そば屋さん、げその美味しいすし屋さんが埋もれていて、歩いていると、ふっと姿をあらわし、目の前に浮かんでくるのは、わたしだけの経験ではないと思う。

2006/09/12

フェスタ・ヨコハマ

今週の放送大学「大学の窓」で、Fアナウンサーが神奈川学習センター学園祭「フェスタ・ヨコハマ」を取材していた。

今年は丹保学長の講演会もあって、250名を超える参加者があったそうである。実行委員長のYさんが映っていたが、かつて機関紙のセンターだより編集部で一緒だったので、久しぶりにお元気な姿を見て、懐かしかった。

また、同窓会のIgさんの姿もちらっとお見かけしたし、ほかにも日頃会うことのできない方々の様子も見ることができた。放送大学ならではの状況であろう。

他学習センターの追随を許さない「フェスタ・ヨコハマ」開催の秘密は、学生団体間の連携が緊密だという点にある。学生団体という「小さなネットワーク」は大事にしつつ、学生団体の壁を乗り越える、センター全体の学生を対象とした「大きなネットワーク」を年に一回だけ持っていることが、強みとなっている。

おそらく他の学習センターでも、お祭りをやろうという機運は、主導する学生がでるたびに起こり、一回か二回くらいは続く。ところが、その目立った学生がいなくなるとその後は開かれなくなるケースが多いのではないか。放送大学の初期の時代には、このような目立った学生が多くいらっしゃった。

今回の「大学の窓」を見ていて、いつもと違うな、と感じたのは、学生のなかに、Inさんの姿が見えなかったことである。二メートルに近い巨漢のInさんは、フェスタ・ヨコハマではたいへん目立つ存在で、いつも活動の中心にいた。ゼミでは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り上げて、卒業論文を仕上げていた。最近届いた「せせらぎ」会報のKさんの文章によると、昨年お亡くなりになったとのこと。この場を借りて、お悔やみ申し上げるしだいである。

2006/09/11

ヨシダのブレンド珈琲

先日、三重の津市で仕入れてきたヨシダ珈琲店のブレンドがたいへん美味しいので、毎日楽しんでいる。旅先だったので、100gしか購入してこなかった。

ふつう、あれだけ大きな店であれば、ホームページ上で通信販売を行っているのだが、探してみてもそのような気配はない。あくまで、店に来て、確かめて購入してほしい、ということだろうか。

いくつかの提携先の店があるようだが、それらのホームページを見て回っても、探し方が悪いせいか、通信販売は見つからない。

こうなってくると、さらに余計に欲しくなってくるのが、人間欲求の特徴である。とりわけ、珈琲の歴史は嗜好そのものを中心として発達したのだ。

先日、S.マックィンをはじめ、スター総出演の「大脱走」を再び見ていたら、「珈琲」を使うシーンのあるのを発見した。ドイツ兵に賄賂を贈って、物資を手に入れようとするときに、チョコレートや、(なぜか)マーマレードなどは欲しがったとしても、見向きもしないのだが、珈琲と聞いた途端に、OKするのだ。当時、いわゆる代用珈琲がはやっていた時代で、ほんものの珈琲は世界的に不足状態にあった。

珈琲は、このころにはすでに、贅沢品のなかでも、必需品の部類に入っていたのだ。

2006/09/10

気分転換

原稿を書いていて、どのような気分転換を行うかは、内容に大いに影響を与えてしまう。

ふつう、ほかの本を読むのがわたしの習慣になっていて、つい近くに積み上げられている本を手当たり次第に読み始めてしまうのだ。それで、何冊読んだのかもわからないほどになって、目がとろんとしてくる状態になる。そのとき、たまたま読んだ本の影響で、ちょっとした単語や成句が原稿に現れる場合が意外に多い。

また、このような忙しい読み方をしているときのほうが、頭が働いているような錯覚を感じてしまう。もちろん、注意力散漫になっているので、細かいところは大概覚えているはずがない。けれども、話の骨格を覚えているのが、いくつかあって、原稿が終わったときに、その思い出とともによみがえってくるから不思議である。

哲学者のヴィトゲンシュタイン流の「シャワーを浴びるように、映画を見る」のも、気分転換にはかなりいい。かれは、おそらくB級映画のあまり意味のないものを好んで見たと思われる。この場合、わざわざ映画を見に行くのではなく、仕事場の近くにあって、仕事帰りにちょっと寄るというのが、精神的な解放を得て、たいへんいい。この方法は、幕張で実践中である。

さて、今回は、これまでとまったく違う試みをしてみた。おそらく、複雑な要因が絡むので、気分転換としてはかなりの冒険である。

近くに気楽に入れる寿司屋があって、息子とカウンターで食事をし、雑談を楽しんできた。どのくらい気楽かというと、隣の席は最初空いていたのだが、ここいいですか、と近所の商店主らしいおばさんがひとりできて、あっという間に6皿を平らげて、握り職人としゃべりながら、ご満悦の顔を見せていた、というくらい気楽な店なのだ。

勘定が気になったり、長居出来そうもなかったりすると、話していても気分転換にならないが、ビールを飲みながら、ほろ酔い気分で原稿のことをしばし忘れる、というのは、良い試みだった。

本を読んでしまうと直接的な影響が残ってしまうが、この方法だと、間接的な影響はあるかもしれないが、あとにほとんど残らないのだ。シャワー効果抜群であった。だた難点は、相手のある気分転換なので、こちらの都合ばかりでは、うまくいかないということだろう。

2006/09/08

足立区の連携講座

三回にわたった足立区の連携講座が終了する日だ。今日は、目的地の近くに見つけた珈琲豆の自家焙煎の店「やなか珈琲店」で、一杯の珈琲をご馳走になってから、会場へ向かった。

これまでの三回の講座で、とくに目立ったのは、ボランティアによる講座のサポートである。たとえば、会場へ行く前に、控え室で雑談をして、リラックスさせてくださる方がいたりする。このように、緊張をほぐす配慮をしてくださったり、一言ではあったが、内容についての感想を言ってくださったりなど至れり尽くせりだった。

会場受付係から、会場内での案内係まで、分担が綿密に組織化されていて、人材の豊富さがよく理解できた。組織の、いわばスラック(たるみ・余裕)が感じられ、いつでも交代できるようなゆとりある体制が取られていて、これまでの経験の積み重ねを感じた。

これもソーシャル・キャピタルの現われである思われるが、この北千住でこのような厚意に遇うと、むしろ近代的なボランティアと言うよりは、昔ながらの古い街のコミュニティが復活されたのでは、と思わせられる。このような気分になってしまうのも、この土地柄の成せる技であり、不思議な感じなのだ。

また、足立区の生涯学習公社が企画を担当なさっていて、よくこのような抽象度の高い、難しいテーマを選んでいただけたと感謝する次第である。毎回、受講者からひと口感想文を集めて、機関誌を発行なさっていて、担当者の熱意を感じた。

その中で、「経済オンチの私としてははじめて銀行のからくりがわかったような気がします」などと書いてくださった方がいた。話をしていて、最初は難しい顔をしていた人が、議論が進むにつれて、わかったという顔になっていくのは、このような連続講座のたいへん良い点だと思われる。

帰り道で、受講者の方々と一緒になった。ひとりの方は、卒業論文を書く下準備として参加した、とおっしゃっていた。参考になったかな。もうひとりの方は、それまで貿易英語を大学で教えてきた方で、これからも経済関係の翻訳を行っていきたい、という専門家の方であった。

今回も感じたことだが、この現在の時代というものを肌で感じたいなら、このような講座で、いろいろな意図を持った人たちと話してみることが一番だということである。それは参加者にとってはもちろんのことであるが、わたしのような講座の担当者にとっても言えることだ。

2006/09/06

放送大学バンド

「放送大学バンド」が演奏するというので、恒例の放送大学職員の納涼会に出る。

えー、知らなかったな!!!放送大学にバンドがあるなんて。

自称「ボウソウ・バンド」(暴走バンド?、房総バンド?)だそうだ。職員のKさんがギター、Hさんが電気サックス(?)、そして何と、この欄でも紹介したブログ仲間のアナウンサーKiさんがドラムスで、同じくアナウンサーのFさんがキイボードという編成で、かれらが中心メンバーの職員バンドだ。

さらに、びっくりしたことに、われらが千葉学習センター事務長のKさんが、ボンゴを担当していて、他のベースの方と特別出演だ。

スタンバイ・ミイから始まって、最初からノリが良かった。若い人たちには、先日お世話になったアナウンサーのMさんのボーカル演技が受けていた。とにかく、われらおじさん・おじいさん世代に、たいへん受けていたのは予想外の出来事だろう。「上を向いて歩こう」などの一般向きの曲も用意されていて、K先生とN先生のデュエットも絵になっていた。

やっぱり、大学のお祭りには、このようなパフォーマンスも大事で、一体感はインフォーマルに形成されるのだ。

さて、バンドの存在が明らかになったからには、ぜひわれらの千葉学習センターにも出演いただかないわけには行かないだろう。学生のみなさん、来年を目指して、千葉学習センター学園祭を作りませんか!!!

2006/09/04

「お金の世界」と「情けの世界」

溝口健二脚本、吉村公三郎監督「大阪物語」をBSで見た。お金の物語だ。

「お金の世界」は、貧乏生活の「質素・倹約」に始まる。農村で年貢の取り立てに困って、大阪に出る。そこで、米を拾って、飲まず食わずの生活から、銭の世界が開ける。

すこし損得勘定がうまくなると、虚栄の誘惑に染まる。大きな店を構えることになるが、損得と信用とは隣り合わせであることは、主人公の近江屋は知っている。

その世界から、「けち・吝嗇」の泥沼にはまっていく。したがって、大名貸しをして権力へすり寄ることからは、うまく逃れる。「情け」と「損得勘定」の板挟みからも、すり抜ける。

似たもの同士の出会いで、鐙屋の女将は息子への「情け」で人間に止まるが、他方けちから女房を無くし、子供達からの信認も失った、「情け」を無くした近江屋は「損得」どころか、人間の世界にもいられなくなって発狂してしまう。

「お金の世界」と「情けの世界」を秤にかけると、どちらが重いのかという物語である。なぜお金を貯めるのか、という根本的な問がここには存在する。

もちろん、「情けの世界」が無ければ、「お金の世界」も成り立たないのだ、というメッセージはあり得るとしても、やはりお金の普遍的なダイナミックスも読み込まれて当然だと思われる。

お金というモノが、信用で創られているところからして、ひとりの人の蔵のなかにだけ、仕舞い込まれてしまっているという状態は、社会的には、たぶん許されないことなのだ。

2006/09/03

爆発物の発見法

先日亡くなった小池民男氏の『時の墓碑銘(エピタフ)』を読んでいたら、そのなかにいかにも中東らしい「生活の知恵」が描かれていた。

エルサレムでの出来事。クルド人のタクシーの運転手によれば、この国では、爆発物を見つけるのは簡単だという。

目の前にバスが止まり、乗客がぞろぞろ降りてくる。この方法なのである。

乗客に、荷物を持ってバスを降りてください、と言うだけで見つかるのだ。この国では、爆発物のことを「忘れ物」と呼ぶそうである。

このような経験を何度も何度も繰り返し行ってきているのだ。小池氏の希望は、そこに引用されたチェーホフの言葉に現われていた。

「登場人物全員が欲求不満をかかえ、幸せになりきれず、傷心のまま幕がおりる。しかし、だれもが生きのびている。」『贅沢な戦争』

追伸:この本には、魅力的な言葉がたくさん取り上げられている。目次をみて、まず飛び込んできたのは、「ラ・マンチャの男」の台詞だった。「騎士なんて三百年も前からいない。それは事実なのだ。」ドンキホーテは切り返して言う。「事実は真実の敵だ。」

わたしなら政治力もなく、たいへん慎ましいので、せいぜいのところ、「事実は真実を裏切る」くらいしか言えないだろうに。

2006/09/01

おかねとさかな

今日は、足立区の放送大学連携講座の第二回目である。貨幣の信頼・信用というテーマで話をした。

先週、受講者の方がたに宿題を出しておいた。放送大学のスクーリングでもよく行うのだが、お金というもののイメージを書いてください、というものだった。

一枚だけ、たいへんユニークなレポートを書いてきた人がいた。それがどう見ても、さかなのイラストにしか見えないのだが・・・。ちょっと違う感覚の、これまでの授業では見たこともないような報告であった。

ご本人の想像力がユニークなのか、それともこのような自由な講座が成せる技なのか、いずれにせよ、講座を行う醍醐味のひとつである。

お金のさまざまな言葉を書き込んで、さかなのイラストとして描いてくださったのだ。お金のイメージは、ふつうはどのようなイメージになるのか。コインや紙幣を考える人が多いのだが、その場合には絵に描いてみるまでもないのだ。なにしろ、現代のお金は、図像としてはかなり完成されていて、それ以上イラスト化するにはあまりに個性がないから。

けれども、今回のイラストの魅力的な点は、さかなとしてのイラストを描いていて具体的なところも素敵だが、ほかにも特徴がある。一種の系統図にもなっていて、現代のお金の特徴を多面的によく描いて、分類している点である。言葉の配置に個性が出ていて、デザインとしてもたいへんきれいなのだ。

上の肉の付いている部分は、お金の本体であり、表に現れた一万円札や五百円玉、さらに外貨が書き込まれている。面白いのは、骨が系統を現わしていて、似たものは近く、異なるものは遠くに書き分けられている。

下の内蔵部分はこれまでお金に対して感じてきた潜在的なイメージが描きこまれている。半分から左は悪いイメージで、右半分は良いイメージである。多義的なお金のイメージをよく表現している。

このような細密なイラストを見る限り、たぶん相当楽しんで書き込んでいったのではないかと思われる。それにしても、聞くのを忘れてしまったが、「おかね」と「さかな」にどのような共通点があるのだろうか。

おそらく、その方の経験のなかでは、かなりダブるイメージとして、貨幣と魚は近い関係にあるに違いないのだ。もしかすると、魚屋さんかも!!!。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。